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群青、君が見た空の軌跡  作者: 乃上 白
第一章
83/190

83話 初夏の風

 6月19日の朝、いつものように三人で朝食のテーブルに着いたとき、ハンスは唐突に口を開いた。

「アレク、怪我の状態を診て欲しいんだ。」

 続いて右手の包帯と副木を外し、席を立ってアレクの前に差し出した。


 アレクは黙ってその手を取り、そっと患部を押した。だがハンスは以前のような痛みを感じることは全く無かった。

「すっかり治ったよ。全然痛く無いし、骨が曲がったりもしてないと思う。」

 笑顔で言うハンスに、アレクは頷いた。

「…そうだな。触れた感触も問題無さそうだ。」

 アレクが手を離すと、ハンスは捲っていたシャツを直して手首のボタンを留めた。イスに掛け直すと改めて二人を見た。


「俺は明日ここを発つ。アレク、約束通り父さんの話を聞かせて欲しい。」

 ハンスの真っ直ぐな目を見返して、アレクは少し寂しそうに頷いた。

「そうだな…、約束だからな。…もちろん全て話そう。」

 アレクが了承すると、ルカが焦ったように声をあげた。

「明日って…突然過ぎるわよ!もっと事前に知らせるとかできないの!?」

「ごめん。でも約束通り一ヶ月経ったし、明日の朝ここを発つよ。」

「…アトリアに帰るの…?」

 ハンスが頷くと、アレクがルカを宥めるように声を掛けた。

「ルカ、ハンスにはアトリアで待っている人たちがいる。さみしいのは分かるが、笑顔で送り出さないとな。」

「さみしくなんかないわ!…前の生活に戻るだけだもの。」

 言葉とは裏腹に、ルカは沈んだ様子で口を閉じた。ハンスはいつも通りのルカでいて欲しかったが、何と声を掛ければいいか分からなかった。

「朝食を食べたらみんなでルカの畑に行こう。今日は天気が良くて気持ち良さそうだから、外で話をするよ。ハンス、それでいいか?」

 アレクが穏やかに言うと、ハンスはうん、とつぶやいた。ルカはハンスと目を合わせないまま、ぽつりと朝食のパンを口に入れていた。



 畑では夏に収穫されるたくさんの野菜が実をつけ始めていた。トマトやズッキーニ、アーティチョーク、フェンネル、アスペルジュなど様々な種類の野菜がその特性に合わせた形で丁寧に植えられていて、畑はしっかりと手入れされている。

 ルカは実家で畑をやっていたため畑仕事は一通りできるが、カザンの気候と違うラスキアで、しかも高地にあたるこの辺りで野菜を立派に育てるためにはかなりの試行錯誤を繰り返したらしい。その結果、今では二人で食べるには十分過ぎるほどの量の野菜が収穫できるようになっていた。


 三人は畑の横の森との境のあたりにある、小さな小屋の隣に置かれたベンチに腰掛けた。初夏の朝の爽やかな空気が森の中を駆け抜け、後ろから三人の間を通り過ぎていった。

 ベンチは木陰に覆われていて、夏の眩しい太陽も直接は当たらない。心地よい空気と風に包まれながら、ハンスは穏やかな気持ちで隣に座ったアレクの話を聞こうとしていた。


「今日は本当にいい天気だな。雲ひとつない快晴だ。ハンスのような飛行機乗りにとっては、絶好のレース日和といったところか。」

 ハンスは顔を上げて空を見た。夏の空は青く澄んでいて、遠くの方で名も知らない白い鳥が気持ち良さそうにゆったりと横切っていった。

「…うん。風も穏やかだし、機体への影響は少ない。こんな日は飛ぶのにぴったりだ。」

 ハンスはレースに燃えた日々を思い出した。アルデバランで父の話を聞いた直後にはそんなことを思い出すのは苦しくて出来なかったが、今は落ち着いた気持ちであのときの自分やみんなのことを思い返せるようになっていた。


「飛行機で空を飛ぶのって、どんな気持ち?鳥みたいに自由に飛び回れるの?」

 隣に座っていたルカがふいにハンスに尋ねた。ハンスはルカの顔をちらりと見てから、ゆっくりと空に視線を戻して答えた。

「そうだな…、自分が居なくなったみたいになる。空に溶けて風や空気と一体になって、機体の中にいることも忘れて…。うまく言えないけど、鳥みたいな感覚なのかもな。そのときは、本当に自由だよ。」

 ルカは空を見上げるハンスの横顔を見た。その顔には少し寂しいような、悲しいような色が浮かんでいるようにも見えた。

「…そう。素敵ね。一生に一度でいいから乗ってみたいな。」

 ルカらしくない穏やかなつぶやきに、ハンスはパッとルカの方を見直した。

「じゃあいつか乗せてやるよ。すぐには無理だけど、一生に一度だったらいつかはチャンスがあるだろ。」

「…随分適当に言うわね。まぁ、ありがたく受け取っておくわ。乗ってみたいのは本当だし。…いつかね。」


 アレクはそんな二人のやり取りを暖かい気持ちで聞いていた。

「…ハンス、俺が君の父親に初めて出会ったのもこんな穏やかな夏の日だった。アトリアの南海岸にあるキディラインで行われたレースを家族で見に行ったときのことだ。俺もフランツも当時10歳で、学校は別々だったが共にセントラルにある義務学校に通っていた。」


 アレクの声はハンスの耳に静かに響いた。まるで風で揺れる草木が奏でる音と同じように心地よかった。そしてそのままアレクが知っている父の人生の全てを語ってくれた。

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