現在1 ②出立
「見送りなんてしなくていいのに」
「またそういうことを言って」
翌日、自室を出て居間へ行くと、既に母が起きていて朝食の支度をしていた。
早朝だったこともあり黙って出かけるつもりだった。任務だということすら話してなかったのに王子の乳母である母にはその辺りの情報は筒抜けなのだろう。
「まさか何も言わずに出発するつもりだったの?」
「……書置きを残すつもりだった」
母に座るよう促され、大人しく既製品のパンが並べられたテーブルにつく。
用意してもらったそのパンを一つ掴んでもそもそ食べていれば、母がお茶の入ったカップを差し出してきたので大人しく受けとった。
何となく気まずい。
お互いに仕事が忙しいせいもあるが、こうやって向き合って食事をするなんてどれぐらいぶりか。
「夕べも遅かったじゃない」
「昨日は用事があるって」
「結局、母親より恋人なのよねえ、息子なんて」
からかうような口調に苦笑を返すことしかできなかった。
居心地の悪さから逃れるように入れて貰ったお茶を一口飲み込んだら脳を溶かすんじゃないかと錯覚するほどの甘さが口の中に広がり、思わず吐き戻しそうになった。
貴族のお嬢様育ちで大事に育てられた母は家事全般が得意ではない。しかし、どうやったらお茶にこんなに砂糖を入れてしまったのか、その思考回路は謎でしかない。
「ちゃんと『帰って来たら結婚しよう』って伝えた?」
「はあ?」
再度吹き出しそうになりむせ返った。
そんな俺の反応に何かを察したかのように、母は小さくため息を吐いた。
「なってないわねぇ。二十二歳にもなって好きな子一人口説けないなんて」
「……」
そんなことは自分が一番わかっているからわざわざ言うなと言いたいが、咳が止まらない。
全部お見通しということか。
「こんな情けない息子のこと、ちゃんと待ってくれるのかしら?」
まだ言い足りないと言いたげな母に「ほっとけ」と端的に返し、食事を終わらせると早足で自室に戻る。
自室の机の引き出しにしまい込んであった安物のチェーンにとおしてある父の形見の指輪を取り出した。
母が戦地に赴く父に無事に帰ってくるようにという祈りを込めて贈った『お守り』だ。
これを身につけていた父は毎度無事に戻ってきたのだから効力は確かなものである。
白金の台座に小さな宝石が一つ埋め込まれたシンプルなリングだ。無くさぬよう首にかけて玄関へと向かう。
玄関前で母が待ち構えていた。
先ほどは軽口をたたいていたものの、少しばかり心配そうな様子だ。
幼い頃に父が病死してから、二人きりの家族だ。
心配をかけていることが心苦しくもある。――そして、母を残していく不安感を自覚したら心臓が早鐘を打った。昨夜もミルドレットといるときに覚えた恐怖に近い感覚だった。
「母さん」
収まらぬ動悸に、慎重に言葉を探しつつ母を見やる。
どうしてか母が手が届かない遠くに行ってしまうような、怯えにも似た感情だ。
なぜ、母はここにいるのに、失ったみたいな心地がしているんだ?
「何? ……やあね、何て顔してるの? お母さんと離れるのがそんなに寂しいの?」
「そんなわけ――」
「本当に、そっくりね。あの人と」
茶化すような表情をしていた母が、急に神妙な顔つきになったので何も言えなくなってしまった。
あの人、というのは父のことだ。
大恋愛の末に結婚したという母が父のことを語る時、まるで恋する少女のような表情になるのだが、今日は少し違うようだ。
「あの人も、戦争に行くときそういう不安そうな顔をして私を見てたから。思い出しちゃった」
「……」
「いつの間にかこんなに大きくなって」
何となくしんみりしてしまった。
やはり気まずい。母から目をそらしてどうするべきか悩んでいるうちに、動悸も治まっていた。
「親父みたいにちゃんと帰ってくるから」
「当たり前でしょ。ちゃんとお守りは持った? 帰ってくるだけじゃなくてちゃんとお役目も果たしなさいね。ディノ様の命令も――」
「わかってる」
小言が始まりそうだったので、遮るように頷いて、
「じゃあ行ってくる」
ぶっきらぼうに母に告げ、家を後にした。
***
集合場所へと生まれ育った城下町を歩く。
いつもと変わらないこの町によくディノはお忍びで遊びに来ていた。
自由奔放な少年だった王子も成長して思慮深い立派な王子様と評されるようになった。――表向きは。
昔よりも大柄にふてぶてしくなったディノに呼び出された昨日の出来事を思い出していた。
『奴隷商人の捕縛に行け』
一言だった。
俺の都合など一切考慮していない命令である。
『我が国フィルツが独立した際に奴隷制度を廃止したのはいくらお前でも知っているだろ?』
国民なら皆が知っているはずの法律である。奴隷は違法。
黙って俺が頷くとディノは続けた。
『そんな法をかいくぐって子どもを攫って国外に売り払っている闇ルートの一つを潰してやりたい。見せしめとして、な』
何を考えているのか、ディノは愉快そうに口元を歪める。
絶対に良くないことを考えている顔だ。
『奴ら賄賂で役人どもも買収してやがる。ヒュー、お前、潰してこい』
改めて考えると無茶な命令である。
『ルートも根城も調査済みだから乗り込むだけだ、安心して行ってこい』と言われても全然安心できない。
本当に昔から何も変わってないどころか悪辣に成長しやがった。
『力を貸してくれ』
真剣な面持ちで言われてしまえば何も言えなかった。
元々拒否権などない。
恐らく、今回作戦部隊に選出された兵士たちの一部も買収されている可能性があるとディノは語っていたが実際どうなんだろうか。
集まった連中の顔を見回してみる。
隊長である最年長のガスバは、昼行燈という評価をされている男だった。口調も柔らかく温和そうに見える。
隊長を除く残りの二人はやる気のなさを隠すことなく「だるい」「帰りてえ」と言葉を交わしているそれが演技なのかまではわかりかねた。分析はそんなに得意ではない。
「えーと、情報によると彼らのアジトは南の砂漠、通称『死の砂漠』にあるとのことでしたね」
のんびりとした口調でガスバが一同を見回してそう言った。
聞いている気が抜けるような声である。
隊員たちはうわの空で、そんなガスバの言葉を聞いているのかいないのか。
俺はあくびをかみ殺すふりをしながら、じっくりと全員の挙動を観察した。
「おいおい、エリート様はこんなチンケな作戦、気乗りがしねーってか? 隊長の話ぐらいきちんと聞けよ」
何かが気に障ったのだろう。だるいと言っていた隊員が舌打ちしながら絡んできた。
父が英雄と呼ばれていたり、王子と乳兄弟だとエリートだとそういう目で見られがちである。
こういうやっかみじみた言葉をかけれるのも良くあることだ。
だが、俺自身はただの一般兵でしかない。
父に負けないようにと剣の腕だけは磨いた。それこそ誰にも負けないようにと。
平和な現在、その腕を生かす場もない。
かといって、政治知識が優れているわけでもなく、家も没落して久しい。凡庸この上ない。
「とにかく、そのアジトの近くまで行きましょう」
とりなすようにガスバが言い、俺たちは結束することもなく死の砂漠に向けて出発した。