第12章:王
城の最奥、玉座の間。
磨き抜かれた大理石の床が、足音を吸い込むように静まり返っていた。
天井からは王国の象徴たる獅子の紋章が刻まれた旗が垂れ、厳かな空気の中にただ一点、光の筋が差し込んでいる。
その中心に、ひとりの騎士がひざまずいていた。
純白と金を基調とした近衛騎士の正装。
左胸に佩かれた勲章の数々は、血と汗の結晶であり、護り抜いた命の証であった。
彼の名は――セイラン・ルオネル。
かつて王都の孤児院で育ち、剣の才覚とたゆまぬ鍛錬で騎士となり、王国の礎を支えた男である。
黒革の眼帯に覆われた右目は、もう見ることは叶わない。
けれど、その背は凛として折れることなく、静かに頭を垂れていた。
玉座に在すは、ヴェルハルト王。
年を重ねた面持ちには疲労の色も見えるが、その眼差しには、なお衰えぬ威光が宿っていた。
「……セイラン・ルオネル」
その声は低く、広間に響き渡った。
セイランはさらに深く頭を下げる。
「その身、戦にて多くの者を守り、王国の勝利に尽くした功績――余は決して忘れぬ」
「面を上げよ」
セイランは顔を上げ、まっすぐ王を見上げる。
「……失ったものの重さ、察してあまりある」
王の瞳に浮かぶのは、哀惜――そして、臣下への深い労いだった。
「団長より、退官の意思を聞いた。余はそなたを失うこと、惜しく思う」
「恐れながら……その志は揺らぐことなく、王の御恩に報いるためにも、私はこの身を退こうと存じます」
しばしの沈黙が落ちた。
やがて王は、ため息のように、だがどこか穏やかに言った。
「――ならば、それもまた、誇りある選択であろう」
王は臣下へひとつ頷き、文書が差し出された。
「そなたの功績に報い、男爵の爵位を授ける。以後は、セイラン・ルオネル・アルヴェインと名乗るがよい」
驚きのあまり、セイランの体が震えた。
「……私に、爵位を……」
困惑と驚愕が入り混じる。
孤児院の片隅で名もなき者として過ごした幼き日々が、脳裏に過った。
「爵位は名誉であると同時に責任でもある。……だが、そなたにはそれを背負う力があると、余は信じている」
「……身に余る光栄。謹んで拝受いたします」
その言葉とともに、王の前にふたたび深く伏した。
「他に望むことがあれば、申してみよ」
一瞬、沈黙が落ちた。
セイランは少し迷うように視線を彷徨わせ、ーーそして、口を開いた。
◇ ◇ ◇
森の薬師の小屋。
丸木と石で作られた粗末な造りだが、清潔に保たれた空間には、乾かされた薬草の香りが微かに漂っていた。
エラは薬包を束ね、細紐でくるむ作業をしていた。
薪の火にかけた壺からは、薬湯の芳香がふつふつと立ちのぼっている。
それは、戦から戻った兵士たちへ届けるための痛み止めや癒傷薬だった。
戦が終わった――そう聞いたのは、半月ほど前。
王都の薬官が森に薬を取りに訪れたときのことだ。
「戦争には勝ちました。……だが、負傷者は多く、薬の納品はこれからもしばらく頼みたいのです」
感謝とともにそう言われ、手渡された納品書に目を通すエラに、薬官はふと、もう一言付け加えた。
「それと……近衛副団長のセイラン様。重傷を負ったと聞いております」
その一言が、胸の奥を鋭く突いた。
手に持っていた筆が震え、墨が紙の端に滲んだ。
「……重傷……というのは、命に関わるもの、なのですか」
震える声で問うと、薬官は眉根を寄せ、首を横に振った。
「詳しくは……申し訳ありません、緘口令が出ておりまして、私も詳しくは聞かされていないのです」
それ以上、訊ねることはできなかった。
王都では、彼女は“魔女”と囁かれている。
命を救う薬を作る一方、かつて祖母が毒薬を王命で調合した――それが、代々の家系に影を落とし続けていた。
母も、そして自分も毒など扱っていない。
だが世間は、過去を忘れない。
王都の中で、自分の名を口に出す者は少ない。
だから、セイランに関する情報を知る術も、限られていた。
ただ、あの日すれ違っただけ。言葉も交わさなかった。
なのに、心は波立ち、胸の奥は落ち着かない。
(わたしにできるのは……薬を作ることだけ)
そう自分に言い聞かせて、日々、手を動かし続けた。
だが、その静かな日々は唐突に破られた。
ある日の午後、小屋の前に馬の蹄の音が響いた。
「王都よりの使者です。森の薬師、エラ・ノクター殿にお伝えいたします」
深みのある声に、思わず立ち上がった。
「王命により、セイラン・ルオネル・アルヴェイン男爵との婚姻を命じられました」
「……え?」
心臓がひとつ、大きく跳ねる。
「ま、待ってください。それは……人違いでは……?」
なんとか絞り出した声は、掠れていた。
使者は首を横に振った。
「間違いございません。こちらが、王命により届けられた書状です」
差し出された巻物を、震える手で受け取る。
手先に力が入らず、落としてしまいそうになるのを必死にこらえて、紐をほどいた。
王家の封蝋が割れ、中から現れた文面には――はっきりと、自分の名が記されていた。
《婚姻相手:エル・ノクター》
思わず視線がぶれた。
呼吸が浅くなる。血の気が引いていく。
「……なぜ、わたしが……?」
呟いた問いに、答える者はいなかった。
ただ、使者は静かに言葉を重ねる。
「男爵より伝言がございます。特別な準備は不要とのこと。ただ、寝る場所があればそれでよいと。婚姻にあたり、必要なものがあれば、金は後日送られるとのことです」
彼女は、何も返せなかった。
どうして、わたしなのか。
どうして……セイラン様なのか。
思考は霧の中で空転し、足元の地面さえ遠く感じられた。




