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帰還の蝶【長編・本編執筆済み】  作者: 清水 朝基
第三章 目覚めの薔薇
13/15

薔薇の棘

 伸びやかな歌声に合わせて、羽織の裾が翻る。弾むような明るい仕草に、胸躍る。

 誕生祝いの宴で披露される、定番の歌と舞い。ファールサ随一と名高い舞い手の妙技を、一人占めできる贅沢を楽しむ。

 くるりと鮮やかに回り、決めの姿勢。歓喜に打ち震えるままに、拍手を送る。

 定型通りに座して礼をし、歩み寄ってきたカースィムを、憧れの眼差しで見つめる。

「ああ――やっぱり、黄玉様の舞いは、素晴らしいですね。何よりの贈り物です」

「ご満足いただけたなら、私も嬉しゅうございます」

 少し照れくさそうに微笑む顔。ステノゴが差し出した茶器を受け取ると、礼を言って、喉を潤した。

 茶色の瞳が、秋の最中(さなか)の景色を眺める。

「もう、八月も半ばなのですね――」

 ファールサに連れてこられて、二回目の誕生日。そして、メフリガーンで発布された人事を元に、少しずつ、準備が始まっていく時期でもあった。

 年末行事の火祭りを前にして、退宮の決まった者達は、〈薔薇の宮〉を去っていく。

 先月の八日に十九歳となったカースィムは、来年から、王〈シャー〉直属の書記官である王書官として働き始める。

 専門はターング語。なんとなく見当はついていたものの、かの国は、ヒンドゥシュを遠く越えた東にあるのだ。本人から聞いた時には、その遥かな旅路に、心底驚いた。

 起伏の少ない、高雅な横顔。マタラムともファールサとも異なる、宵闇のように黒く艶やかな髪。切れ長の、涼やかな目元。

 どんな思いを抱えて、この〈薔薇の宮〉で、日々を過ごしてきたのだろう。

 甘えてすり寄る言動に反して、瞳の奥底に光る、冷たい色。決して、楽しいばかりではなかったはずだ。

「――黄玉様。聞きたいことが、あるのです」

「何でございましょう?」

 優しく微笑む面立ち。慎重に、何気なく、言葉を紡ぐ。

「先日――授業で、東部の統治について学びまして。太守〈アミール〉は、どのようなお方なのでしょうか?」

 カースィムの顔が、さっと強ばる。微かにわななく吐息。

 伏せた目元に、わずかに苦いしわが寄る。

「……英明なお方にございます。皆、表立っては口にしませんが――太守〈アミール〉がいらっしゃらなければ、東部の統治は、困難を極めたでしょう。その手腕に助けられた者は、決して少なくございません。特に、ヒンドゥシュとターングの商人は、足を向けて寝られないほどの恩義がございます。母方の血を云々(うんぬん)したところで、その事実は、動かしようがございません。……ただ――」

 重石(おもし)を呑み込むように、浅い喉頭が動く。低めた声が、固い口調で語る。

「あのお方は、狂っておられる。理不尽な言いがかりで殺された者は、数知れません。噂に誇張が含まれていたとしても、全くの虚偽ばかりではないのです。――ですから、緑玉様」

 茶色の瞳が、かっと見開く。

 炯々と光る色。噴き上がる激情が轟く。

「あのお方には――あのお方にだけは、何があろうとも、決して関わってはなりません。たとえ離宮にお召しがあろうとも、決して」

 鬼気迫る形相。気圧されて、思わず身を引く。

「……黄玉様……? あの……ぼくは、ただ……」

 はっとして、青ざめた面立ちが、静かになっていく。

 戸惑うように目が泳いだあと、震える声が落ちた。

「……申し訳ございません――少し……嫌なことを、思い出してしまいまして……」

 片腕を握って、わななく手。

 首を振って、柔らかく告げる。

「いえ……ご忠告、感謝します。披露目の時のために、留意しておきます」

 カースィムは頷き、ゆっくりと溜め息を漏らした。そして、おもむろに顔を上げると、姿勢を正した。

 思案深げに目を細め、明瞭な声で語り出す。

「厚遇を得ようと、枝葉院の門を叩く者は、多くおります。それは、〈庭師〉も同じこと。ファールサが、いくら学問を重んじているとはいえ、莫大な費用を得て、研究のみに情熱を傾けられる環境は、そうございません。――そして、寵童付きの〈庭師〉には、死罪の危険に見合った銀が与えられると聞きます。担う寵童に、青薔薇が与えられれば、その俸給は、途方もない額となるでしょう」

