タスカ
……リィ……アッ、リィ……アッ、リィ……アッ、リィ……アッ、
ジェマーソンは心の中の掛声を繰り返しながら、煌めく海に浮かぶ一艘のボートを目指して進んでいた。海が凪いでいるせいか、渡航はそれほど困難ではない。その分彼は様々なシュミレーションをする時間が出来た。
……アーネスタントの貨物船からの攻撃はない。攻撃した場合、あの船は一瞬で海の藻屑となるだろう。例えあの貨物船の向こうに軍艦が控えていたとしても、遠洋を周回しているエクリスタ船が必ず気付く筈だ。タスカ王子は本当に、決死の覚悟でここまで来たんだな……。
……リィ……アッ、リィ……アッ、リィ……アッ、リィ……アッ、
リアの名を唱えながら黙々と櫂を漕ぐ。方向を見誤らない為に顔を上げると、思ったより近くにタスカ王子のボートがあった。
そこには、眩いばかりの光彩を放つ一人の少年がいた。
白髪と言ってもよいような透き通ったシルバーの髪、どこを見ているのか分からないほど淡いブルーの瞳、北の国ほど色素が薄くなるとは聞いていたけれど本当なんだ……ジェマーソンはぼうっとそんなことを考えていたが、振り払うように頭を振った。
そんな筈はない。現にフーゾンだってセイントレア人と変わらない風貌をしていたじゃないか。恐らく、この王子が特殊なのだ。リア様もそうだけど、王族には何故こう生まれついての王子王女、みたいな容姿の者が出るのだろう……?確か年の頃は十九か二十くらいだったと思うが、とてもそうは思えない。傷付ければ壊れてしまう彫刻のような精巧で繊細な顔のつくり。まるで少女と見紛うほどの美しさ……。
しかしタスカは少女などではなく、ジェマーソンのボートが近付くと意外なほど強い力でグィッとボートの縁を掴んで、二艘のボートを横付けにした。
「やー!!格好いいな!!」
それが彼の、最初に発した言葉だった。突然の言葉にジェマーソンは拍子抜けして戸惑ったが、にっこりと笑いながら拳を握り、ぐっと自分を取り戻した。
…………王子は友好的だ。何か攻撃的な意図があって来た訳ではなさそうだ。何某かの重要な、伝えるべく話があってここまで来たのだろう。と見せかけて、とんでもない提案がとんでもない方向から飛んで来る可能性がある。この人当たりのいい雰囲気に呑まれてこの人のペースに巻き込まれては駄目だ。冷静に、冷静に。ああ、良かった、とんでもない王女に慣れていて。
ジェマーソンはボートの中で、深々とお辞儀をした。
「タスカ王子、ようこそお出で下さいました。格好いいなどとは恥ずかしい限りでございます。まさか、あなた様のようなお美しい方にそのようなことを言われるとは。」
「ふふ、口が上手いな。」
そう言いながらタスカは笑った。
「今は船の上だからいいんだけどね、地上だとこれがまたちっちゃいんだな。」
「背丈の長短は関係ないでしょう?タスカ王子の剣戟は素晴らしくお強いと聞いております。」
「どこから?」
「は?」
「どこからそんな話が出たの?うちとおたくとは国交が無いのに?」
「さあ……分かりません。他国からじゃないですか?あまりにも強すぎて、当国にも伝わるという……。」
ジェマーソンは神妙に頷いた。
……やはりこの人、一筋縄ではいかない。言葉の一つ一つを選んでいかないと。これは本当に外交だ、心して掛からねば。
「役職は?」
「え?」
「君はどういう地位にいるの?俺は使者に、一番偉い人を連れて来て欲しいと言ったんだけど?」
ジェマーソンが自身の決意を新たにしている間に、タスカは覗き込むようにジェマーソンの顔を見た。
「ああ、これは大変失礼いたしました。私はセイントレア国軍元帥、ジェマーソン・フレデリックです。」
「ええっ!!」
「タスカ王子、どうなさいましたか?」
「何でそんな偉い人がここにいるの?セインティアにいなくていいの?」
まさかアーネスタント軍が攻めて来た時に素早く指示が出せるようにとは言えずに、ジェマーソンは朗らかに笑った。
「エクリスタは重要な基地ですから、私はちょくちょく行ったり来たりしているのです。元帥など名ばかりで使い走りみたいなものですよ。」
「ちょくちょく来てる割りにはあんまりボートが上手くないね。まあ、俺もそうだけど。」
「はい。生まれも育ちもセインティアですので海に慣れておりません。幼少期から慣れているこちらの者と比べると、かっらきしです。」
「ふうん……。」
