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第15章:誓い

朝霧の名残がまだ森の梢に漂うころ、小道の先に車輪のきしむ音が微かに響いた。

薬草を煎じていたエラは、湯気に包まれた窓辺から外を覗き見る。


黒塗りの馬車が、静かに木立の影から現れた。側には数名の従者が控え、家令オルヴィン・グレイモンドの姿も見える。整然とした礼装に包まれた彼らの佇まいは、どこか祝祭の重みを伴っていた。


扉を開けたエラに、グレイモンドは静かに一礼した。



「ご準備は整っております。男爵家の屋敷にて、式までの静養のご手配がなされております」



数日後には、この森から離れ、異なる時の流れの中へと身を置くことになる。その現実が、胸の奥でゆっくりと響いていた。




 ◇ ◇ ◇




屋敷の一室。大きな窓から柔らかな光が差し込むなか、数名の針子が静かに作業を進めていた。

エラは、亜麻の下着の上に仮縫いのドレスを纏い、立ち尽くしている。部屋の中央には、真っ白なシルクに細やかな銀の刺繍が織り込まれた、まだ未完成のドレスがあった。


ひとりの年配の針子が、静かに声をかける。



「ノクター様、少々、腕をお下げくださいませ」



エラは頷き、身を委ねる。指先が生地をなぞり、糸が微かに引かれる音が、室内の静寂に溶けた。


鏡の中の自分を見つめると、そこには見慣れぬ女の姿が映っていた。

露出の少ない首元には繊細なレースが施され、腰から流れる布の動きは、歩みと共に静かに揺れる。全体に刺繍された植物の意匠は、まるで森を纏うかのようだった。



(……美しい……)



思わず胸に手を当てる。


そのとき、控えめなノックの音が室内に響いた。


針子の一人が声をかけると、扉が静かに開いた。


そこに現れたのは、整った正装を身に纏ったセイランだった。深い緑の瞳と黒革の眼帯。


かつて戦場にいた男とは思えぬほど、静けさを纏っていた。



「……これは、私からの贈り物です」



彼の手には、小さな黒檀の箱があった。針子たちが控えめに下がる中、セイランは箱を開け、中から一対のイヤリングと一つのネックレスを取り出した。


ミルキーブルーの宝石が、繊細な銀細工の中に揺れている。

その中心、ネックレスのトップには、深い森のようなエメラルドが一粒――まるで彼の瞳をそのまま写したようだった。


エラは言葉を失った。


その静かな煌めきは、派手さではなく、気品という名の輝きを放っていた。



「……明日はこちらを」



言葉は多くなかった。けれど、その一言に込められた思いが、静かに伝わってくる。


エラはゆっくりと頷き、首元と耳にそれらを身に着けた。


鏡に映る姿は、もはや森の薬師ではなかった。

けれど、違和感はなかった。森の中で見上げる朝靄の空のように――静かで、美しかった。



 ◇ ◇ ◇



式の日、天上に陽は高く、風は優しかった。

聖都アリステンの外れにある、古びた小教会。石造りの外壁は時を刻み、蔦が絡み、扉の上には色褪せた聖印が刻まれていた。けれど、そこには確かに、聖なるものの気配があった。


控室にいるエラの胸元には、昨日送られたネックレス。耳元では宝石が揺れている。


扉の外が静かに開いた。

正装に身を包んだセイランが、侯爵家の一家と共に現れた。


黒と銀の礼服に身を包み、微かに揺れる髪。

その姿に、エラの心臓が小さく跳ねる。


侯爵家の兄妹が近づいてきた。兄は穏やかで理知的な風貌、そして妹は……目が離せないほどの美貌だった。


煌く青の瞳。その澄んだ輝きにエラは思わず息を飲む。



(……こんなに、美しい人がいるなんて)




その後、式は静かに始まった。


神官の祈祷とともに、誓いの言葉が交わされる。

セイランの声が、堂内に低く響いた。



「エル・ノクターを生涯の伴侶として、敬い、支え合うことを誓う」



その言葉に続き、エラもまた震える声で答えた。



「セイラン・ルオネル・アルヴェインを生涯の伴侶として、敬い、共に歩むことを誓います」



光の差す中で、二人は誓いを結んだ。




 ◇ ◇ ◇




式を終え、しばらくしても、エラは夢の中にいるようだった。

礼拝堂を出て、小教会の回廊に立つと、どこか現実から離れた空気に包まれる。


ふと、セイランの姿が見えず、周囲を見渡した。


教会の庭先。そこに、セイランと侯爵家の兄が並んで立っていた。


兄の手から、何か小さな物がセイランに渡された。



「……大切なものなんだろ」



その言葉の断片が、風に乗って届く。


一瞬、陽が射し、セイランの手元で何かがきらめいた。


――深いブルーの宝石のようなもの。



「ああ……」



返された声には、温かさがあった。


それがセイランにとって、とても大事なものだということだけは、確かに感じ取れた。



(――これ以上は聞いてはいけない)



なぜか、そう思った。


エラは静かに踵を返し、教会の石畳を歩く。


胸の奥には、かすかな不安がぽつんとシミのように広がった。





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