第29章 名前
と、そのとき。
「セイラン様っ!?」
頭上から、声が降ってきた。
見上げると、枝葉の合間に揺れる布の影。
驚きと共に目を凝らすと、そこには確かに、エラの姿があった。
「そんなところで何をしている……!」
木の上、枝のひとつに、しがみつくようにして腰かけているエラが、気まずそうに視線を逸らす。
「……えっと、その……」
セイランは雨のしずくに濡れた拳をぐっと握りしめた。
「そこにいろ」
そう言い、木の幹に手をかける。
雨に濡れ滑りやすくなっているが、気にも留めずに登り始めた。
「えっ……!? ちょっ、来なくていいです! 危ないです!」
動揺するエラの声を気にすることなく、セイランは枝から枝へと足を運ぶ。
やがて、彼女のいる枝に手をかけ、落ちないよう気をつけながらすぐそばに腰を下ろした。
「どうしてこんなところにいるんだ。どれだけ……心配したと思っている」
厳しい声。
けれどその言葉の奥に安堵が滲んでいた。
エラは唇を噛みしめたまま、目を伏せる。やがて、しずくとは違う、頬を伝う温かいものがぽつりと落ちた。
「……ごめんなさい」
それだけを呟き、膝の上で小さく指を握る。
「セイラン様の部屋の……引き出しを、見てしまいました」
「見ようと思ったんじゃないんです。窓が開いていたから……締めようと思って、部屋に入って……引き出しに書類がはさまっていて、それで、しまってあげようと思ったんです」
とぎれとぎれになりながらも、言葉を紡いでいく。
「それで……青い瓶を見つけました。これが何か、私は知っています」
一呼吸おいて、震えながら言葉にする。
「ーー惚れ薬ですよね。私が、かつて作ったものです」
胸にたまっていたものが堰を切ったようにあふれ出す。
「なぜこれを持っているんですか?」
セイランが少し困った顔をしている。
「ほかに、好きな人がいるんですか? ……いるんですよね? でも王命で、私と結婚しなければいけなくて……セイラン様はこれを飲んで私のことを好きになろうとしたんですよね?」
声がかすれる。
「違う」
セイランの低い声が、雨音の中に溶ける。
「違う? じゃあ、なぜ女性ものの髪飾りがあるんですか? 本当は好きな人がいて、でも王命で私と結婚しなければいけなくて。だから惚れ薬で自分の気持ちをごまかそうとしていたんじゃないですか?」
「違う」
「エラ」
名を呼ばれた瞬間、世界が静まった気がした。
「……え?」
エラが伏せていた顔をあげる。
頬を流れる涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃだったけれど、それを気にする余裕もない。
「私の名前、初めて……」
エラは瞬きをする。
フイ、とそっぽを向いたセイランの耳がほんのりと赤く染まっているのが見えた。




