中
食堂で、コロッケだと思ってわくわくしながら食べたらメンチカツだったときのちょっと複雑な心境のようなもの。
これは前回、おそらく一本にまとまるだろうとたかをくくっていたらなんかとんでもない文章量になっていて脂汗をかいた、水沢のワープロに対する愛というか思い出というか愛の続きです。
脂汗は、きちんと流してきました(清潔感)。
おや、サブタイトルの様子が…中…だ、と!?
12万のワープロ。月3千円の小遣い。
頼みの綱の帝愛グループ(親)はこの多額の融資を拒絶した。不採算事業(娘が真面目に勉強しない)と見なされたからである。
どう考えてもどう転んでもワープロの入手は不可能のように思えた。しかし悲しみにくれる私に運命の女神が微笑んだのは、その数ヶ月後、高校一年生の冬休みのことである。
正月の一ヶ月間のうち何日間かだけだが、ある決められた場所でなら特別にアルバイトをしても良いことになっていたのだ。年末にこの事実を知った私は歓喜した。
あの人をようやく迎えに行くめどがついたのである。
そして10日間という短い期間ではあったが、はじめての社会経験の末、私は6万円という今でもちょっと簡単には入手できない額を手にすることが出来た。諭吉から新券の良い匂いがしていたことを、今でもはっきりと思い出せる。
約半年に及ぶ長い片思いの末、私の手元にやってきたのはシャープの『書院』というワープロである。
セール品で半額になっていたのも運命だと思った。
一応今回シャープ製のワープロについて能書きをたれるに当たってWikipediaで下調べをしてきたのだが、『書院』で有名なシャープは2000年まで新型のワープロを発表しており、東芝の『TOSWORD』『Rupo』や富士通の『OASYS』、NECの『文豪』と並んで日本語ワープロ専用機の四大ブランドの一角と言われていたそうだ。
確かに当時のテレビCMで聞いたことのある有名な名前が並んでいる。YouTubeで昔のCMを見ていると、当時の味のある映像が面白いのでおすすめしたい所である。
詳しくはWikiをご覧頂きたい。
個人的に『シャープでは2014年までユーザーサポートを行っており、最後は個人のワープロのパーツを使ってまで修理して下さっていた』、というところで不覚にも目頭が熱くなった。
旧型AIBOの修理を引き受けてくれる会社があったり、この国の技術職人の心はなんて優しいのだろうか。尊敬しかないと思っている。
私の新しい相棒は、部室にあった黒いワープロの後続機に当たる。
薄いグレーのボディにワイドな画面(当時としては)。
持ち運びのしやすいコンパクトなサイズ(あくまで当時としては)。
カタカタと小気味よい音をたてる硬めのキーボード。これぞまさに理想の殿方。私の運命の人。全財産をつぎ込んでお迎えして良かったと心から思った。
そしてそれからというもの、私は寝る間も惜しんで文字を打ち続けた。夜遅くまでカタカタ打っている音がうるさいといわれれば、頭から掛け布団をかぶって画面のバックライトを頼りに言葉を打ち続けた。
面白い言葉が浮かんだ瞬間に言葉を入力したいと、家にいる間は基本的にコンセントはさしっぱなしで、スイッチ一つで電源が入れられるようにしていた。どこに行くにも一緒だった。
持ち運び専用のカバンがついているわけではなかったので、画材店で大きいスケッチ帳などを入れるためのカバンを買い、そこに入れて持ち運んでいたのである。
ただ先ほどコンパクトサイズとは言ったが、それはあくまで据え置きタイプとの比較である。
取っ手が一応はついているものの、ぶら下げてみるとずしりと重い。2リットルのペットボトルで言えば2~3本分くらいの重さはゆうにある。形だって現在のB4サイズのノートPCなどと比べてみてもさらに二回りは大きい。
この持ち運びができる、というのはイコール『外に持ち運びする』ではなくあくまで室内で持ち運びをする、という事なのだと今冷静に考えればわかるのだが、当時の私は『デスクトップ型じゃないから持ち運べる』という認識だった。若さって、やはり強いのである。
そして、そんな大きな代物をなんと自転車の前かごに無理矢理押し込んで、友人の家まで1時間くらいの道なりを山を越え(比喩ではない)遊びに行っていた。夏は遠くに陽炎が揺らめき、冬は寒空に雪が舞った。けれども友人とワープロを持ち寄ってアニメやゲームの話をしたり、TRPGのプレイに興じる日々は、何物にも代えがたい宝物のような時間だった。
