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帰還の蝶【長編・本編執筆済み】  作者: 清水 朝基
第三章 目覚めの薔薇
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故国の証

 頭の中で、先ほどまでの稽古の内容を、あれこれ復習する。

 今日は、師範にたくさん指摘されてしまった。

 どうにも、舞いは考えることが多くて難しい。

 もともと身体を動かすのは苦手だったから、仕方ないのだが、最上寵童を目指すのであれば、そうも言っていられない。

 披露目まで、すでに四年を切った。祝宴には、各国から国賓が訪れる。高官と面識を持つ、絶好の機会だった。

 しかし、通常の寵童は、公式行事に出席はできても、外交権限は与えられない。

 好機を活かすためにも、披露目前に最上寵童となり、正后の代理として、自由に活動できるようにする。それが、目下の目標だった。

 廊下を歩きながら、ひらひらと、手首を動かす。居室に戻ったら、通しで踊ってみようと頷く。首の振りをして、ふと、見慣れた姿が目に入る。

 年少の侍童と話す、黄褐色の横顔。身を寄せて、何やらひそひそと囁き合っている。

「いいの? ずっと、好みだなあって思っていたから、うれしい……」

「――あ、でも、そろそろもどらないと。ねる前でもいいかな」

「もちろん。……だけど、ちょっとだけ――」

 侍童の顔が、近づいていく。

 しかし、スヌンゴは抵抗もせず、佇んだままだ。

「ボルナー! 何をしている!」

 ふたつの頭が同時に向く。スヌンゴが謝ると、侍童は残念そうに去っていった。

 向き直って、スヌンゴが恭しく礼をする。

「申し訳ございません。どうしても、話したいことがあると、乞われましたもので……」

「それはいい。今、何をしていた」

 信じられなくて、声がわななく。悪い夢でも、見ているのだろうか。

「花遊び〈グリ・バーズィー〉のさそいを受けましたので、その約束をしておりました」

「グリ・バーズィー……?」

「はい。ファールサでは、気に入った者同士で、口づけを始め、〈弓張り〉や〈弓引き〉、〈弓比べ〉をするそうです。大人になっても変わらない、強いきずなで結ばれると言いますし――せっかくなので、試してみようかと」

 血の気が引く。気がつけば、肩を引っ掴んで叫んでいた。

「どうして、そんなばかな真似を! 男色が、どれほどの悪行か、スードラのきみでもわかるだろう!」

「……だからこそでございます、ステノゴ王子」

 濃茶色の瞳を見つめる。

 その、静かな色。覚悟を決めた表情に戸惑う。

「あなたを、お一人で行かせるわけにはまいりません。わたしも悪鬼となり、死しても、お供いたす所存でございます」

「スヌンゴ……まさか……」

 手が震える。沈痛な面持ち。微かな声が語る。

「……ジャハーン師から、うかがいました。寵童の意味を――どのような行いが、なされているかを」

 膝から力が抜けて、崩れ落ちる。しゃがんだ真摯な面立ちが、柔和に微笑む。

「あなたにお供できるならば、どうということはございません。スムナリ王女とも、ごいっしょできるのですから。きっと、楽しゅうございましょう」

 思いきり(かぶり)を振る。マタラム人らしい顔立ちを見つめる。

 日に焼けた、黄褐色の肌。彫りの浅い目鼻立ち。濃い色の、丸い瞳。

「スヌンゴ。お願いだから、きみは善の内にいて。きみは――きみだけが、ぼくとマタラムをつなぐ、ゆいいつの証なんだ。きみとヤワ語で話す時だけが、ぼくにとっての生なんだ……だから……だからっ……」

「ステノゴ王子……」

 そっと、手が取られて包み込まれる。穏やかな、しかし決心のこもった音色が語る。

「わかりました。祈祷などはかないませんが、シワをおまつりする者として、でき得る限り、善行を積みます。誠にせんえつではございますが――王子、あなたの分もふくめて」

 しゃくり上げながら頷く。背後で、ファールサ語が投げかけられる。

「緑玉様。そろそろ、お使者のいらっしゃる頃です」

「――わかっているッ!」

 怒声とともに振り返れば、冷ややかな目が注ぎくる。スヌンゴが、手ぬぐいを差し出しつつ、そっと促す。

 布で視界を遮り、深く呼吸する。

 礼を言って返すと、顔を上げ、居室へと歩き出した。


 絨毯に配膳された夕食。口に運ぶ度に、羊の独特な臭みが、鼻をつく。

 毎日、毎日、ファールサ人は、飽きもせずに羊を食べる。脳まで煮込んで食べるのだから、もはや取り憑かれているといってもいい。

 この臭みが、どうしても慣れなくて、飲み込むと、すぐに胃が暴れ出す。きっと、身体が食べ物と認識していないのだろう。

 それでも、かけがえのない命だ。茶で、なんとか飲み下す。

 空になった皿を見渡して、安堵する。指洗いに右手をつけ、布巾で拭えば、終了の合図だ。

(――ごちそうさまでした)