「ところでタスカ王子、私は御使者の方から、内密なお話があると伺ったのですが?」
ジェマーソンが尋ねると、タスカは相変わらずジェマーソンに視線を向けたまま頷いた。こう見つめ続けられると、駄目なものでもはいと言ってしまいそうな無言の威圧感がある。
「うん……。内密で重要な話があるんだ。だけどそれを、名ばかりの元帥に話していいものかどうか悩み中。」
「お話ください!!」
ジェマーソンは勢い込んだ。何かもう向こうのペースに嵌っている気もするが、ここで引き下がる訳にはいかない。
「名ばかりの元帥じゃないんだね?」
「実際の元帥の仕事もしております。」
「そう。」
タスカの目が笑っているような気がする。
「ではジェマーソン。セイントレアは、ランウェル橋周辺についてどう思っている?」
「――――!!」
タスカはさらりと口にしたが、いきなり核心を突かれてジェマーソンは思わず息を呑んだ。しかしこの議題こそが、彼にとっても最も話したいことであった。
セイントレアの北西部、アーネスタントにとっては南西部を悠々と流れるノーセット川。この川は二つの宝を隠し持っていた。一つはこの川に生息する魚、ハジャ。大変美味で、今のところこの川でしか生息が確認されていない。もう一つはこの川の水辺に生えるパリアグラス。地味な水草で季節を問わず採取することが出来るが、こちらもハジャ同様にこの川でしか見ることが出来ない。パリアグラス自体は何の変哲もない水草だが、これに加工を加えると素晴らしい染料となる。二つの宝は年々希少価値が上がっていて、今ではちょっとした貴族でも手が出せない程の金額に跳ね上がっていた。遥か昔からセイントレア、アーネスタントの両国とも他の川で育てることは出来ないかと試みて来たが、その結果は惨憺たるものだった。
他の川で育たないとなるとどうなるか。当然、それが生育している別の地域を奪うことを考える。この川の利権を巡ってセイントレア国のペイジ、アーネスタント国のハルナックでは、激しい戦いが幾度も行われて来た。それを憂えたおよそ百五十年前の両国の王が和合し、両国を流れる川に大きな橋を架け、それを国境とすると合意したのだった。しかし百五十年経った今、その協定も破綻しつつある。
ジェマーソンは意を決して、しっかりとタスカの目を見返した。
「早急に解決したい問題だと思っております。しかし、どのように解決すべきか頭を悩ませていたところでした。」
ジェマーソンがそう答えると、タスカの頬は少し緩んだように見えた。それから静かに口を開く。
「それは良かった。俺も、あの地域が昔のような戦いになることを憂えている……。君には何か、具体的な解決策があるの?」
「………………。」
アーネスタント国と会話出来る手段があれば、とそればかりを考えてきた。しかしそれが叶った今、次の段階へと進む必要がある。ジェマーソンはセインティアにいた時毎日のように届いたケールの報告書と、王宮で何度も重ねられた会議の内容を猛烈な速さで思い返した。
「まず一つは、御国と当国による一時的な平和協定です。本当は永続的な、と申し上げたいところですが、それには時間が掛かり過ぎます。早急に一時的な平和協定を結び、加熱する地元民の怒りと戦争賛成派の貴族を抑え込むべきです。平和協定を結んだ国に対して害を為したら重い刑が科される、くらい強固な。ペイジ、ハルナック間は、そんな協定を結んだとしても覆るくらい危うい状況だと思います。それぞれの民にはそれぞれの言い分があるとは思いますが、大きな争いにならない為に自国の軍が出て、強制的に自国の民を抑えるべきかと思います。」
「なるほど。それから?」
「ランウェル橋の封鎖です。いえ、橋を封鎖したところで、西側は草原で繋がっているのですから行き来は出来ます。しかしあの草原は、正式にはハルナック軍、ペイジ軍の領土です。お互いの軍に対して誤解を与えない為に軍は見て見ぬ振りで民の往来に目を瞑っている面もありましたが、相互の軍の了解の下、ランウェル橋及び西側の草原に対して、厳重に民の侵入を取り締まるというのも一つの手かとは思います。」
「そう、他には?」
タスカの質問にジェマーソンは頭を振り絞ったが、それ以上の案は出て来なかった。
「特に思い付きません。タスカ王子には、何か他のお考えがおありなのですか?」
「いや……。」
タスカは首を横に振った。