本当に情熱って、熱く恐ろしいものである。
今の私には、ここまでのめり込むだけの体力がもう残されていない。
なぜここまで私はワープロに、もとい文字を書くということに執着していたのだろうか。
今思えば、これは私のささやかな反抗であった。
私の父は研究家である。
今では猫好きの好々爺でしかないが、若かりし頃の父は娘の私のことなどこれっぽっちも愛してはいないのだと思っていたくらい、本当に躾に厳しい気むずかし屋、かつ気分屋な大人だった。悲しいかな、私は景気よく叩かれて育った世代である。
母に対してもまた、父と同じような態度を私に向けていたように感じていた。姉の私が何をしても両親は気に入らず、弟ばかりが溺愛され、私はこの家には必要のない子供なのだと、高校時代は思いながら過ごしていたものである。
中学生の頃までの私は、表だって親に逆らうことができない子供だった。
親がこうしろと言えばこうする、ああしろと言えばああする、といった、いわゆる『親にとっての良い子』として生きていたのである。この生き方しか私が家族の中で居場所を確立する方法がなかったからだが、そんなイエスマンだった娘が突然、高校入学を境に親が理解できない価値観を振りかざすオタクになったのだ。おそらく宇宙人にでもなったのだと思ったのだろう。
もっと反抗心をむき出しにして真っ向から立ち向かえば良かったのかもしれないが、そうするにはまだ私は幼かった。
それに当時の大人は、現代よりもずっと怖い存在だった時代である。刃向かえば刃向かっただけの報復があった。
今では当時の私の生活態度にも問題はあったので、叱られても仕方がなかった、と思う。実際の所は二人とも愛情深い、古い昭和の人間なのである。
少なくとも今の私は、両親を愛している。
そんな当時の私はおそらく今で言うところの陰キャラという奴で、周りの同級生達は眩しい存在として映った。
皆一様に悩みがなさそうに見えていたけれど、普通に考えてそんなはずはない。様々な悩みを抱えていたはずだったけれど、それを一部の友達同士以外には誰にも見せないようにしていただけのことで、同級生達は私よりよっぽど大人だった。
けれどもいつも花のように笑っていて、よっぽど幸せそうに見えたから、私も皆と同じ生き物になりたかったのだ。
毎日ころころと鈴を転がすように笑いながら、幸せな娘として生きていきたかった。
理不尽な親の言葉に傷ついて、夜中にぼろぼろと泣きながら布団を頭からすっぽりかぶって、ただひたすらワープロのキーボードに思いの丈を告げていたあの頃。
誰か、私の気持ちに気付いてよ。
私、すごくすごくさみしいんだよ。
こんな私の甘えを、ワープロはいつも黙って優しく受け止めてくれる。甘やかされた私は、心の中のもやもやとしたなんとも言えないものを、さらに重ね続ける。
ねえ、今、君はこんな気持ちなんだね。
だから、こんな文章を書いているんだね。
読み返してごらん、自分の心を。
君はここで傷ついて、
ここで、悲しく思ったんだね。
そうだよ、そうなんだよ。
私ただ、気付いて欲しかっただけなんだよ。
このせつない胸の内を。
誰かに愛して欲しいと願って、その気持ちを詩にして。
自分の居場所が欲しいと願って、その思いを物語にして。
口ではうまく伝えられない言の葉を、文字に託そう。
そうしたら私も、きっと皆と同じ普通の高校生でいられる。
素直で優しい気持ちで生きていける。
優しい彼と一緒に出かけたり、友達と学校帰りに駅前でハンバーガーを食べたり。ケンカして泣いて、仲直りして笑って。笑って笑って。ずうっと楽しいんだ。
紫の月の夜の頃だった。
今ここでこの文章を書いている私の物語は、そこから生まれた。
長い長い、言葉を紡ぎ続ける人生の始まりである。
(ウソみたいだろ。つづいちゃうんだぜ、これで…。)
今は両親と大変仲良くやっております。
弟は幼稚園の頃からの筋金入りのシスコンで、こちらも変わらず仲良くしてるので、姉弟間のしがらみはありません。子供と親は、どうしても反発するもの。親の心子知らず、またその逆も然り、と言ったところでしょうか。落としどころ、というのは必ずあるものなのでしょう。
それにあの高校時代があったから、今日の私があるのです。
ここまで長文にお付き合いくださり、誠にありがとうございます。
残念ながらまだ続いてしまうことをお許し下さい。
ここまで読んで下さり、まことにありがとうございます。