 低く囁く歌声が、心に浮かぶ。

 ファールサの花で彩られた供物。どこからともなく仕入れてくる、クラムビル(ココナッツ)水の優しい甘さ。

 多くを語らない平淡な心根は、ただ酷薄なだけではないと、知っていた。

 マタラムを平らかな目で知る、ファールサ人。その、数奇であろう道行きを思う。

(……一度――話してみても、いいかもしれない)

 為された所業を、許すことはできない。

 ただ、憎むこともできなかった。むやみに()しく思うには、贈られたものが、あまりにも重かった。

「確かに、〈庭師〉からすれば、最上寵童付きになることは、この上ない栄誉でしょうね」

「そのように、高尚なものであれば、よろしいのでございますが――」

 棘のある声音。口元が歪み、皮肉の滲んだ笑みを漏らす。

 何か、気に障ることでも言っただろうか。戸惑っていると、ふっと、カースィムの表情が緩む。

「……いけませんね。どうしても、悪いことばかり思い出してしまう」

 気を取り直すように、溜め息をつく横顔。

 ひとつ身じろぐと、柔らかく微笑んで言った。

「退宮後、よい舞い手がいないなどと言われるのは、不服にございます。緑玉様さえよろしければ、お手隙の時に、ご指南差し上げたく存じますが、いかがでございましょう?」

 願ってもないことだった。居住まいを正し、丁重に礼をする。

「ありがたく、おたのみ申します、黄玉様。あなたにお話しして、ようございました」

「残り四ヵ月半。厳しくお仕込みいたしますので、お覚悟くださいね」

 あでやかな面立ちが、にっこりと笑む。

 それは大変だとおどけて、二人で吹き出した。


 ぱたぱたと、長い定規が畳まれていく。今度は秤に乗って、少し待つ。

 記録される数字。問診から、胸の聴診、首筋と手首に体内の触診と、淡々と診察が行われていく。

 毎月一日の健康診査。〈手入れ〉と称されるこの日ばかりは、〈庭師〉が昼間に現れる。

 あまりに珍しくて、初めのうちは、その髭のない顔を、まじまじと眺めたものだ。

 昨年からの記録を繰りながら、ほんのわずかに、ジャハーンの眉根が寄る。

「……ほとんど、伸びていないな。体重も軽すぎる」

 胸中で、溜め息をつく。どうにもならない現実が、ただ悲しかった。

 入宮した時は、スヌンゴと同じだった。そして、ノール人との混血であるサトリア――特に王家は、一般的なマタラム人より丈が高い。

 考えられるとすれば、ひとつしかなかった。

「〈土替え〉のあと、きちんと寝ていないだろう。それと食事だ。食べても、戻してしまうことがあるそうだな」

「……いびきがうるさくて、ねむれない。羊はくさいし、牛が出る。それに、小柄な方が、ベフナーム様はお喜びになる」

 細く長い溜め息。

 黒い瞳を見つめても、何の感情も読み取れない。ただ、うっすらと口元が揺らいだ。

「身体が成長すれば、多少は負担も軽くなる。そうでなくとも、今のままでは、いずれ健康を害する。〈花見〉の回数を減らして、牛は食事に出さないよう、私から各所に伝えておく」