「……ないんだけどね。なんかこう、抑え込む以外の方法はないかな、と常々思っていたんだ。しかしこれといって良い案が浮かばない。」
「力で抑え込む以外の方法……それがあれば理想的なのでしょうね。しかし、地元民の怒りは日に日に膨れ上がっているのが現状です。ランウェル橋を封鎖するといっても納得がいかない者が多いでしょうし、今までの歴史が重すぎます。血気に逸った民が暴挙を起こす前に互いの軍が自国を抑えて、他国への侵入を阻止すべきかと思います。」
「そうだね……。それが現実的だ。内乱からの戦争、というのが最も嫌な筋書きだからね。」
「内乱からの戦争?御国にはその可能性があるのですか?」
「え?……セイントレアはどうなの?」
「私が先に質問したのです。」
二人は暫し見つめ合った。チャプンチャプンと波がボートに打ち寄せる音と、それに合わせて二艘のボートがゴン、ゴン、と軽くぶつかり合う音だけが静かに響く。
「……ないよ。」
タスカは不意に口を開いた。
「ないよ。現地の暴動は抑え込めると思う。セイントレアはどうなの?」
「ありません。非常に曖昧な部分でしたが、方針が決定したのなら軍がきっちり抑え込める自信があります。」
「そうかあ……。」
タスカは空を仰いだ。
「タスカ王子、本当に、内乱からの戦争はないのでしょうね?」
「ないよ。」
「でしたら問題ありません。ではタスカ王子、それをいつ実行致しましょうか?私は、セイントレアは、たった今両国の協定の締結がされたと認識しております。タスカ王子が母国にお戻りになりそれが実行されるまで、どれ位の日数を要しますか?当然ながらここはセイントレアですので、私が早馬を飛ばしたらペイジに伝わるまでの時間はそんなに掛かりません。しかしあなた様がアーネスタント国へ戻り、事情を説明し、それがハルナックへ伝わるまでにはそれなりの日数が掛かることを存じ上げております。ペイジ軍が先に動き出したらハルナック軍はあらぬ警戒をして、不要な争いを起こす引き金になってしまうかもしれません。当ペイジ軍が先走らない為にも、相互の軍が出ても誤解を与えない確実な日程が必要です。我が国はそれまで動かないと誓います。タスカ王子はランウェル周辺に情報が行きわたるまで、どれ位の日数がご入用だとお考えですか?」
「……………一月。」
「そんなに!?最短だと半月少々、二十日もあれば十分なのではないですか?」
「こちらにはこちらの事情がある。」
「そうなのでしょうが。……では、ランウェル橋にて口火を切り、正式な協定を結ぶ役を誰に致しましょうか?ああ、ランウェル橋と限定してしまって申し訳ございません。しかし、あそこはどちらの国でもない唯一の場所ですから。」
「異論はないよ。平和協定を結ぶならあそこ以外に考えられない。君は誰を行かせるのがいいと思う?……国王?」
「それが可能ならば、素晴らしいと思います。」
ジェマーソンは頷きながら同意した。しかし、それが可能でないことが何となく分かってきた。
フーゾンは、出港準備中の貨物船にタスカ王子が乗り込んで来て、無理矢理ここへ向かわされたと言っていた。国王の同意が得られていたとしたら、もっと穏便に来られた筈だ。恐らく、アーネスタント国はセイントレアほど意見が纏まっていないのだろう。纏まらない国内、しかし国境は日に日に危うい状況となっている。目の前にいる王子は、耐え難い焦燥感を持ってここまでいらしたのだ。
ジェマーソンは尊敬の念を以て、口を開いた。
「国王による平和協定の締結、それが理想です。しかし現実的には難しいでしょうね。」
「うん。百五十年前の王のように、一目見るなり超仲良しになれたらいいのだけど。」
「当国の記録にもそのように残っております。本当にお互いを尊敬できる、素晴らしい関係だったようですね。」
「ダルガリアン・セイントレアとエリオネット・アーネスタント。そういうのを馬が合う、と言うんだろうなあ。」
「今更ですが、当時の王は何故もっと国交を深めようとしなかったのでしょうか?貿易など、国益に絡む話に発展してもおかしくはないと思うのですが。」
「国境を定めるのが精一杯だったんだと思うよ。今は最後の戦いから百五十年も経っているのにこの有様だ。戦いの最中にあった当時はとてもそんな状況じゃなかったんじゃないかな。盗った盗られた、殺った殺られたで、一線を引くのが先決だったんだろうよ。」
「なるほど、そうですよねえ……。」
