ね、聞いていい?
…………ね、聞いていい?
王宮の長い廊下を渡りながら、リアは頭の中の声を聞いた。
そして、はぁ――っ!と溜息をつく。自分に取り憑いた亡霊の存在を、すっかり忘れていたのだ。
……何だ?
……うん…………。
……聞きたいことは山ほどあるだろう?
……ん…………。
亡霊は考えを巡らせているようだ。
……あ、あのさ……。
……何?
……あの、どうやったら裁縫中に骨折するんだ?
……――――――!!そこっ!?
……他にも色々あるけど凄く不思議で。
……ああ、そうですか。針の奴がチクっと差しやがったからびっくりして、のけ反ったら手首が折れてたんだよ!
……骨折する痛みより、針に刺される痛みの方がましだったんじゃない?
……そんなこと言っても後の祭りだろう、折れちゃったんだから。
……そうだね。……長い名前、聞いていい?
……アリアンルーシュキャロル・カーラ・ティディクラス・エク・セイントレア。
……本当に長いね。俺は、リアでいい?
……ん。長すぎてみんなリアだよ。
……王女様なんだね?
……うん。
……俺は王女様に何か言いたかったのかなあ……?
……さあ。お前が分からないことを私が分かる訳ないだろう。
……そうだよね。
……ね、髪、見せて。
……髪?これ?
リアは後ろで結んだ髪の毛を摘まんで、目の前に持ってきた。
……綺麗な巻き毛。さっきの女の人とそっくりだね。
……母親譲りなんだ。
……でも、さっきの人がリアの母親じゃないんだろう?
……そうだよ。エリ夫人はあの髪を持っていたから、今の地位にいるのかもな。……父上も人だから。
……なるほど。どこへ行くの?
……軍へ。
……何で?
……身体が鈍っているから軽く動かしに。それに弓の練習をしたいんだ。
……弓が得意なの?
……苦手なんだ。でも、必要になるかもしれないと思って。
……ふうん。
リアが最後の扉を開けると、青々とした芝生が広がっていた。
彼女は晴れ渡った空を仰ぎながら、遠くに見える厩舎を目指して歩き始めた。
★★★
「おお!!凄いっ!!」
騎射場でどよめきが起こった。その中から一人の兵士が、よろよろとリアに近付いた。
年の頃は二十代の半ば。鍛え上げられた体躯とすらりとした背丈を持っていたが、肩を落として歩く姿は弱々しく見える。
「リア様…………。」
「やあ、ジェマーソン。どうした、腹でも壊したか?」
声を掛けられた男は、がっくりと膝を付いた。
「どうした、じゃないでしょう!!ケールが血みどろの亡霊みたいに現れた時は、心臓が止まるかと思いましたよ!!」
「ああ、心配を掛けたな。」
「公用で留守にすると仰ってました。まさか、ペイジだったとは。何故、単独で出向いたんです?」
「単独ではないよ。ケールがいる。」
「ええ、ええ!一人と二人とでは違いますからね!せめて、軍から多少なりとも人員を割いてくだされば……。」
しっ!と、リアは指を口に当てた。
「隊長、人払いをしてくれないか。」
その途端、ジェマーソンの顔は、元帥の顔に戻った。
彼が振り返りさっと手を振ると、遠巻きに見ていた兵士達はそれぞれの場所に戻り、演習の続きを始めた。
王が所有する軍は、三軍と近衛隊から成る。
ジェマーソン・フレデリックは一軍の大将だったが、一軍の大将は全軍の指揮官で、元帥でもあった。彼は伯爵の称号も持ち、フレデリック伯爵家は遥か昔から、王に忠誠を尽くしてきた家柄だった。
近衛隊は王の近辺を守護する。公式行事では前面に出て、華やかな式典を盛り上げる。
リアは名前だけの近衛隊長だった。実質的にはジェマーソンと共に全軍を把握し、戦の折には現地へ駆け付け、第一線で剣を振るっていた。
「ジェマーソン、また暫く留守にする。軍を頼む。」
「ペイジですか。」
「うん。」
「せめて、数名の護衛を付けたいのですが。」
「ならぬ。」
「しかし――。」
言いかけたジェマーソンを、リアは制した。
「ペイジはデリケートな問題なんだ。」
「分かっております。」
「中央から兵が出ているという噂が立ったら、アーネスタントも軍を出してくるかもしれない。」
「…………。」
「私一人なら問題ない。気紛れな王女が物見遊山のついでに、極上の衣を探しに来たとでも言っておけばいい。」