 心の中で、手を合わせる。ファールサ語にも、同じ意味の文句があればいいのに、と思う。

 居間へと移って、文箱から、紙と葦筆を取り出す。

 今夜は〈花見〉がないから、ゆっくり詩作に励める。師範からの課題に取り組むには、絶好の機会だ。

 腿に、下敷きの板を載せる。題材は自由。その分、難易度は上がる。

 紙面を眺め、頭をひねる。さざめく波の風景が浮かんで、(かぶり)を振る。ファールサ人の気に入る景色でなければならない。

(……月……太陽……花……どれも、ありきたりだな……)

 しかし、ありふれた題材から、巧みに生み出すことこそ、真の創造性ではないか。思い直して、中庭を眺める。

 月影に照らされた噴水が、白く輝いていた。薔薇はもう終わってしまったが、葉の緑が艶やかに濡れている。初夏の瑞々しさを感じる、美しい光景だった。

 葦筆を右上に置いて、書き始める。

 ファールサ文字は、続く単語で形が変わるから、緊張の一瞬だ。一言一句に心を注ぎ、丁寧に綴っていく。

 意識が薄く広がり、静かになる。言葉は違うのに、まるで読経しているような気分だった。歌も舞いも楽器も悪くないが、やはり詩が一番好きだった。

 ふと、紙面が暗くなって、集中が解ける。鷹揚な声が降ってきた。

「なかなかのものよのう、シャーグルよ。さすが、わしが見込んだだけはある」

「――ベフナーム様っ……!」

 あり得ない姿に驚愕する。

 使者役の侍童は、確かに、見送りの旨を伝えてきた。手違いだとしても、〈追肥〉のために、ジャハーンが来るはずだ。手順が全く正しくない。

 素早く威儀を正し、礼をする。

「いらっしゃるとは存ぜず、誠に申し訳ございません。このような粗雑な格好で、おはずかしゅうございます」

「よい、よい。ちと、気になったことがあってのう」

 かけ声を呟きながら、巨体が座る。黒い髭をしごきつつ、焦茶色の瞳が見下ろす。

「シャーグルよ。この緑玉の間で、ヤワ語を聞いた者がおるようだが?」

 鋭く光る、細い目。あくまで平静に、なめらかに答える。

「宮殿に上がる時のために、周辺諸国の言葉は、習得しておいた方がよいかと存じまして。時折、ボルナーと練習しております」

「なるほどの。殊勝なことよ」

「おそれ入ります」

 目を伏せて、少し深めに礼をする。

 顔を上げれば、機嫌のよい笑みが告げた。

「我が可愛い小鳥よ。〈薔薇の舞い〉が、見たいのう」

 すっと、背筋が冷える。

 舞いの終わったあとに、起こること。〈庭師〉の不在。冷たい威圧に光る目。その意図を悟る。

 要望など、言い出せるはずもない。観念して、(こうべ)を垂れる。

「……かしこまりました。ご披露させていただきます」

 髭面が、おおらかに何度も頷く。それから、控える侍童二人に向いた。

「他の侍童は、いずこかの?」

「下膳のため、(くりや)に行っております」

「そうか。ならば、其の方が知らせに参れ。――ボルナー、そちは残って、見物するがよいぞ。シャーグルの舞いは、まっこと素晴らしいゆえのう」

 思わず、その巨体を凝視する。

 一瞬、戸惑うように瞳が揺れつつも、スヌンゴは深く頭を下げた。

「誠にせんえつながら、拝見させていただきます」

 伝達役の侍童が退室する。

 扉が閉まり、静寂が、あたりを包む。

 ベフナームの正面に立ち、そっと息を吸う。歌いながら、くるくると舞い踊る。

 羽織の裾が翻り、豪奢な刺繍が灯火にきらめく。誘うように手首をしならせ、腰を揺らめかせる。品は忘れず、優美で繊細に。

 毛深い手が菓子の盆に伸びる。

 おもむろに、寝間着の上を脱ぐ。衣擦れの音を響かせて、なまめかしく。

 羽織の中で腰を振りながら、内腿に両手を這わせる。

 それから紐を解き、下衣を取り払う。ベフナームが並々と茶を注ぐ。背を向けて尻を突き出しつつ、下着を下ろす。

 羽織を操り、肩まではだけても、肌は見せないように舞い続ける。

 一杯、二杯。あおって、こんと茶器が鳴る。立ち上がる巨体。肥えた腹を露にしつつ、迫ってくる。

 背を向けて羽織を滑らせ、膝をつく。

 感触が来たと思った瞬間、一気に身体が砕けた。

「いやはや、柔らかくなったのう。とはいえ、締まりは変わらぬ。まっこと、そちは素晴らしき薔薇よ」

 太い指が、胸の粒を摘まみ上げる。肉厚な短い腕にしがみついて、悲鳴をこぼす。

「そんな、にっ……引っ張ったらあぁっ!」

 爪を立てられ、にわかに果てる。

 執拗に、爪弾き、こね回し、摘まんで引く、肥えた指。悶えながら、びくびくと跳ねる。

「おお、良いのう。良くてたまらぬよのう。大きく膨れて、この愛らしい豆粒よ。どれほど育つか、まっこと楽しみだのう」

 はらはらと涙を流す、濃茶色の丸い瞳。

