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帰還の蝶【長編・本編執筆済み】  作者: 清水 朝基
第三章 目覚めの薔薇
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砕けた蝶

 初春の麗らかな陽光の下、賑やかなおしゃべりが響く。普段は表に出ない後宮の婦人達も、このスィーズダ・ベダルばかりは、城壁の外へと繰り出す。

 ノウルーズ仕様の、彩り豊かな外套と頭巾。男達の絨毯より、果物と菓子の多く盛られた皿。

 おもむろに歩み寄って、頭を下げる。

「ご歓談中のところ、失礼いたします」

 気づいて、三つの頭がこちらを向く。顔は見えないが、優しく微笑む気配がする。

「新年おめでとうございます。奥様方におかれましては、健やかな年となりますよう、お祈り申し上げます」

「ご丁寧にありがとうございます。あなたが、緑玉の寵童ですね。可愛らしいこと」

 ひときわ上等な衣を纏った婦人が、柔和に応える。勧められた敷き綿に座ると、ナスリーンと名乗り、他の二人の妃を紹介した。

「シャーグル・アーバーン・サブズと申します。幾久しく、よしなにしていただけましたら、大変うれしく存じます」

「もちろんですよ。お慕いするお方は、私達も同じ。どうぞ、仲よくしてくださいね」

 温かに微笑む気配。

 盛りに盛った菓子の皿を差し出されて、有難く、ひとつ摘まむ。

 姉に会えないのは残念だが、今年の夏に出産の予定だ。メフリガーンには、きっと会える。その時に、こうして茶と菓子を囲んで、ゆっくりおしゃべりできたらいいな、と思う。

 ころころと笑う、楽しい声。どこか、輪になって供物をつくる、女達のような雰囲気。

 芽吹いた春の中で、和やかなひとときを過ごした。


 透かし彫りの扉を開けると、乾いた風が火照った頬を撫でていく。真昼とは、うってかわった涼しさが心地よい。

 ファールサで暮らし始めた頃は、ただでさえ暑いのに、わざわざ熱い蒸気を浴びて、汗をかく気が知れなかった。

 しかし、風呂上がりに、ぼんやり過ごす楽しみを覚えた今は、案外悪くないと思える。

 ただ、春に入ってからは、どうしても、心が落ち着かなかった。

 昼下がりの陽光が降り注ぐ中庭。一面に咲き誇る薔薇。その、(けぶ)る芳香。

 今夜も〈花見〉に来ると、知らせがあった。しかも、夕食からだ。〈追肥〉があるから、早めに戻らなければならない。

 せめてと思って、境界へと進む。

 この湯殿は、ふたつの区画に分かれていて、薔薇の途切れた先は、後宮の婦人達のための女湯だ。まるで、住む世界が違うと突きつけるかのように、向こう側は多種多様な春の花々で彩られている。

 入浴には、まだ早い時間。もう少し遅いと、賑やかな声が微かに聞こえてくる。

 姉も、ナスリーン達と楽しくおしゃべりしながら、汗を流しているのだろうか。他の妃の子供達の世話を焼いて、我が子が生まれる日を待ち望んでいるのだろうか。

(……早く、秋になればいいのに……)

