【未来を視る男、戦国を終わらせる】
鉄の匂いで目が醒めた。
喉に泥と血の味が絡み、耳には太鼓と怒号が襲いかかる。
いつの間にか鎧を着せられ、腰には刀。振り返れば燃え上がる茅葺の屋根が空を赤く染めていた。ここがどこかを考える暇もなく、後方から怒鳴り声が飛んだ。
「若えの、前へ出ろ!」
反射で走った。槍の柄が手に馴染む感触に、奇妙な既視感があった。
突入した瞬間、時間がずれるように細く伸びた。目の前の男の動きがスローモーションになり、その唇が血をはじき、首が折れるまでが一本の線で通り過ぎた。
空気が元に戻ると、その男はまだ生きていた。だが、俺は確信していた。その先に「首が落ちる」光景が立ち上がっているのを。
槍を突き、首は弧を描いて落ちた。歓声が上がる。呼吸が震えた。あとから知ったが、あの時の一瞬は、これから何度も俺を突き動かす呪いの始まりだった。
名は周防弥一郎。二十一世紀の勤め人だったはずの俺が、戦国の一兵卒としてこの名を背負っていた。初陣で挙げた首級の重みと、同時に胸に残った違和感。未来が見えるというより、死の線が指先に触れたように感じられた。最初は偶然か幻覚だと思った。
だが、次の戦、次の戦で同じことが起きる。矢の軌道、槍の一閃、将の落馬の瞬間が、映像のように先に見える。数秒先の「終わり」が視えるだけだ。人の生き死にの最短距離が、俺の前を通り過ぎる。
それを利用した。見えた線を避け、見えた一瞬に矛を合わせれば、負けは減る。死を知るだけでは救えないことも多い。視た瞬間にするべき動きをしても、視た結末が分岐しても、誰かは必ず絶命した。
だが、その「誰か」が己の陣さえ守ってくれれば、次の戦があり得る。生き残った者が次の策を練るからだ。俺は生き残ることを選んだ。命を継ぐことで、いつかは視えない将の未来を奪還するために。
数年のうちに、周防弥一郎の名は小さな範囲で知られるようになった。敵を討ち、味方を導き、戦功を重ねる。だが噂は嫉妬を産む。ある夜、仲間の古参が笑って肩を叩いた。
「お前、運がよすぎるな」
と言うだけで、余計な説明はなかった。運ではない。俺は淡々と戦の流れを説明しない。秘密を持つ兵は、時に長く生きられる。
織田信長と出会ったのはその後のことだ。若きカリスマは戦場で虚を突き、誰よりも速く時代の裂け目を見定める。彼は俺の動きをじっと追い、短く言った。
「貴様、何かを視ておるな」
問いを期待するような目だとは思わなかった。その代わりに出た言葉は命令だった。
「その才で、余に仕えよ」
仕えると言われれば従うしかない。だがその夜、俺は思った。信長の瞳には燃え盛る炎のような確信がある。あの確信に触れることは、未来を知る俺にも新しい景色を見せた。
信長のもとで、俺の未来視は次第に精度を増した。戦場全体の形が掴めるようになり、軍の崩壊する線、夜襲で失敗する箇所、裏切りが生まれる瞬間までが視えることもあった。
だが「将の死」だけは見えなかった。信長の前に立つと、なぜか視界が白く飛ぶ。彼だけが予測から外れるのだ。それを不思議に思いながらも、俺は与えられた役をこなした。先鋒に立ち、敵の重心を見抜き、相手の呼吸に合わせて斬り込む。それだけで世は動いた。
だが力には代償がある。視えるということは、他人の終わりを何度も目に焼き付けることだ。敵の死を見て刀を振るたび、味方の笑顔が死の面影と重なる。
夜に夢の中で斬首の場面が繰り返され、寝汗で着物が貼り付く。やがて、視えた相手の死と自分の死が重なり合う瞬間が訪れた。