「それに、いつの時代にも必ず反対派はいる。急に厳格な国境が引かれててんやわんやな中、今迄争っていた国と仲良くしましょうと言ったところで、民にしろ貴族にしろ、ついて行けない者が多かったんじゃないかな。」
「確かに。」
「それでも、エリオネットとダルガリアンの交流はずっとあったんだよ。知ってる?」
「いいえ。そうだったのですか?」
「かなり非公式な形でね。セイントレア家は知っている筈だ。それが漏れていないということは、超極秘事項の扱いだったんだろうなあ……今でも。」
「アーネスタント国でも超極秘事項なのですか?」
「勿論。セイントレアを心底憎んでいる誰かにばれたらどうする?」
「そうですよねえ……。」
ジェマーソンは深く頷きながら考えた。
この王子は、我が国の信頼を得る為にかなり多くの切り札を切っている。今私が弑すれば(こっちが殺されるかもしれないが)それまでだというのに……。それでは両国の平和の為に最善を尽くそう!……と思いたいところだが冷静に冷静に。譲歩し過ぎて国益に不利があってはならない。
ジェマーソンは一つ息を吐いて、話の流れを追った。
「それにしても、お二人の王は一体どこで交流していたのでしょうか?首都のアネストかセインティアにお招きしたのなら大騒ぎになっていたでしょうに。ああそれとも、文による交流だったのですか?」
「文だけだったらそこまで仲良くなれないよ、相手と直接お話しないと。勿論、ランウェル周辺だよ。ペイジかハルナックか、その周辺の都市。当然お忍びでね。旅人や商人に扮して、適当な宿や居酒屋で語り明かしたらしい。だけど、そういった場面での仕事の話はゼロ。外交に繋がるような話は一切記録されていない。」
その途端ジェマーソンの脳裏に、男物の普段着を着て、適当な宿や居酒屋でそれはそれは楽しそうに飲んでいるセイントレア国王女の姿が浮かんだ。自分はそんなシーンに立ち会うことは滅多にないのだが、あの人はいつもそんな感じなのだろう。何気なく隣のテーブルに座った人間にそれ何食べてんのとか言いながら、いつの間にか一緒に飲んでいる。で、本人は楽しく飲んでいるだけなのに、知りたくても得られなかった情報がばこばこ入ってくる。きっとそれは、そういう血筋なのだ……と諦めのような複雑な溜息をつきながら、ジェマーソンは口を開いた。
「今はともかく、そういった歴史があるのは喜ばしい限りでございます。当国王家が戦争は絶対に避けるべきだと一貫して言ってきた意味が、ようやく分かりました。」
「!!」
「タスカ王子、どういたしましたか?」
「ん……ちょっと吃驚して。いや……何とも言えない気分だ。セイントレアは、本当にうちとの平和を望んでいるんだね?」
「私はずっとそう申し上げているつもりですが?」
「ああ、そうだね。……何だか君の喋りは、俺の家庭教師によく似ているなあ!」
「それは光栄、なのですか?それとも……?」
「どちらでもない。ただ似ているってだけ。」
「そうですか。ではタスカ王子、改めてランウェル橋での交渉役を誰に選定いたしましょうか?私としては、可能な限りタスカ王子の希望に添いたいと願っております。」
事は一刻を争っている。些細なことでグズグズしているより一日でも早く調印し、条約を成立させること先決だ。
「君は、誰を行かせたい?」
「私?私は…………。」
ジェマーソンは即断で、一つの決意を胸にした。
「私は、あなた様と私であったら素晴らしいと思います。いいえ!決してあなた様を侮っている訳ではございません!一国の王子と、たかが軍の元帥、釣合いが取れていないことは重々承知しております。しかし、この問題を最も認識していて、実際に話し合っているアーネスタント人とセイントレア人は我々二人だけなのです!私は、あなた様がどのようなご様子でランウェル橋に現れたとしても、絶対に見間違えることはありません。もっと綿密な書類が必要ならば、両国の王に追々幾らでも調印して貰えばよろし。私は一刻も早い、そして確実な平和協定を願っているのです!」
「なるほど、君の熱意はよく分かったよ。君の言う通り素晴らしい提案だ。ところで……王女はどうしてるの?」
「王女?」
「おたくのセイントレア国王女。」
「え?あ、ああ……。」
これで話が決まると思い込んでいたが、ジェマーソンは肩透かしを食らった気分だった。しかしこちらが王子を指名している以上、先方が王女を指名して来たとしてもおかしくはない話だ。
