76話 偶然の遭遇
「ハンスさん!?」
反射的に振り返ったとき、思いも寄らない人物の登場にハンスは一瞬混乱した。そこに居たのは義父の秘書であるスミルノフだった。
スミルノフはすぐにハンスに近寄り、かなり慌てた様子で小声で話しかけた。
「どうしてあなたがこんなところに!?あの事件のあと行方不明になったと聞いてずっと心配していたんです!事件後すぐアトリアの住民が島外に渡航することは禁止されたのに、一体どうやって本土に渡ったんですか!?」
ハンスは答えに困った。そもそもなぜスミルノフがこんなところに居るのかわからなかった。
「それは…、申し訳ないけれど答えられません。…あなたこそなぜここに?」
「私は先生についてここに来ました。今アトリアの州議員はほぼ全員ラスキアードに招集されています。」
なぜアトリアの議員がここに召集されているのかを聞こうかと思ったら、スミルノフがそれを遮って続けた。
「移動して少し話せませんか?…どうかお願いします。あなたの聞きたいことにも全てお答えしますので。」
かなり真剣な目で言われて、ハンスはつい頷いた。まだまだここで新しい情報を得たかったが、考えてみればスミルノフはアトリア議会とラスキア政府両方の実情を知っている可能性がある。今自分が知りたい生の情報を得るには最適な人物かもしれない、とハンスは考えを切り替えた。
二人は共に図書館を出た。スミルノフは国会議事堂等の建物とは反対方向の、大きなデパートや店が立ち並ぶ中心地からも少し離れた場所へ真っ直ぐに向かって行った。ハンスは黙ってその少し後を歩いた。
人気も車通りもほとんどない路地に入って少し歩くと、スミルノフはすっと路地に面した建物の地下へ続く階段を下りて行った。ハンスもそれに続いた。
階段の先には重厚な扉の隣に小さく店名のサインがあった。バーのような外観に思えたが、真昼間のため店が開いているようには見えなかった。
階段を降り切ったところで、スミルノフは持っていた鞄から鍵を取り出し、目の前の重厚そうな扉を開けてハンスに中に入るよう促した。
店の中は真っ暗だったが、すぐにスミルノフがパッと電気をつけた。やはりカウンターといくつかのソファ席のある高級なバーといった造りだったが、全体的にやけに重厚過ぎる雰囲気で、カウンターの奥に並ぶ酒も一見して高級そうなものばかりだった。
扉を閉めてカウンターに向かおうとしたスミルノフに、ハンスはまずここはどこなのかを尋ねた。
「ここは先生が出資をしているオーナーが経営するバーで、先生がラスキアードで要人と密談をするときは決まってここを利用しているんです。ただ利用するのは大抵夜ですし、昼間は営業もしていませんから誰も来ません。どうぞ、そちらのソファにお掛けください。」
言われるまま、ハンスはソファに座った。スミルノフはカウンターの奥でグラスを用意していた。
「よろしければ何か召し上がられますか?コーヒーや紅茶は香りが残るので、他にはお酒か水しかご用意が無くて申し訳ないのですが…。」
「いえ、結構です。何も要りません。どうぞ気を遣わないでください。」
ハンスの返事を聞くと、スミルノフは畏まりました、と答えながらカウンターを出てハンスの対面にあるソファに座った。ハンスはスミルノフに秘書らしい言動が染み付いている様子を感じ取った。
「あの、あなたが聞きたい話って…僕がお答えできる範囲のことであればいいのですが…。」
ハンスは自らスミルノフに尋ねた。情報を得たいと思ってついて来たのはいいものの、逆に質問されたとしても自分が答えられるようなことはほとんど無いと思った。
事件の後何があったかも、どうやって本土へ渡ったのかも、どうして図書館にいたのかさえ何も答えられない。すると意外なことに、スミルノフは穏やかに笑った。
「いいんです、まずはあなたの質問をお聞かせください。私の分かることであれば何でも正直に答えます。」
ハンスはスミルノフの方から誘ったのにも関わらず先に自分に質問させることに違和感を感じたが、聞きたいことはたくさんあったので、とりあえず言われるまま口を開いた。
「えっと…ゾフィーの婚約者の件はどうなりましたか?ヴァルツァレク長官が殺害されて話は消えたと思うのですが、義父が政略結婚自体を諦めたとは思えないし、一応確認しておきたくて。」
「ええ、おっしゃる通り長官が殺害されたことで話は立ち消えになりました。ただ先生はもちろん政略結婚自体を諦めてはいないと思います。現在ゾフィーさんがクルト・フェルマン氏の家に居ることも把握していますが、少なくとも今すぐにどうこうということはないでしょう。まずはご自身がラスキアードへ移られてから改めて呼び寄せようとお考えになっていると思います。」
「ラスキアードへ移る?義父が?」
「はい。これはアトリアには一切出ていない情報なのですが…、ラスキア政府はアトリアの議会を撤廃するつもりです。6月20日に開催予定の両院協議会で、アトリア特別行政法の改正が決議されれば議会の撤廃が確定となります。そうすれば現在のアトリア州議員のうちアトリア派と呼ばれている議員以外のほとんどの親ラスキア派議員はラスキアードへと移る予定です。そしてラスキア政府の各官庁が所管する外郭団体や関連する民間企業への高待遇による斡旋、あるいは国会議員へ鞍替えするための票の融通などが約束されています。」
ハンスは思わぬ情報に驚いた。アトリアの議会が無くなる…!?
「アトリアの議会が撤廃されれば…いよいよアトリアがラスキア政府に直接支配されることになるということですか?」
「はい。そうなります。先ほど今日の新聞をご覧になっていらっしゃいましたね?昨日の一般教書演説の全文を。」
ハンスが頷いたのを見て、スミルノフは続けた。