ある合戦の朝、俺は胸の中に別の未来の影を感じた。誰かの死線と自分のそれが絡み合って、引き裂かれるように痛かった。覚悟を決めて戦場に出れば、矢の雨が襲い、仲間の呻きが耳を満たす。視えた通りに敵将は落ち、俺は逃げ切った。
だがその夜、夢で見たのは自分の首が刎ねられる景色だった。視えることは祝福ではなく、呪いなのだと悟った。
信長はそれを見透かしていた。ある酒宴の夜、俺が黙って杯を傾けていると、彼はふと訊いた。
「弥一郎、余の先は視えるか」
俺は首を振った。
「恐れながら、殿の死は見えませぬ」
信長は笑った。笑顔の奥に刃を隠す男だと、この時初めて理解したわけではない。だが彼の言葉には理由があった。
「ならば、余の行く先はお前の眼で守れ」
簡潔で強引だ。だがその強引さが、戦国の流れを変えていく。俺は従った。信長の理不尽は、兵に夢を見せる力があった。彼に従う者は、確信を掴んだ者に惹かれていく。
やがて京への道が開け、天下布武の序曲が鳴るころ、俺の心は揺れていた。
戦の度に視界に浮かぶ「死」が増え、それを回避することで得るものも増えた。家臣の中での地位、領地、人が集まる。
だが、視えるものが多い分だけ救えない顔が膨れていく。子供の泣き声が戦場の遠くで聞こえる度、胸が裂けそうになる。未来を知る者は、常に二つの道を選ばされる。生き残るために誰かを犠牲にするのか、全てを救おうとして自分が潰えるのか。俺は未熟な判断を重ね、いくつもの罪を背負った。
そして、本能寺の夜がやって来た。
夜の空気が異様に重く、宿舎の灯りが揺れていた。目が醒めると、俺の視界に炎の予兆が立ち上がった。城が燃え上がり、あらゆる影が混沌とした流れを作る。信長の姿が炎の中心に座している。
だがその顔に「死」を映せない。焦燥が胸を締め付け、馬を駆った。だが京の街は既に破れ、寺は火に飲まれていた。
駆けつけると、そこに居たのは静かに座る信長と、刃を握る者たちの影。俺は叫んだ。
「殿、ここを離れてください!」
信長はゆっくりと立ち上がり、目を細めて言った。
「弥一郎、変えてみせよ」
その言葉にどう抗えただろうか。俺は飛び込んだ。だが、視えていたくだんの「死」の映像は、如何ともし難く現実へと朽ちていった。炎が天を裂き、戦の熱が肉を焦がす。俺は仲間を押し退け、信長の傍らで刃を交えた。防ぎ得たはずの結末を変えられない無力を噛み締めながら、ただ斬り続けた。
火が沈んだ後、瓦礫の中で手に入れたのは信長の印章と灰まみれの遺品だった。抱きしめたとき、握った感触が冷たく、ようやく俺は理解した。未来を視る力は、本能寺の炎と共に俺の中で途切れていた。あれほど鮮明に見えていた死の線が、ぱたりと消えた。信長の運命と共に、呪いが持ち去られたのか、それとも俺の心が燃え尽きたのか。どちらでも良かった。失ったものの重みだけが残った。
本能寺が燃えたあの夜から、未来は静かになった。
もう誰の死も見えない。
耳鳴りのように響いていた血の囁きも、今は何も聞こえない。
信長が死んだ。
未来を視る力も消えた。
だが、俺はまだ、生きている。
焦げた瓦礫の中、赤く染まった空を見上げた。
信長は炎の中で言った。「変えてみせよ」と。
あの言葉が、焼けた胸の奥に刺さったままだ。
――変えてみせる。
たとえ未来が視えなくても。
俺は生き残った兵をまとめ、京を脱した。
世は混乱している。
誰が主を討ったか、まだ確かなことは知られていない。
だが、信長の死を知らぬまま戦を続ける兵もいる。その混乱を、俺は見逃さなかった。
「周防様、どうなされます」
「このままでは群雄が群れを成す。天下が割れる。……ならば、まとめるしかない」
仲間の顔が凍りつく。