 スヌンゴは、風呂で世話をしながら、どんな思いで見ていたのだろう。

 明らかに肥大した、胸の粒。スヌンゴの方が、背も伸びて、どんどん成長していくのに、そこはずっと、存在するかどうかわからない、ただの点だ。

 きつく引き伸ばされたまま、打撃に身体が押し出される。響き渡る破裂音。激しい官能が、腰から突き抜けていく。

「よう締まるぞ、シャーグルよ。そちは、果てる方が好きよの。もっと欲しかろう?」

 悶えて嬌声を上げ、甘くねだる。弓を立派だと誉めそやせば、昂った声が降ってくる。

 手が離れ、肩を突かれる。崩れるまま、床に倒れ伏す。

 尻に叩きつけられる、肥えた腹。突き破りそうなほど、奥深く轟く。押し出されるように、悲鳴が喉を切り裂く。

(もういやっ! 早く終わって……!)

 散乱した衣。その、鮮烈な赤。

 数多の矢が突き立った父。噴き上げる血。倒れゆく兄。泣き叫ぶ、幼い弟と妹、甥と姪達。行方の知れない――おそらく殺されているであろう、母達と義姉(あね)達。スクワト。

 ――砕けた、姉の顔。

 ただ、普通に暮らしていただけなのに。ファールサに戦いを仕掛けたことなど、一度もないのに。

 絶叫の中で、ひたすらに許しを乞う。上機嫌な声が、愉快に笑う。

「我が可愛い小鳥よ。さえずる言葉を思い出したようだのう。何よりなことよ。――ほれ、もっと歌ってみよ」

 尻を叩く音が、高々と突き抜ける。弾ける痛みに、身体が跳ね飛ぶ。

「おお、よう締まるのう! 良いぞ! 良いぞ! シャーグルよ、今こそ、白矢をたんと射てやるからの!」

 二つの破裂音が、居室中に轟く。

 何の感覚かもわからない強烈な官能。がくがくとわななくまま、呻きをこぼす。

 腕をひねり上げられて、仰向けになる。髭面が、満足げに笑う。

「なんとのう、愛らしい顔よ。今宵の〈花見〉は、まっこと素晴らしいものであった。のう、我が可愛い小鳥よ」

「……は、い……ベフナーム様……薔薇は、このように……咲き乱れて……悦楽に、ふるえて……おります……」

 膝裏を掴んで、腰を浮かせる。力を加減して、前後ともに痙攣しているように動かす。

「うむ。次の〈花見〉を、楽しみに待つがよい」

 砕けた身体を叱咤し、なんとか正座する。衣を整える巨大な背中に囁く。

「……慕わしいあなた様に愛でていただくことこそ、ぼくの喜び――心から、お待ちしております……おやすみなさいませ……」

 うむ、と頷いて、あっという間に、巨体が去っていった。

 扉が閉まった途端、ふーっと力が抜けて、倒れ込む。スヌンゴが、悲鳴を上げて駆け寄ってくる。

「……っステノゴ王子……! ああ、王子! 王子っ!」

 ぼろぼろと、こぼれる涙。きつく握られた手。

 しがみついて泣き叫ぶ背中に、そっと触れる。

「スヌンゴ……ごめん……ごめんね……」

 とうとう、本当に知られてしまった。

 どんな方法で、皆の命の保障を得たのかを。どんな言葉で、媚びを売っているのかを。不浄の場所で、快感を得ていることを。男にはない女の場所で、果てていることを。

 〈追肥〉もなしに、受け入れられる身体になってしまったことを。

 なんて、浅はかだったのだろう。話なんて、今夜、寝る前でもよかったのに。

 涙が、耳へと落ちていく。乳兄(あに)の悲泣の声を聞きながら、ただただ真っ白な天井を見つめた。


 *


 サカ暦七六七年カサ(一番目)の月の中旬。

 緑玉の寵童〈ボカ・ラナン・シン・ナムパ・シ・シャ・ラン・ペルマタ・イジョ〉。

 その、たった九語が、胸に重くのしかかる。どれほど読み返しても、直線的な癖のある字は、揺るぎはしなかった。

 ステノゴが、悪行に堕とされてしまった。決して浄められない悪行に。

 あんなにも気持ちの優しい子が、穢らわしい欲によって、辱しめられたのだ。それも、同じ男の手によって。

 王〈シャー〉は、父母を同じくする姉弟と、夜をともにしたことになる。その、おぞましさ。手紙を握る手がわななく。

(これ以上の恥辱を、味わえというのか――まだ、十一歳の子供に)

 外帝将の綴った答えは、受け入れがたいものだった。

 ステノゴを、間者として利用する。

 言葉を迂回させたところで、要はそういうことだ。詫びも、気遣いも、何もかもが詭弁だった。

 ファールサにいる限り、ステノゴは、夜ごと苛まれ続けるのだ。まだ初芽も出ないような年頃の子供を、どうして、そんなむごい場所に置いておけるというのだろう。

 緩やかに深呼吸をして、昂る心身を落ち着かせる。

 竹筆を手に取ると、反対の意を表した返信を、したため始めた。

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