「あの…………タスカ王子が望まれるのでしたら…………あ、はい、勿論可能でございます。」
「ジェマーソン、何でそんなに急に歯切れが悪いの?王女だと難しいの?」
「えー、申し訳ございません。難しいことはございません。しかし、王女は今セインティアにはおられないので、少し戸惑ってしまいました。でも、猶予が一ヶ月ありますものね。調印時にはランウェルへ行けます。」
「セインティアにおられない?じゃあ、どこにいるの?」
「えーっとそれは…………。」
ジェマーソンは言い淀んだ。しかし、これは絶対に話さなくてはならない内容ではないだろう。
「タスカ王子、それを申し上げるのは御容赦ください……。」
残念ながらこの時点で、リアがレスカでタスカに会いたがっているという話も、タスカが行方不明になっているという話も(実際エクリスタに来ていた訳だが)、まだ挙がっていなかった。
「別に無理に聞きたい訳じゃないよ。……そうか、どこかで戦っているのか。戦場の女神っていうのは本当なんだね。」
「………………。」
「強いの?」
「……………はい。」
「ああ、本当なんだ!!王女が実際に戦う話なんて、都合よく誇張されているだけのことが多いけど事実なんだね!!物凄く強いの!?」
「強い……?ええ、強いです。物凄く強い……のですが、強いというより速い……?」
「速い!!それは凄いねえ!!」
タスカは手を打って喜んだ。
「それは是非に会ってみたいねえ!!」
「では……?」
ジェマーソンは、期待を寄せて身を乗り出した。
「長い名前なんだよね!アリアンルーシュキャロル王女!」
「さようでございます。」
「普段はなんて呼ばれているの?まさか全部?」
「そうですねえ……。アリアン、とかロール、ですかねえ……。」
ジェマーソンは、全く呼ばれたことのない呼び名を二つばかり提示した。
「へえー。」
「タスカ王子、では、ランウェル橋の調印は一ヶ月後、タスカ王子とアリアンルーシュキャロル王女によるものでよろしいのですね?」
ジェマーソンは念を押した。その途端タスカは首を横に振った。
「いや、駄目だ。」
「は?」
「残念ながら、俺は行けない。」
「そ、そうなんですか?」
「本当に悪いんだけどさ。」
タスカは首を振ったまま固まってしまった。
「理由をお聞かせ願えますか?」
「うん……。」
タスカは小さく溜息をついた。
「セイントレア国王女とアーネスタント国王子による平和協定……素晴らしいね。あのさ……ジェマーソンは俺の家庭教師に似て頭が良さそうだから何となく察しはついているだろうけど……うちは、おたくほど意見の統一が為されてないんだ。」
ジェマーソンは頷いた。タスカ王子にとって、このことは触れたくないことだろう。しかし、そこを曖昧にしたままでは協定を結ぶことは出来ない。統一の取れていない国内、それは、今セイントレアがアーネスタントに踏み込めば、セイントレアに勝算があるということを示唆していた。それが分かっていても、いやそれが分かっていたからこそ、このように内密で遠い海を渡って来たのだ。
「色々と困難がある中、タスカ王子がいらしてくださったこと、非常に嬉しく存じます。一つお伺いしたいのですが、アーネスタント国王はタスカ王子がここへいらしていることをご存じなのですか?」
「勿論ご存じないよ。」
「ですよね……。イゼナスク国王は、セイントレア国との平和協定に反対されているのですか?もしくは戦争を起こしたいと思ってらっしゃる?」
「そんなことはない。」
「そうなのですか?」
「うん。アーネスタント国王は、勿論セイントレアと戦争など起こしたくはない。しかし、何というか……。」
「何というか?」
「何というか、考え方がとても保守的なんだ。セイントレアと戦争は起こしたくない。だけど、積極的にそうでないように働く訳でもない。今までと違う方向に動いて、国内が乱れることを恐れている。戦争が起こってしまった時の準備だけはしておいて、起こってしまったらその時対処しようと。」
「一度起こってしまった戦争を治めるのは、起こらないようにするよりも遥かに難しいと思いますよ。」
「俺もそう思うよ。」
タスカは諦めのような溜息をついた。
「無理をしてセイントレアに来た甲斐があった、心からそう思う。セイントレアは戦争を望んでいない、それが確かめられただけでも本当に来て良かったと思う。だけど……。」
「だけど?」
