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黒犬幻譚

黄昏幽霊

作者: ginsui


「黄昏どき」

 笑みを浮かべたまま彼女は言った。

「昼と夜のあわい。この時間が一番好き」

「ぼくも、かな」

 ぼくは彼女の横顔を見やった。

 長い睫毛がきわだつ、色白の綺麗な顔だ。

 家の近くの公園だった。

 池や芝生もあって結構広く、休日には家族連れで賑わうが、平日の夕方はジョギングする人や犬の散歩をする人をちらほら見かけるばかりだ。

 近道なので、ぼくはいつも公園を横切って家へ帰る。

 彼女を始めて見かけたのも、アルバイト帰りの夕方だった。

 彼女は、池の周りの遊歩道を犬を連れて散歩をしていた。ぼくと同年代、二十歳くらいだろうか。細身のジーンズに臙脂色のパーカー、ポニーテールの長い髪。

 でも、最初にぼくの目を引いたのは彼女の犬の方だった。真っ黒な毛並みの、すばらしく美しい大型犬だ。

 短毛で鼻は細長く、両耳がぴんと尖っていた。長い足、長い尾、ほっそりとしてみごとに均整がとれた肢体。筋肉が動くたび漆黒の身体は光を含み、鋼めいた青みを帯びて見える。

 毎日ほぼ同じ時間にすれ違うようになって、はじめて目礼を交わした時、ぼくは、ついに声をかけた。

「いい犬ですね。すごく綺麗だ」

「そう?」

 彼女は微笑んだ。

「ほめられたわよ、ツヴァイ」

 犬は、彼女を見上げ、尾を立てた。

「ツヴァイという名なんですか」

「ええ」

「さわって、いい?」

「どうぞ」

 ぼくは犬が好きだ。自慢ではないが、これまで犬に吠えられたことは一度もない。

 ツヴァイの前にかがみ込み、その頭をなでてやった。

 漆黒といってもいい艶やかな毛はひんやりとして、あとからじんわりと温みが伝わってきた。

 ツヴァイはぼくを見つめていた。黒々とした輝きを持つ、賢そうな眼差しだった。

「いいなあ」

「犬が好き?」

「うん。でもぼくの実家はマンションだから、大きな犬は飼えないんですよ」

「そうなの」

 その日はそれで別れた。

 次の日はもう少し長く話し、さらに次の日も。四日目には池の端のベンチに一緒に腰掛けるまでになった。

 夕焼けは濃く、池の面は金色がかってさざ波をたてていた。

 あたりはぼんやりと黄味を帯びている。

 遊歩道から下りたところにあるので、通行人の邪魔にはならない。彼女はリードを長くしてツヴァイを好きにさせていた。

 ツヴァイを見ているのは、まったく飽きなかった。流れるような筋肉の動き、鞭のようにしなる長い尻尾。

 池の周りには桜の木が植えられ、そろそろ木の葉が色づきはじめていた。

 ツヴァイは近くの桜の木の根元で、じゃらけるように両足を上げたり、飛び跳ねたりしている。

 羽虫でも見つけて遊んでいるのだろうとぼくは思っていた。

 ツヴァイは地面に伏せ、大きく口を開けた。何かを飲み込むような仕草をし、満足げに口の周りを舐めた。

「おいしかったわね」

「え?」

 ぼくは、思わず彼女を見た。

 彼女は、ぼくを見返した。

「ツヴァイは幽霊が好きなのよ。水辺にはたいていいるわ」

  彼女の目はいたずらっぽく笑っている。

「黄昏どきのが一番いいって」

「へえ」

 冗談かと思い、ぼくも笑う。

「水辺だけじゃなく、踏切や四つ角なんかにもいるよね」

「そうね。幽霊が、どうして生まれるか知ってる?」

「そりゃあ、死んだ人の未練が残って‥‥」

「それだけじゃないの」

 彼女は楽しげに言葉を続ける。

「他の人の思いがかかわってくるのよ。身体が無くなった霊は、それは小さくて儚げなもので、いずれは掻き消えてしまう存在。でも、未練があっただろうとか、また会いたいだとか、恨みがあるだろうとか、そういった生者の思いを受けて成長していくの。もちろん、ここには幽霊が出そうだ、とかの期待や恐怖も糧」

「おもしろい説だね」

「あら、ほんとよ」

 にっこりして、彼女は言った。

「だから、おいしいの」

 すっと、冷たいものを感じた。

 彼女は立ち上がり、ツヴァイのリードをまいた。

 だいぶ陽が落ちていた。

 彼女とツヴァイは、夕闇の中に去って行った。


 それきり、彼女とツヴァイには会わなかった。

 公園で、彼らの姿を見ることはなかった。

 いくぶん、ほっとしたことは確かだ。

 ぼくは、大学を卒業し、就職し、結婚もした。

 奇妙な彼らのことは、繰り返す生活の中で、記憶の底に沈んでしまった。

 それなのに、なぜいま、こうして思い出しているのだろう。

 この、ぼうぼうとたちこめるような黄昏のせいだろうか。

 ぼくは、街角に立っていた。

 目の前を、人々や車が行き交っていた。

 かたわらに、ひしゃげた街路灯があった。

 供えられた新しい花に気づき、はっとした。

 ここに車がつっこんできたのだ。

 しばらくは記憶がない。

 やがて、ゆうらりとどこかを漂っているような感じとともに、ぼくは自分を意識したのだった。

 そうか、ぼくは死んだのか。

 家族の悲しみ、友人の同情、痛ましそうに、あるいは好奇心をもって花に目をやり通り過ぎる人たち。

 彼らの思いが、希薄だった空気のようなぼくに密度を持たせていた。

 ぼくの存在を形づくり、この場につなぎ止めているのは彼らなのだ。

 彼らが忘れるまで、ありつづけるしかないらしい。

 いや──。

 ぼくは、こちらにやってくるものに気がついた。

 しなやかに美しい一匹の黒犬だ。

 後ろでは、変わらぬ彼女が微笑みを浮かべていた。

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