俺が言おうとしていることを、皆が理解した。
織田の旗の下にいた一兵卒が、自ら天下を口にするなど。だが、俺はもう恐れなかった。
未来を視られない代わりに、ようやく“自分で決められる”ようになったのだ。
戦で身につけた勘がある。
誰が裏切り、誰が生き残るか。
未来を視ずとも、今の動きでわかる。
戦場は、生者の癖でできている。
俺は信長の遺臣の中から、迷いなき者だけを選んだ。柴田勝家。滝川一益。丹羽長秀。そして秀吉。
あの男の動きは早かった。
誰よりも先に、「信長公の仇を討つ」と声を上げた。
俺は彼の陣に馬を走らせた。
再び太陽の下で相まみえた時、秀吉は笑っていた。
「おう、周防。生きてたか!」
「死ぬにはまだ早い。……殿の仇を討たねばな」
「同じことを考えてた。だが、どうする? 仇は明智だ。天下を敵に回す」
「明智を討てば、天下がこちらに傾く。殿はそれを望んでいた」
「未来が視えなくなったお前が、そこまで言い切るとはな」
「視えなくても、感じるんだ。信長様の火がまだ消えていない」
秀吉は短く笑い、俺に槍を放った。
「なら、お前が先陣を切れ」
その夜、俺たちは出陣した。
雨の中を、怒りの軍が駆け抜ける。
天正10年、6月2日山崎の戦い。
明智の軍はよく戦った。
だが俺の槍は止まらなかった。
信長様の死を燃料にして、全てを焼き尽くした。
敵将の首が落ちた瞬間、空が晴れた。
光の中で、俺は確信した。
——未来は、奪い取るものだ、と。
戦のあと、秀吉は俺の肩を叩いた。
「お前の槍がなければ、俺はここにいなかった」
「殿の火が、まだ俺たちを照らしてる」
「なら次は、その火をどう使う?」
その問いに答えられなかった。
だが、心の奥ではもう答えが決まっていた。
天下を燃やし尽くした信長様の跡を継ぐのは、誰か。秀吉か。柴田か。
いや——この俺だ。
俺は未来を視た者。そして、未来を失ってなお立つ者。
それから数年、天下は再び荒れた。
秀吉が勢力を広げ、柴田が北陸で兵を挙げる。
俺はどちらにもつかず、静かに兵を鍛えた。
周防の地を与えられた俺は、表向きは一大名として動き、裏では密かに、信長の旧臣や浪人たちを吸収していった。
夜になると、ふと思い出す。
あの未来の光景。
死ぬ直前の兵士たちの顔。
あれは呪いだった。
だが同時に、人の“命の形”を教えてくれた。
俺はもう、未来は視ない。だが、彼らの“今”は、俺が導く。
戦の準備が整ってきた頃、密偵が報せを持ってきた。
「豊臣殿が次に狙うは、関東。徳川殿との争いが始まるようにございます」
「……そうか」
空を見上げた。
信長様が夢見た天下布武。
秀吉が築こうとする太平の世。
どちらも、俺の“理想”とは違う。
信長は過去にこのような事を言っていた。
「燃やせ」
そうだ、ならば、燃やそう。この国ごと。
誰の未来も視えない世界で、俺が覇を掴む。
その夜、俺は軍議の席で告げた。
「明日より、我が軍は京へ向かう」
「はっ……! まさか、豊臣を?」
「そうだ。天下を統べる男は一人でいい。
そしてその一人は——俺だ」
兵の目がざわつく。
恐れと興奮が混ざり合う。
戦の匂い。血の予感。
かつての未来視と同じ熱が、体を貫いた。
俺は笑った。
あの頃の自分とは違う。未来を“視る”のではない。
未来を“選ぶ”側になったのだ。
夜風が吹いた。
どこかで焚き火がはぜる。赤い炎の向こうに、信長様の背中が見えた気がした。
「今度こそ——俺がやる」
未来を喰らう覇王、周防弥一郎。
戦国の炎を継ぐ者が、今、立ち上がる。
そして、天下統一の物語が動き出した。
――彼の見る未来は、もう誰にも読めない。