 忖度のない、生真面目な回答。

 ふっと、表情を緩める。黒い眉毛が、怪訝に寄る。

「少し、文句を言ってみたかっただけだよ。最上寵童になるためにも、もっと努力しないと。――だから、ジャハーン」

 決心したことだ。それでも、いささか声が震えた。

「〈土替え〉のあと、受寵の評価を聞かせてほしい」

 推し量るような視線。黒い瞳を真っ直ぐに見つめて、訴える。

「手をつくさずに、後悔したくないんだ。囲われた花々でも、愛でる者をあざむけるのなら、棘を持つ薔薇が、何もなせないはずがない」

 だから、大輪の薔薇として咲くのだ。

 棘が隠れて、刺し貫かれていると、わからぬほどに。

「……そうか。ただ、私は一人しか知らない。あまり期待するな」

 平坦な口調。悲痛な色が、黒い瞳に浮かんで消える。

 誰なのか、興味が湧いたが、礼を言って、静かに頷いた。


 絢爛な刺繍の羽織が翻る。

 冬の厚手の生地に振り回されないよう、腹にしっかりと力をこめる。稽古をつけてくれたカースィムの助言を念頭に置きつつ、一挙手一投足に気を配る。

 まるで、祈るように清廉に。

 まさか、自分に気品が備わっているとは思いもよらなかったが、最大の強みになるという。

 ――色目を使って誘惑するなど、誰にでもできるのですよ。その高貴な立ち振舞いは、田畑を耕して生きた者には、決して到達しえない境地なのでございます。

 その、敬意に満ちた眼差し。供物を捧げて拝む人々と重なった。

 さざなみに揺れる、漁師の小舟。賑やかな屋台。日々の祈祷。素朴な営みが、つつがなくあるよう、切に願う。

 おもむろに膝をつく。(こうべ)を垂れ、静かに告げる。

「――おそまつ様でございました」

 打ち震える息遣い。感嘆がこぼれる。

「……おお……これは、なんとのう……」

 丸い髭面が、緩やかに笑みに変わる。

「ただ巧くなっただけではなかろうて。そちの歌と舞いには、心がある。この感動を、皆にも早く分けてやりたいものよ」

「まだまだつたなく、おはずかしゅうございます」

「なかなかどうして。謙虚だのう」

 控えめに微笑む。手招きされて、隣に座る。肥えた胸にすり寄る。

「でも、早く宮殿に上がれたらと、思わずにはいられません。そうしたら、あなた様のお側に、ずっといられますもの」

 おもむろに、出っ張った腹をなぞる。上目遣いで見つめながら、甘えて囁く。

「慕わしいベフナーム様。昼の間中、ぼくがどんな気持ちか、おわかりになって? 薔薇は、水差しから、しずくが注がれるのを、待ち望んでいるのですよ」

 急にへこんだ先。膨らんだ山を撫でる。はちきれそうな太腿に、自らの弓を這わせ、腰を緩く揺らめかせる。

「我が可愛い小鳥よ。昼夜ともにいられたら、どんなにかと、わしも思うておる。おお、おお、まっこと愛らしいものよ」

 分厚い唇が落ち、舌が絡む。淡く喘ぎながら、下衣と下着の紐を解く。

「よく、見せてください――ああ、なんて……ご立派な弓なのでしょう……」

 息を熱くして、吹きかける。舌でなぞり、末弭(うらはず)を含む。

 淡々とした低い声が、脳裏に響く。

(……今、口にあるのは、ぼくの一番好きなもの……すごく、おいしいもの……)