「俺がバルファネ港へ戻った途端、俺の身動きは取れなくなるだろう……。」
「………………。」
「俺がいくらセイントレアとの平和の成立を説明したところで、それを納得させるにはかなり時間が掛かる。」
「………………。では、一月後に平和協定が結べるということは、虚偽だと言うのですか?」
「虚偽ではない!!」
「………………。」
「本当に虚偽などではない。俺は、自分が動けなくなることを想定して道を敷いて来た。」
「道を敷く……?」
「そう。……ねえ、ジェマーソン。我が国で、最も戦を起こしたくないと思っているのは誰だと思う?」
この質問に、ジェマーソンは自国の現状を思い浮かべた。
「王家…………ですか?」
「違うよ。」
タスカはにべもなく一蹴した。
「違うよ。我がアーネスタント国で、最も一線を死守したいのは、ハルナック軍だ。」
その途端、ジェマーソンは頬を張られたような気がした。
ケールは毎日のように報告書を寄こして来た。時には日に二度も三度も。農民や漁師間の些細な争いごと。何故そのような喧嘩に至ったかの経緯。
自分はその全てを手にしていた。しかし、本当に自身の手でそれを取り上げることはなかった。ケールは……いや、ケールなら上手いこと処理してくれるだろう。彼は全てにおいて器用だ、現場で適宜対処してくれるだろう……。そのケールが、痴話喧嘩のような報告とどのように対処すべきかの相談を矢継ぎ早に送って来たのに、親身になってやれなかった。
――見て見ぬ振りをしろ。
それが国の一貫した方針だった。下手に手を出して、戦争が勃発するようなことがあってはならない。しかし…………。
ジェマーソンは、ちらりとタスカを見た。
この王子は、僅かな情報で真実を掴み取り、ここへ来たのだ。このどこを見ているのか分からないような薄いブルーの瞳は本当に何を見ているのか分からない。ジェマーソンは軽い眩暈を覚えて、広い海と空を見渡した。
「どうした、ジェマーソン?」
「いえ……何でもありません。タスカ王子、道を敷いて来たとはどういうことですか?私達は実際、平和協定を結べるのでしょうか?」
「そのつもりだ。俺はバルファネ港で身柄を押さえられて身動き出来なくなるだろうが、水面下で情報が伝達出来る手段を作ってある。国王の勅書でなくても、王子の公文書が必ずハルナック軍へ届くように手配してある。」
「それは…………。」
「「本日、セイントレア国とアーネスタント国は平和が確立した。今から一月後の良き日、両国は正式な平和協定を結び、互いの国土を侵してはならない。」というような文言を、バルファネからハルナックへ飛ばす準備は出来ている。」
「そうなんですか!?」
「うん。」
「しかし……国王による公約ではないのですよね?ランウェル橋で平和条約を結んだものの、後からひっくり返る可能性があるのではないですか?」
「俺一人でバルファネからハルナックへ伝達出来る訳がないだろう?裏に多くの貴族が付いている。」
「多くの貴族?全体の……七割くらいですか?」
「六割……五割くらいかな……?」
四割以下だろう、ジェマーソンはそう思った。しかし、ずっと揉めて来た土地での協定がようやく成立しそうなのだ。ここで諦める訳にはいかない。
「セイントレアときちんとした平和条約を結んだ方がいいと言っている貴族は大勢いるのだ。貴族だけではない、軍もそうだ。だけど父上は、どうにも積極的に動こうとはしない。何ていうかな、自分からそういう話を持ち掛けることで、負けたような気になるのかな。勿論、父上に黙って事を進めるつもりはない。君とセイントレア国と、今回の契約を結んだことを説明して、正式にランウェル橋で締結するという方向で説得する。時間が掛かると言ったのはその為だ。しかしあまりにも決断が遅いようなら、見切りを付けて先程の方法でハルナックへ伝える。」
「ランウェル橋で協定を結んだものの、形勢が大きく反転することはありませんか?」
「ない方に賭ける。ね、戦争を起こしたいか起こしたくないかで言ったら、戦争を起こしたくない貴族、軍人の方が多いんだよ?いつの時代もランウェル周辺は常に火種となっていて、ハジャとパリアグラスの恩恵にあずかっている当事者以外は、あの土地ばかりに経費やら人材やらを割かれるのが非常に煩わしくなっている。まあ莫大な価値のある物だから関係者は必死だが、そんなのは全体で見たら超ごく一部だ。奪った物が永遠に手に入るのならまだしも、奪ったり奪い返したりの繰り返しで多くの命が失われた。」