 メフリガーンまで、あと四ヵ月余り。出産を乗り越えた元気な姿が見られるよう、心の中で手を合わせ、経を唱える。

 ふと、遠く慌ただしい音が聞こえて、視線を上げる。

 空気を切り裂く悲鳴。快晴の澄んだ空を、鮮やかな色彩が泳いでいる。

 ひらひらとはためき、翻り、落ちていく。

 まるで、故郷の蝶のように美しい極彩色。

 惹きつけられて、手を伸ばし、おもむろに近づく。

 どさりと重い音を立てて、蝶が地面に叩きつけられた。

 視界が一面、舞い散る花弁に覆われる。心の震える景色に、薄く笑みを浮かべた。

 膝をついて、花園に埋もれた蝶を眺める。

 ひしゃげた身体。片目の飛び出た顔。

 その、見覚えのある――毎日のように見てきた顔に、現実が迫る。

「……あ、ね……う……え……?」

 それは、姉のスムナリだった。自ら飛び降り、息絶えた、姉の姿。

 カースィムも、ナスリーン達も、幸せそうだと話していた。秋になれば、あの優しい笑顔に会えると、思っていたのに。

 思って、いた、のに。

「姉上! 姉上っ! 姉上えええぇ――ッ!」

 半狂乱になりながら、歪んだ骸に取りすがる。

 弾みで仰向けになった先。膨らんだ腹に突き立った、果物刀の()。巻かれたヤワ更紗には、マタラム王家の紋様が、染め抜かれていた。

「……あ、……あ……」

 全身が、がたがたとわななく。吐き気がこみ上げてきて、両手で口を覆う。涙がとめどなく溢れて伝っていくのに、膨れた腹が、やけに鮮明に映る。

 弄り回されて、吐き出していた、あの液体。

 あれは、子の種だったのだ。

 それを、あの男は、自分の中に注いでいる。男である、自分の中に――ただ、性の悦楽のためだけに。強烈な恥辱に悶える。

 何が善行だろう。不浄以外の何ものでもなかった。どこかで気づいていたのに、穢されていたのに、漫然と受け入れてしまった。

(許さない……! ――許さないッ!)

 砕けて歪んだ姉の顔を見つめる。駆けくる足音。

 しゃれたものが好きで、いつも綺麗にしていたのだ。こんな姿は見られたくないだろう。

「……スヌンゴ、手ぬぐいを」

 涙声が応じる。受け取った洗いたての布を、そっと被せる。口の中で、経を唱えた。

 侍女達の姿が見える。

 心中で別れを告げて、中庭をあとにした。


 寝台に座し、煌々と輝く満月を眺める。

 あの日から一ヵ月。当日の中止以来、〈花見〉は、ぱたりとなくなった。

 ディーダム教では、妻を亡くしても、夫は、たったの三日間で服喪を終える。早々に訪れがあるだろうと身構えていたが、結局、何事もなく過ごした。

 代わりに、ジャハーンが定期的にやってきた。

 簡単な問診をしてから、近況を尋ねて帰る。ただ、その繰り返し。

 体調が急変することなどないのにと、苦笑しても、〈庭師〉の務めだと言って、やめなかった。

 断りがあって、スヌンゴが居室に入ってくる。他の侍童とともに、自室へと下がったはずなのに、どうしたことだろう。

 手にした盆を恭しく置いて、厳かな声が告げる。

「――ステノゴ王子。聖水と供物にございます」

 灯火に揺らめく、銀の器。花はファールサのものだが、確かに似ていた。

「円城外には、小さくはありますが、マタラム人居住区があるそうです。その住民達のために、プダンダ様がいらっしゃるとか。この聖水は今朝、ご祈祷によって浄められたもの。供物は、女達が正しくつくったものでございます。――どうか、お受け取りください」

 寝台から下りて、聖水に相対する。深く礼をし、引き寄せる。

 改宗しない選択は、ファールサでは重税による貧困を意味する。それでも、輪廻によって、再び島に生まれたいという願い。

 故郷を遠く離れて暮らす人々の心意気に、胸が詰まる。

「手配は、どなたが……?」

「ご想像の通りかと」

 髭のない顔が浮かぶ。

 よどみないヤワ語。冷淡な言動とは裏腹に、いつも優しく繋がる手。その静かな歌声を聞いていると、背後の轟音の中でも、眠りに落ちていけた。

 真意はわからない。それでも、信仰に反して、労苦を割いてくれたのだ。

 スヌンゴを促し、居間へと足を運ぶ。敷き綿を絨毯の隅にまとめて、中央に置いた。

 手を合わせ、経を唱える。後ろで、すすり泣く声。

 恣意的な殺生は、浄化できない悪行だ。

 特に、自ら命を断ったなら、魂は穢れきり、もはや輪廻は叶わない。悪鬼となって、地上に留まり、災いをもたらす存在となる。

 そうでなくとも、ディーダム教では、火による身体の焼却は、神ホダーによってのみ、罰として為されると考える。

 しかし、土葬されたままでは、魂は死んだことを自覚できない。祖霊にも加われず、永遠に現世をさまよい続けるのだ。

 と、器が淡く振れる。水滴が散って、花を濡らした。

「……姉上……そこに、おられるのですか……?」

 聖水の雫が、花弁を滑って盆に落ちる。

 滲んでいく花々を見つめて、再び手を合わす。

(ぼくは、ひどい悪行を犯しました。どんな善行を積んでも、死して火に焼かれても、もう浄化はかなわないでしょう。――だから、姉上。少しだけ待っていてください。必ず、無念を晴らして、そちらへ参ります。姉上を、一人にはしませんから……)

