第7章: 早馬
翌日になっても、病状に大きな変化は見られなかった。
天幕の中は、静けさと焦燥が入り混じった空気に包まれている。
看護にあたる衛生兵たちの足音も自然と控えめになり、誰もが息を潜めるように動いていた。
アレスは、心の奥で覚悟を固めていた。
このまま熱が引かねば、3日と持たないかもしれない――そんな予感が、胸の中でじくじくと疼いている。
そのときだった。
天幕の外から、馬の蹄が近づく音が響いてきた。
砂を踏む音が止まり、控えの兵が幕をくぐって姿を現す。
泥にまみれた軍靴を気にしながら、小声で告げた。
「王都から、薬が届きました……!」
アレスは一瞬、聞き返すように兵の顔を見た。
急報を送ってはいたが、これほど早く届くとは思っていなかった。
差し出された包みには厳重な封が施されており、開けると木箱の中には薬瓶がきちんと並べられていた。
そのうちの一本を手にしたアレスは、思わず息を呑む。
「これは……貴族階級の医療用薬……?」
瓶に巻かれたラベルには、見覚えのある印章と、王都の医務室長の直筆と思しき走り書きが添えられていた。
――セイラン殿、最前線にて重傷との報。直ちに最良の薬を送る。
指先がわずかに震える。
手に持っていた薬の重みが増したような気がした。
アレスは瓶を胸に抱えたまま、急ぎ寝台のそばへ向かう。
セイランの胸は、まだわずかに上下している。
意識は戻らぬままだが、その命の灯火は、かろうじて燃えていた。
「セイラン様……薬を、飲めますか」
反応はない。
けれど待っている余裕もなかった。
アレスは瓶の蓋を慎重に外すと、銀の匙にわずかに薬液を垂らす。
顎を支え、静かに唇へと運んだ。
「口を……ゆっくり、開けてください」
その囁きに応じるように、セイランの口がほんの少し開いた。
液体はその隙間から注がれていくが、すべてが喉へ届くわけではない。
薬は口の端からこぼれ落ち、顎を伝って寝具を濡らしていく。
それでも、喉はかすかに動き、確かに彼は薬を受け入れようとしていた。
同じ動作を繰り返し、瓶の半分ほどを飲み終えたところで、アレスは彼の体をそっと横たえ直した。そして、口元の薬液を清潔な布で優しく拭い取る。
薬瓶は、他の包帯や煎じ薬と並ぶ木の卓上に、慎重に置かれた。
――効いてくれ。
その想いは、天幕にいる全員に共通する祈りだった。
アレスは無言のまま、幕をくぐって外気へと身を委ねる。
夕方近く。
額の布を取り替えようと戻ってきた衛生兵が、寝台の傍らで立ち止まった。
「……あれ……?」
ぽつりと洩れた声。
呼吸が先ほどよりも静かになっていた。
苦しげな唸り声も、眉間の深い皺も、わずかに和らいで見える。
熱の高さが、ほんの少し引いたのだろうか。
衛生兵は布を握り直すと、肩越しに後ろを振り返った。
その様子を察した別の兵が急ぎ幕の外へと走り出す。
しばらくして、微かな足音とともに天幕の布が持ち上がり、報せを受けたアレスが入ってくる。
セイランの額に手を当てる。
その指先に伝わる熱の変化に、ほんのかすかな、けれど確かな希望が灯る。
言葉はなかった。
だが誰もが、目の奥でわずかに安堵を浮かべていた。
まるで、長く閉ざされていた夜の向こうに、朝の気配を感じたかのように。
3日目の朝。
天幕の外では小雨が降っていた。風が布を撫でるたび、焚き火の小さな炎が揺れる。
その薄明かりのなかで、セイランの右手が、ゆっくりと胸元をさまよい始めた。
その動きは、鈍く、重い。
けれど何かを確かめるように、指先が布の上で止まる。そしてそのまま、静かにベッドの上に落ちていった。
傍らで看病していた衛生兵が、不思議そうにその様子を見つめていた。
4日目の明け方。
空はようやく白みはじめ、天幕の隙間から淡い光が差し込んでいた。
セイランの呼吸は、昨夜よりも穏やかだった。
額に浮かんでいた汗は引き、赤らんでいた肌の色も、少しずつ落ち着きを見せている。
その日の昼の刻。
静かに流れる時間のなかで、確かな兆しが現れた。
まるで深い眠りの底から、意識が少しずつ浮かび上がってくるように。
閉じられていたまぶたが、かすかに――震えた。