第9章:団長の訪れ
その後、天幕をくぐって現れたのは軍医アレスだった。
簡素な診察具を寝台の傍らにある卓上に置く。
傷口の包帯を慎重にずらし、目の周囲に残る腫れや熱を確認する。
「峠は越えました。感染も見られません。ですが、しばらくは絶対安静です」
静かな口調の奥に安堵と疲労が滲んでいた。
セイランは黙って頷いた。
受け止める以外の言葉を、まだ心の内に見つけられなかった。
アレスが去って間もなく衛生兵が入ってきた。
「副団長、お食事をお持ちしました」
兵は盆に乗せた食器を丁寧に寝台脇の机に置いた。
「団長より伝言です。『今日の面会はまだ堪えるであろう。明日の午後に出向く。それまで身体を休めよ』とのことです」
深々と頭を下げ、兵は天幕の外へと去っていった。
残されたのは湯気の立つ素朴な粥。
くたくたに煮込まれた麦、そして淡く香る香草。
体に負担がかからないように工夫されている。
匙で粥をすくい、口に運ぶ。
ほんのりとやさしい塩味。喉を通ると胃にじんわりと沁みわたる。
食欲はまだ戻っていないと思っていたのに、気がつけば最後の一匙まですくっていた。
食器を卓上に置き、再び寝台に身を預ける。
光が少しずつ傾いていく中、まぶたを閉じると、呼吸もまた穏やかに整っていった。
◇ ◇ ◇
翌日の午後。
陽が穏やかに天幕を包む中、セイランは身支度を整えていた。
湯を張った手桶に石鹸をくぐらせ、軽く泡立てて頬と顎に塗る。
数日分伸びた髭を剃刀で剃り、水で湿らせた布で肌を拭う。
髪を整え、支給された軍服に袖を通し、寝台の端に腰を下ろした。
右目にはまだ包帯が巻かれ、時折痛みを堪えるようにわずかに眉が寄せられる。
それでも、姿勢を伸ばし、礼を欠かすことなく整えて待つ。
天幕の入口が風に揺れながらかすかに動く。
その向こうから重みのある足音が近づいてくる。
「失礼する」
天幕の入口から低く響く声がした。
ゆっくりと布を払って現れたのは、漆黒の軍装に金糸の徽章を添えた男。
肩にかかる外套の裾が揺れ、その一歩ごとに確かな重みが床を打った。
その姿は、数多の戦場を渡り歩いてきた者の風格を、そのまま体現していた。
立ち上がろうとするセイランを右手で制し、椅子を引いて寝台の向かいに腰を下ろす。
そして、口を開いた。
「顔を見られて、ほっとした。……よくぞ生きてくれた」
言葉の端々に微かな安堵がにじんでいた。
「この地を一任し、他戦線へ向かったこと……詫びねばなるまい。
結果として、お前に重荷を背負わせることとなった」
セイランはゆるやかに首を振った。
その仕草に怒りも非難もなく、ただ静かに受け止める色があった。
「ご無事で何よりです。団長。
この地を守り抜けたのは、私ひとりの力ではありません。
兵たちが、それぞれの持ち場を必死に守り抜いてくれました。私は守るべきものをただ守ったに過ぎません」
団長は短く頷いた。
そして、包帯で覆われた右目へと視線を落とす。
言葉少なに、しかし重みを含んだ問いが落ちる。
「……その目は」
セイランは、わずかにまぶたを伏せた。そのまま深く息を吸い、細く長く吐き出す。
そして顔を上げ、まっすぐに団長の目を見た。