「……分かりました。ケールに一報入れておいてよろしいですか?」
「ああ、そうしてくれると助かる。……こっちはどうなっている?」
「南の方が少々きな臭くなってきました。」
「ヘパーリンか。」
「ええ。新興国の勢いというか、無謀さというか……。ここ数年で経済の発展が著しいのはありますが、調子に乗って少しずつ、我が国を掠め取ろうとしているかのようです。」
「あそこの国境は、のどかな山岳地帯だったんだけどなあ。友好国、とまではいかないにしても、そんなに悪い関係じゃなかった。」
「前国王が亡くなって、世代交代してからですかね。」
「だよな。急を要するのか?」
「そこまでは。しかし、何れ出て来るでしょう。」
「アーネスタントが裏にいる可能性は?」
「ない、と言って良いでしょう。我が国の先端、南西にヘパーリンは位置しております。密使のやりとりがあったら気付く筈です。ヘパーリンとその西側諸国には、多くの諜報を放っております。何か動きがあったら分からない訳はありません。」
「うん。アーネスタントには諜報は送れないんだよな?」
「ええ。あそこは他国に対しては寛容なのに、我が国に対してだけは神経質になっている。曾て多くの諜報を放ちましたが、連絡を返して来た者はおりません。」
「そうだな。」
「エッラ山脈もありますしね。強者と言えども、あの山越えは過酷だったのかもしれません。」
「無事に帰って来てほしいと切に願うが。」
「はい。只あの山脈のお陰で、アーネスタントが我が国に侵入したという事実もありません。」
「鍵となるのは……やはり、ペイジだな。」
「そうですね。行き来できるのはあそこだけですから。」
「百五十年…………。たった百五十年か。偉大なる高祖父、ダルガリアンが布いた道は。」
「リア様、そんなに肩を落とさないで下さい。時と共に、事情は変わるのです。」
「分かってはいるが。……高祖父の意向通り、私は戦を極力起こしたくない。穏便にダルガリアンの布いた境界線を守りたい。……ランウェル橋を。」
「アーネスタントも、そう思っていると願いたいです。」
「その可能性はある。火種となっているのは……恐らく現地だ。」
「そうなんですか?」
「確信は出来ないが。ケールに詳しい事情を聞く前に、こっちに戻ってしまった。」
「そうだったのですか。……いつ、お発ちで?」
「なるべく早く。」
「分かりました。……あの、リア様、一つ聞いていいですか?」
「何?」
「なぜ突然、弓の稽古を?当たらなくてイライラするー!と言っておられたのに。」
「苦手だからってやらなければ上達しないだろ?」
「本当に凄いですよね。兵士達も感心してました。12矢のうち3矢を、狙った的の2的後ろに当てるなんて。」
「………………。」
「弓だけだったら、私もリア様に勝てるのになあ。うおう!?」
「弓だけだったらな。」
ジェマーソンは、リアの声を間近に聞いた。真下には、光線の加減でいろんな色に変化する、セピア色の眼が彼を見つめていた。おまけに、喉元には剣の柄が当てられていた。
「いつ、お潜りで?」
「それが分かれば、この状況にはなっていないんじゃないか?」
戦場の王女は軽く笑った。
綺麗だな……。
ジェマーソンは見惚れた。
今、彼女の瞳は黄金色に見える。このまま抱きしめたいけど、そんなことをしたら本当に、今度こそ殺されるかもしれん……。
そんなことを考えながら、彼はそうですね、と答えた。
「矢戦も考えておいた方がいい。」
リアは剣を鞘に納めながら、そう言った。
「矢戦……ですか?」
「ああ。ペイジ、ハルナック、共に草原が続いている。戦になったら何れ剣戟になるだろうが、その前に出来るだけ弓で割こうとするだろう。」
「なるほど。弓の稽古を強化しておきましょう。リア様はこれから?」
「もう少し弓の練習をしていく。」
「分かりました。兵士達にも近寄らないように言っておきましょう。流れ矢に当たったら大変ですので。」
ジェマーソンは精一杯の皮肉を残して、そそくさとその場を立った。
……良かった……。リア様はとってもお元気だ。
背後からは、悪態をつく遠吠えが聞こえていた。