「百五十年前に決着が付いたと思われましたのにね。」
「もうあそこを、昔のような戦場にしたくはない。戦争を起こしたところで互いに被害が出るばかりで、百害あって一利なしだ。」
「私もそう思います。」
「アーネスタントの大多数もそう思っているんだ。ランウェルで戦を起こすより、平和協定を結んだ方がよっぽど価値がある。と皆思っている。無事協定を結んだ曉には、さすが国王、ご明断です!とまるで国王の采配で成就したかのように一斉に褒め称え、周りから固めてしまうつもりだ。そこまで来たら、今更自分は聞いていないだの協定を取り消せだの言っては来ないだろう。」
「なるほど………………。」
ジェマーソンは深く息をついた。……不可能な話ではない。現時点でアーネスタント国王の確約は得られていないが、このタスカ王子の提案はよく考えられていて信憑性がある。不安材料は多々あるが、この話を中央に持ち帰り、いざ結論をタスカに伝えようと思ったところでその手段がない。これは、どうやら前に進むしかなさそうだ……ジェマーソンはそう判断した。いずれにせよ、こちらの方が有利であることには変わりはない、期限は一ヶ月あるのだから。
「タスカ王子、あなた様がおっしゃること、了解いたしました。最初の提案通り一月後、ランウェル橋で平和条約を結びましょう。」
ジェマーソンがそう言うと、タスカは小さな花が咲いたかのようにぱっと笑った。
「ありがとう。…………ランウェルの調印には、ハルナック軍の司令を行かせたいと思う。テルダス・コディントン。大佐だ。彼はもっともランウェルでの戦いを阻止したいと思っている一人だ。身分が低すぎるだろうか?」
「いいえ。」
ジェマーソンは首を振った。
「いいえ、そんなことはありません。では、我が国からもペイジ軍の司令を出しましょう。ケール・カリビアサイナ。准将です。彼は嘗て私の直属の部下でした。彼もテルダス大佐と同様に、ランウェルの平和を心から願っております。」
「そう、それは良かった。」
「素朴ないい式典になりそうですね。」
ジェマーソンがそう言うと、タスカもほっとした様子で頷いた。
やっと一つ落しどころが見出せた……と安堵したいところだが、ジェマーソンはそれが元帥の仕事ではないことを自覚していた。
ペイジでは、セイントレア中央軍大将が二師団を割いて待機している。ということは完全に伏せて、ジェマーソンは微笑んだ。恐らく、アーネスタント軍も似たようなものであろう。ジェマーソンは、タスカが「戦争が起こってしまった時の準備だけはしておいて」と言った文言を、決して聞き逃しはしなかった。
「タスカ王子、一つだけよろしいですか?」
ジェマーソンは緊張が表に出ないよう、何気ない感じを装って口を開いた。
「何?」
「今回の平和条約が無事結ばれること、心より祈っております。但し……。」
「但し?」
「……御国の軍人が、我が国の民間人或いは兵士に攻撃を加えた場合、今回の協定は成立しなかったと判断することをお許しください……。」
「うん……そうか。アーネスタントの民が危害を加えた場合はどうなの?」
「それはいつものことなので、ある程度考慮します。」
「要は、軍が動いたら容赦はしないぞと?」
「はい……。非常に残念ですが、今回ここでタスカ王子がお話くださったことが、何らかの暗礁に乗り上げてしまったと判断させて頂きとうございます。」
ジェマーソンはボートにすっぽり嵌るほど、低く頭を下げた。
「俺、そういうの嫌い。頭上げて。」
「………………。」
「貴殿の言っていることはよく分かった。……了解した。」
ジェマーソンはゆっくりと顔を上げた。
「では一月後の調印に向けて、我が国は全力を尽くします。タスカ王子、遠路遥々お越しいただいて、誠にありがとうございました。」
ジェマーソンは再び深く頭を垂れた。
「こちらこそ話を聞いてくれてありがとう。君が対応してくれて良かったよ。」
「そう言って頂けると嬉しい限りでございます。」
「そう?でもなあ…………。」
「でも?」
ここへ来てタスカ王子に何か不満があるようには見受けられなかった。しかしタスカ王子にとって何かしら思うところがあるのなら、蟠りは極力残さない方がいい。小さな綻びはいずれ大きな穴へと発展する可能性がある。ジェマーソンは食い下がった。
