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群青、君が見た空の軌跡  作者: 乃上 白
第一章
72/190

72話 思想の大海

 ハンスはひたすら本を読み耽った。

 怪我が治るまでの仕事として本の整理を頼まれた書庫には、アレクが言った通り素晴らしい本が大量に眠っていた。


 ソクラテスやプラトンなど古代の哲学者から始まり、マキアヴェッリの『君主論』やホッブズの『リヴァイアサン』、ロックの『統治二論』にモンテスキューの『法の精神』、ルソーの『社会契約論』、デカルトの『方法序説』、近代ではカントの『永遠平和のために』、ヘーゲルの『法の哲学』、ミルの『自由論』、キルケゴールの『死に至る病』、シラーやゲーテらの詩や戯曲など、ハンスがこれまで全く手に取って来なかった哲学や思想、芸術に関する名著が乱雑に積まれていた。

 また、書庫の中でも一部きちんと本棚に収められた部分には、エーリヒ・フロムやハンナ・アーレント、ポール・エリュアール、その他ランケやマイネッケ、シュペングラーら歴史学者による歴史書など、アレクが追加したらしいつい最近に出版されたような本もかなり多数あった。

 ハンスはそれらを片っぱしから読んでいった。まさに朝から晩まで寝食を忘れてひたすら読んだ。


 そんなハンスにルカはすっかり呆れ、はじめは食事も碌に取らないことに文句を言っていたが、そのうち諦めたのか書庫まで呼びに来ることは無くなった。その分ハンスがたまに食事に顔を出したときにはここぞとばかりに突っかかった。


「あら珍しい。あんた、アレクが食事当番のときだけ来てるんじゃないでしょうね?」

 ハンスが席に着くや否や、例のごとくルカが文句をつけてきた。

「…違うよ。たまたまだ。」

「どうかしら?私の料理じゃ、あんたの極端でバカバカしいくらいの知的欲求には勝てないんでしょ。ほとんど寝ずに本ばかり読んでるなんて、逆に頭がどうかしちゃうんじゃないの。」

「…かもな。」

「そもそも昔の人間の考えばかり知ったって、今のことを知らなきゃ意味ないわよ。一日中書庫に居て、今日の天気さえ知らないでしょ。」

「書庫には新しい本もあるし、ずっとラジオをつけっぱなしにしてるから時事情報は常にチェックしてる。心配するな。」

「心配なんかしてないわ!呆れてるのよ!!ちゃんと食べて運動して睡眠を取らないと、怪我なんて一生治らないわよ。」

「そうだな。確かにルカの言う通りだ。本を読み終わったらそうするよ。」

「読み終わったらって、一体何冊読む気なの!?書庫の本全部なんて言うんじゃないでしょうね!」


 ハンスはすでにルカの口の悪さが少しも嫌では無くなっていた。むしろ難しい本を読み続けて頭が飽和状態になったときなんかは、何となくルカの文句が聞きたくなった。

「ルカ、言ってることはもっともだが今のハンスには何を言っても無駄だろう。仕事さえすれば後はそれぞれの自由だ。怪我の治り具合もハンスの責任だからな。」

「だって、治りが悪かったら一ヶ月どころじゃなくてずっと居ることになっちゃうじゃない!」

「俺はその方がむしろ嬉しいぞ。ルカもそうだろ?ハンスが来てから随分生き生きしてるもんな。」

「は!?誰がー!」

「ほら、ルカ、そこの皿を取ってくれ。ハンスは飲み物を注いで。」

 はい、と言いながらハンスが立ち上がると、ルカはいかにも文句を言いたげな様子でアレクを睨んでから、それでもちゃんと皿を取りに立ち上がってアレクに渡していた。ハンスはそんなルカの言動を見ているとつい笑いがこみ上げてきた。

「お前って、面白い奴だよな。」

 ハンスが笑ってそう言うと、ルカは眉をひそめてハンスを見た。

「何よそれ!バカにしてるんじゃないでしょうね。 …でも、あんたの笑った顔、はじめて見たわ。」

 ハンスはその言葉にハッとした。しばらく自分が笑っていなかったことに初めて気づいた。


「…心身が回復してる証拠だ。さあ、食べよう。」

 嬉しそうに微笑むアレクに促されて、全員が席に着いた。食事に手をつけ始めると、アレクはルカに苗の生育状況などを質問した。

 この前植えたばかりなんだから大して変わってないわ、それより今日森の中の渓流でカワセミを見たのよ、上流のこのあたりじゃあ珍しいでしょ、本当に翡翠みたいな美しい青色で宝石みたいだったわ…とルカから次々と言葉が溢れた。


 ルカはどうやら動物が好きなようだった。ハンスは以前見たルカの笑顔を思い出した。

 小さなリスに向けて微笑むルカは本当に優しい顔をしていたが、その後アレクに同じような笑顔を向けているのを何度も目にすることができた。

 それを見てハンスは安心した。血の繋がりがなくても二人は全く本当の親子にしか見えなかった。


 食事が終わると、ルカは食事の後片付けを、アレクは仕事の続きをしてくると言って離れにある作業場へ向かった。ハンスは一度書庫に戻って一冊の本を持ち出し、アレクがいる作業場へ足を向けた。


 アレクは機械類の修理を請け負っているらしかった。作業場には時計やラジオ、オーディオ機器、工作機械の部品のようなものなど、様々な種類の機器が置かれていた。それらはここに住み出してから知り合った人にたまたま依頼されて修理したものが評判を呼び、いつの間にか増えていったんだという。


 できるだけ自給自足の生活をしたいから、あまり増えても困るんだがな、とアレクは笑っていた。ハンスはそんな二人の生活を心から羨ましく思った。


 幼い頃からついこの間まで身の回りのことは何でも他人にやってもらっていて、そのことに何の疑問も感じていなかった自分を恥ずかしく思ったが、アレクはそれを否定した。君は置かれた環境の中で必死に生きてきただけだ、それに気づいた今は以前よりもさらに多くのことを吸収することができる、と。

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