 自分を騙せなければ、相手を魅了することなどできない。

 てっきり、技術的な話が来ると思っていたから、まさに目から鱗が落ちる心持ちだった。

 唾液を口内に満たし、脈打つ弓を丹念に味わう。

 今日は、しょっぱいものが食べたい気分だから、腸詰めだと言い聞かせる。香草が効いていて、臭みが少ないから、羊料理でも、わりと好きな部類だった。

 いつか、こんな見立てをしなくても、恋慕する相手の身体として、愛せるように――その時がきっと、薔薇が青く咲く瞬間となるのだろう。

 密かに、自らの弓を、股の間に挟み込む。内腿をすり合わせれば、官能が背筋を這ってくる。感覚が豆粒に伝染するよう、意識を集中させる。肌着にこすれて、息が上がった。

 鷹揚な声が、愉快そうに降ってくる。

「腰が揺れておるの、シャーグルよ。もどかしいか」

 一瞬見つめ、恥じらってそらす。声を高く漏らしながら、限界まで深く含む。まるで、期待するように、腰が跳ねる。

 肩に手が置かれて、視線を上げる。

「まっこと、そちは健気じゃのう。――ほれ、見せてみよ」

 羽織を滑らせ、帯を解く。ためらいがちに、肌着を引き上げた。

「おお、これほどに膨れて。まずは、この愛らしい豆粒からだの」

 無遠慮に摘ままれて、甘く悲鳴を上げる。

 やわい果て。思わず、といったように、胸を突き出す。

 爪弾かれ、こねられ、吸われる。押し倒されるままに、全てが剥がされる。分厚い舌が粒をつつき、毛深い手が弓をしごく。

 たまらず喘いでいると、一気に身体が広がっていく。太い首にしがみつき、のけ反って叫ぶ。間近の髭面が、満足げに語る。

「それほど良いか、シャーグルよ。おお、わかるぞ。また果てたよの」

「そんな、おっしゃらないで――やん、あぁっ!」

 苦しい。口から身体の中身が飛び出ないのが不思議だ。

「ベフナーム様っ……ああ、ぼく、もうっ……ベフナームさまぁっ……!」

「可愛いのう。いとしいのう。愛くるしい小鳥よ。我が寵を、存分に受けるがよい」

 幸せそうに目を細めて微笑む。そして、ほとばしる衝撃に、全身で叫んだ。


 轟々と響くいびき。おもむろに起き上がり、上衣を引っかける。そして、部屋の隅で座す〈庭師〉の前に立った。

 差し出された手ぬぐいを受け取って、〈花台〉に乗る。布を、口に押し当てる。

 探られ、掻き出されていく。本来の用途ではないと、まざまざと現実が迫ってきて、涙が伝う。

 それでも、残したままにすれば、腹を下す。

 しゃくり上げながら、〈土替え〉が終わるのを待つ。

 全ての作業を終え、丁寧に拭ってから、平淡な声が問う。

「どこか、違和感は?」

 声も出せず、首を振る。抱えられ、〈花台〉から、そっと下ろされる。

 差し出された木椀。淡く白濁した液体を飲み下せば、クラムビル水の瑞々しい味がした。

 優しく甘い故郷の味。泣きじゃくりながら、裂けた喉の渇きを癒す。目顔で問われて、器を渡す。

 あまりにも量を飲むから、腹が緩くならないかと、最初は心配されたが、喉が渇けば、その辺に生えている木に登って、採っていたのだ。マタラム人の身体は、クラムビル水でできているといってもいい。

 山刀で穴を開けて、飲み干したら、ふたつに割って、真っ白な果肉を匙で削り出して――たくさん食べると、食事が入らなくなるから、片割れは、いつも姉の担当だった。

 ぱたぱたと、涙が空の器に落ちていく。

 木椀と引き換えに手ぬぐいを受け取って、顔を覆った。


 *


 ソル暦二五二年二月下旬。

 高く隆起した喉頭が、絶え間なく上下する。

 威勢のいい溜め息を吐き出し、金灰色の髭に覆われた口元が、豪快な笑みを弾けさせる。

「いやあ――やはり、一仕事終えたあとの酒は、たまりませんなあ!」

「お前の飲みっぷりほど、清々しいものはないよ、ヘリイェイル」

 同じように飲み下しながら、ほっと息をつく。蜂蜜酒の濃密な甘さが、心身に染み渡る。

 全ては、うまく進んでいた。

 宮殿の内には、正后ナスリーンと寵童となったマタラムの王子が、外には、太守〈アミール〉のメフルダードがいる。

 特に、アスパダナから届いた知己の一覧は、そうそうたる顔触れで、その手腕を垣間見た心地だった。わざわざ長幼の順をひっくり返してまで、母親の身分にこだわった心境に、思わず首をひねったほどだ。