 ぽとりと、薔薇が、茎から落下する。

 そのむせかえる香りを握り締めて、ただひたすらに嗚咽した。


 *


 七六六年サドハ(十二番目)の月の中旬。

 燦々と降り注ぐ日差しの下、市場の出店の活気ある声が響く。

 通りを歩きながら、にこやかに挨拶する人々に応える。

「バガワド様、おはようございます。神々の平和を」

「おはよう。神々の平和を」

 ファールサの実効支配から、一年余り。島民達の暮らしは、落ち着きつつある。

 しかし、それは、表面上の話だ。

 子供達の外遊びをする歓声は消え、誰もが、不用意に一人で出歩くことを避けるようになった。若い娘や女達はもちろん、若い男も、例外ではなかった。

 ノール人の血が混ざるサトリアを除いて、一般的なマタラム人は、小柄で体毛が薄く、顔の彫りも浅い。肉厚で濃い造作のファールサ人からすれば、ずいぶん幼く見えるのだろう。

 ある日の夜、棚田の様子を見に行ったきり、夫が帰ってこないと、麓の村で騒ぎがあった。

 村人総出で捜索し――見つかったのは、腰布を剥ぎ取られ、打ち捨てられた姿だった。

 すでに三十歳を越え、誰が見ても、少年ではないとわかる容貌。

 しかし、ファールサ人は、男色の対象――成年の男ではない者と判断し、毒牙にかけたのだ。

 事件は瞬く間に、王都から近郊の村落にも広がり、武力による支配とは何たるかを、人々に知らしめた。

 島民達の目からは純粋な素朴さが失せ、奥底に、怯えた警戒心が光るようになった。

 そして、今日は、秋の収穫祭に献上する品を選定しに行く。

 祖師が島民を救う前の暗澹たる時代のように、生かさず殺さず、搾取されていくのだろう。

 マタラム支庁舎となった宮に着く。門前に掲げられた旗を見上げる。

 青空のしみのように、黒々とはためく、マフターブ家の印。違和感を覚えて、門衛に尋ねる。

「あの小さな旗は?」

「喪章だ」

 それだけ言って、衛兵は、視線を中空に戻した。納得して、再び眺める。

 わざわざ掲揚するほどの人物。王〈シャー〉の一族の、誰かなのだろう。

 しかし、そんなことはどうでもよかった。誰が死のうと、関わりないことだ。むしろ、ノールの熱病のような、恐ろしい疫病が流行ってくれたら――。

(……何を、詮のないことを)

 小さく溜め息をつき、首を振って、邪心を追い払う。

 顔を上げて気を取り直すと、石壁の中へと歩んでいった。


 照りつける光が痛い。足りない息に、胸が異様に膨らむ。緑の絶えた、土くれの地を踏み締めて進む。

 クヌニ山の頂きは、何ものにも代えがたい聖域だ。特別な祭礼のない限り、立ち入ることは許されない。

 それでも、どうしても登りたかった。北東の方角を、遥かに眺めたかった。

 視界が開け、小さな祠が目に入る。

 杖を小脇に抱えて合掌し、息を大きく吸い込む。

 経を唱え終えると、深く一礼し、さらに歩みを進めた。

 悠然と広がる地平線。紺碧から群青へと移ろっていく、海の色。陸地の片鱗すらない、その広大さ。

 亡くなったのは、四人目の妃だった。

 当局に確認した一〈シジ〉の大臣が話すには、不慮の事故だったという。

 こんな残酷なことがあるだろうか。大切な家族が――腹違いの姉が亡くなったというのに、何の知らせもないとは。

 ファールサは、あくまでも、強奪した王女ではなく、元からいた正后の侍女である、という主張を貫くつもりなのだ。

 当然、火葬はされず、魂は、ファールサの地に留められたままとなる。この島に、帰ってくることはない。

(……姉上……)

 叶うはずだった夢を抱え、どんな思いで、逝ったのだろうか。苦しまずに、眠れただろうか。

 空と海の青が、滲んで混ざり合う。嗚咽をこぼしながら、ただ澄んだ色を見つめる。

 スクワトの消息は、わからないままだ。あれから便りもない。きっと、無事ではいないだろう。

 それならば、せめて、ステノゴだけでも取り返さなければ。

 生きているうちに。命が、あるうちに。

 ――たとえ、悪行に堕とされていたとしても。

 塩の含んだ風に乗って、潮騒が吹き抜ける。彼方の大陸に心を馳せて、溶けた青を眺めた。

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