第8章:目覚め
淡い光が天幕の中に満ちていた。
織布の隙間から差し込む光が静かに空気を照らしている。
その中にひとりの男が眠っていた。
寝台に横たわる男ーーセイランの顔には疲労が色濃く残っている。
頬はややこけ、唇は乾いて色を失いかけていた。
数日分の髭がうっすらと顎を覆い、いつもは整えられている髪も無造作に乱れていた。
その静かな寝顔が、ふと揺れる。
閉じられていた瞼がわずかに動いた。やがてゆっくりと持ち上げられる。
深い緑の瞳が現れた。
焦点が合わず、虚空を彷徨う。
しばらく、ただ天幕の天井を見つめていた。
頭が重い。全身が鉛のようにだるかった。
そして――
違和感に気づいた。
世界が、狭い。視界の右側が奇妙に欠けている。
ゆっくりと右手を持ち上げる。
しかし異常に重く感じられ、思うように動かない。
何とか持ち上げた手の指先を、右顔面にそっと触れてみる。
指先に触れたのは、幾重にも巻かれた白布と固く結ばれた包帯だった。
その刹那、右の眼窩に痛みが襲いかかる。
右目がドクンドクンと脈打うように痛み、意識がはっきりとする。
そして、敵の刃を受けたことを思い出した。
右目は、もう――
その事実に腕の力が抜け、手が寝台の上に落ちる。
しばらく、ただそのまま天井を見つめていた。
動くことも考えることもできなかった。
と、無意識に右手が動き胸元をさまよう。まるで何かを探そうとするかのように。
ハッと我に返り、上体をわずかに起こそうとするが腹に力が入らない。
だがどうにか身体を起こし、視線を床に向ける。
使っていた甲冑。脱がされた戦装束。
それらが布を敷いた上に置かれていた。
そこに何かを求めるように、寝台から足を降ろし立ちあがる、
……が、立てなかった。
ふらりと身体が揺れ、膝が抜けるように崩れる。
どさりと音を立てて寝台に尻餅をついた。
意識の回復と引き換えに、体は驚くほど弱っていた。
寝台に腰掛け、膝に肘を乗せるようにして顔を片手で覆う。
「……はぁ……」
深い深い溜息が漏れる。
悔しさ。情けなさ。絶望。
無力感が全身にのしかかってくる。
そのときだった。
ばさ、と天幕の布が揺れる音がし、入口の布がめくられる。
「……副団長!? 目を覚まされたのですか……!」
音に気がつき、見張りの兵が駆け寄ってくる。
「よかった……!本当に……」
兵は目を潤ませ、声を震わせながら続けた。
「もう3日間も意識がなかったんです。生死の境を――軍医殿もずっとつきっきりで……」
セイランは呆然としたまま、彼の顔を見つめる。
「……3日も?」
かすれた声が喉から漏れる。
兵は頷き、水差しから椀に水を注ぐとセイランに差し出した。
「戦は勝利しました。副団長が救護所を守ってくれたおかげで、衛生兵たちも、負傷兵たちも、ほとんどが無事です。団長も、南部の戦線で敵を制圧して、昨日戻ってこられました」
それを聞いたセイランはほっと安堵する。
「……そうか…」
椀を受け取り、ごくごくと水を飲む。
喉を潤す冷たさが体に染み渡る。
飲んだことで、己の喉が酷く乾いていたことに初めて気がついた。
飲み干した椀を、寝台の右側に置かれた小さな木机に置く。
と、その拍子に視線が机の上の一角に向いた。
小瓶――
慎ましい薬瓶が包帯や煎じ薬などともに置かれていた。
瓶に巻かれたラベルに記されていたのは見覚えのある筆跡。
ゆっくりと手を伸ばし、それを手に取る。
「……この小瓶は……?」
声が漏れた。
兵は一瞬きょとんとした顔をした後、思い出したように頷き答える。
「王都から早馬で届いた薬です。副団長が昏睡のとき軍医殿がそれを使って……。その薬がなければ助からなかったかもしれません」
セイランは小瓶のラベルを見つめる。
「目を覚まされたと軍医殿に報告してきます。それと、何か召し上がれそうなものをお持ちします」
兵はぺこりと頭を下げ、天幕の外へと去っていった。
天幕の中に静寂が戻る。
セイランは両手で握り込むように瓶を持ち直すと、ラベルに記された筆跡を親指でそっとなぞる。
そして何かを考えこむように、じっと見つめていた。