 残るは、国力の回復と戦支度のみ。

 幸い、熱病は、昨年も今年も例年通りの具合で、被害は最小限に留まっている。内帝将に指示した計画も、順調だ。

 懸念があるとすれば、ファールサに暮らす移民だろう。

 昨年の六月、関税の増額後の黒剛石が、とうとう流通に乗り始めた。

 シャフリカシャンのノール人居住区では、マタラム産の黒剛石が高騰し、手に入りづらくなっているという。

 居住区内の警備は、各国の領事に任されている。製鉄の炉の火が消え、武具の生産が滞れば、徐々に影響が出てくるだろう。

 また、十分に準備するとはいえ、仮に戦が長引けば、現地での調達も必要になる。居住区の鍛冶が安定しているに越したことはない。

 ふと思い出して、酒器から角杯に、並々と注ぐ姿に問いかける。

「――そういえば、区長の息子の件は、どうなった?」

 もし、マタラムの王子の協力が得られなかった時の代替策。そして、寵童に選ばれれば、その家族は、免税などの優遇を受けられる。

 ヘリイェイルは、古い付き合いであるノール人居住区の区長に、息子を枝葉院に受験させないかと、打診していたのだ。

「合格発表は、向こうの十一月半ばですから――遅くとも、来月の末には、結果の通知が届くでしょう」

 シャフリカシャンからブローノードまで、早馬なら三十五日。

 暦を計算し始め――酔いが醒めかけてやめる。ヘリイェイルが言うのだから、間違いない。今は、この快い気分を味わいたかった。

 角杯に口をつけて舌を湿し、あえて尋ねる。

「大丈夫なのか?」

 灰色の瞳が、ゆっくりと瞬く。

 囲炉裏の焚き火にきらめく、角杯のふちの金細工を眺めながら、落ち着いた低い声が、緩やかに語る。

「寵童になれるかは、王〈シャー〉の機嫌次第ですが――見目がよいことは確かです。何より、ノールの男子は、男娼宿では人気ですからな」

「……まったく、迷惑な話だ」

 ファールサと国境を接する南東のコルプ地方では、人買いによる少年の誘拐は、ありふれた日常になってしまっている。

 容貌のよい者は、男色の相手として男娼宿に、身体の壮健な者は、奴隷兵士として親衛軍人に、売られるのだ。それも、かなりの高値で。

 亡き父に続き、何度も抗議はしているものの、異教徒だからと、取り締まる気はないらしい。メフルダードは改める方針を示してくれたから、その点でも、何としても、王〈シャー〉の首をすげ替える必要があった。

 ヘリイェイルが、そっと目を伏せる。溜め息を漏らすように、微苦笑して言った。

「しかし――それが、我らの武器となる。……皮肉なものです」

「……わかっているさ。何を……させようとしているかくらいはな」

 女のように、男に抱かれる。それも、まだ初雪も降らない子供だ。

 そして、槍を受け入れる方法を考えれば、背筋が凍てつくような思いになる。

 しかし、背に腹は代えられない。今、一番に為すべきは、国のためにファールサを攻め落とし、マタラムの交易権を回復することだ。犠牲を嘆いている余地はない。

 外で、吹雪く唸りが轟く。

 口を引き結びながらも、心を偽らない、静かな灰色の瞳を見つめる。

「献身を、讃えこそすれ、詫びはしないぞ、ヘリイェイル。お前が、ステノゴ王子と区長の息子に、どれほど親しんでいようとな」

 金灰色の髭から、ふっと吐息がこぼれる。

 揺らめく炎を宿して、眉骨の下の瞳が深く輝く。

「元より覚悟の上。ただ、まあ――愚痴くらいは、言いたい時があるのですよ。実際に見なければ、わからないことも、多くありますから」

「どうせ夜は長い。苦労話を伺う時間は、たっぷりとありますよ、スノーの叔父殿」

 角杯を悠々と掲げる。

 悪だくみを思いついたような、愉快を湛えた灰色の瞳。

 囲炉裏の熱を飛び越えて、高らかに、再びの乾杯を歓呼した。


 *


「……とうとう、この日が来てしまいましたね」

 上体を起こしたカースィムを見つめる。涼やかな目が、淡く微笑む。

「寂しくはございますが――私は宮殿におりますから。お披露目ののちは、また会うことも叶いましょう」

「――そうですね。またお会いできる日を、楽しみにしています」

 麗しい面立ちに、優しい笑みが浮かぶ。そして、慮る声音で告げた。

「でも、たまにはお便りをくださいませね。私は、緑玉様の詩の虜なのですから。題材にお困りでしたら、いくらでもご協力いたしますよ」

「ありがとうございます。少しでも、舞いの稽古のお返しができればいいのですが」

 その心遣い。温かく、真摯に受け止める。

 王書官の所属する文書庁は、政務における文書全般を作成している。ファールサの国情を知る上で、とても重要だった。そして、マタラムに関する文書も、管轄内なのだ。

「あなたがいらしてから、私の舞いも、意味があるように思えました。本当に、楽しいひとときでございました。どうぞ、ご息災で」

「黄玉様も。どうぞお健やかに」

 柔らかく頷いて、カースィムが深く頭を下げる。

 高雅な姿が辞し、富貴花は、あでやかに舞い散っていった。

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