「タスカ王子、私が気付くことが出来なかった不備がございましたか?」
「え?……不備っていう訳じゃないけど。」
「気になります、仰ってください。」
「君のせいではないのだけど……。」
「君のせいではない?どういうことですか?」
「何て言うかなあ……格好よすぎるのがなあ……。」
「は……?」
「どうも俺の家庭教師に似ているんだよな、恰好いいし、何か食えないし。」
「そ……そう言われましても……。」
「なんて冗談だよ。色々助かったよ。」
「はあ……。」
どこまでが冗談なのか分からず、釈然としない気持ちでジェマーソンは首を傾けた。
「冗談だって、冗談。ほら、気にしないで。」
「はい。……そういえばタスカ王子、帰路で足りない物などございませんか?食料や水など――――。」
「……………………。」
「……タスカ王子、どうなさいましたか?」
「……………………。」
「タスカ王子!?」
「……………………。」
タスカは急に固まってしまった。ジェマーソンはタスカが失神したのかと思ったが、そういう訳でもなさそうだ。貧血のように倒れ込む様子もなく、ボートの上で姿勢を保っている。しかし、目が虚ろで自分の手元辺りに視線を落したまま、こちらの声がまるで聞こえていないようだった。ジェマーソンは焦った。自身のボートから身を乗り出して、タスカを揺さ振った。
「タスカ王子!!タスカ王子!!」
「え?ええっ!?ジェマーソン、どうしたの!?」
「えええっ!?タスカ王子、どうなさったのですか!?」
「え、俺!?……ああ、ごめんね。何か疲れているみたいだ。」
「疲れ!?何かご病気なのではないですか!?」
「大丈夫、大丈夫。」
「そ……そうなのですか?」
「全然平気。」
「もしよろしかったら、エクリスタでお休みになられませんか?」
「ほんと大丈夫。船に戻って休憩するよ。」
「そうですか……?」
「多分一つ話が決まって急にほっとしちゃったんだ。」
「はあ……。」
「えっと、何の話をしていたんだっけ?」
「ああ。あの、船にご入用な物はないかと思いまして。水とか食料とか、何なら薬など……。」
「たっぷり積み込んだのを確認して出て来たから大丈夫だよ。ジェマーソン、ありがとう。心配かけてごめんね。」
「いえ……。」
タスカの急変振りにジェマーソンは驚いたが、今の彼は病の様子もなく元気いっぱいで溌剌としている。さっきのは何だったんだ?と思いを巡らせている間に、タスカは手を差し出して来た。
「では、ジェマーソン。目指す一ヶ月後に向けて俺は大急ぎで帰るよ。貴殿も達者でな。」
「え、ええ……。」
戸惑いながらも、差し出された手をジェマーソンはしっかりと握った。
「タスカ王子、あなた様が突破口を開いてくださったこと、心より感謝いたします。どうか、お気を付けて……。」
「うん。」
タスカは神々しいまでの笑顔を向けると、ジェマーソンの手を離し、ボートを漕ぎ出した。ジェマーソンは深く頭を下げてそれを見送り、ぽちゃりぽちゃりと波に櫂を入れた。
……先程のタスカ王子は何だったんだ…………?
急に意識を失ったかのような王子の姿が何度も頭を過る。人はあんな風に、突然意識がなくなるようなことがあるのだろうか?うん……元々具合が悪かったのなら分かる。高熱を出していたり、腹痛があって冷や汗を掻いているのに、何かしなくちゃいけないことがあったりとか。ああ、ご婦人には多いな。急に血の気を失って立っていられなくなったり。でもそういう場合って自覚症状があることが多いよな、どうも朝から調子が悪かったんですって。タスカ王子は調子が悪いようには見えなかったが……。あ!そういえば彼は病弱なんだっけ?そんな噂を聞いたことがある!もしかしたらそういうご病気なのか!?いや…………噂はあくまでも噂だ。ましてやずっと国交がなかった国同士の噂なんてもっとも信用が出来ない。うーん……どうにもすっきりしないな…………。あ……れ……?何か自分は、さっきのような場面を見たことがあるような?ないような?あー、何だっけ?タスカ王子みたいにあんな極端な感じではなくて、あれ?っていう違和感。若い兵士が……緊張して……いや、違うな、若い女性が……緊張して……いや、違う。学生の時……いや違う、ひょっとしたら夢なのか?うーん、思い出せない。何だっけ……何だっけ…………?
もやもやした気分を抱えながら、ジェマーソンは港を目指してのろのろと船を漕ぎ続けた。




