63話 小さな理想郷で
「ちょっと、いつまで寝てるつもり!?もうお昼よ!」
ルカは乱暴に屋根裏部屋に登るとハンスを叩き起こした。ハンスは目を開けた先にある見慣れない景色に一瞬どこだか分からなかったが、ルカの顔を見てすぐに思い出した。
「ああ、ルカか…。…今何時だ?」
「今何時だ、じゃないわよ!立派な時計つけてるんだからそれで見なさいよ。そもそも起きるのくらい自分でやってよね!」
起きた途端にぷんぷん怒っているルカを目の前にして、ハンスは寝ぼけた頭を起こそうとした。
「さっさと下に降りて!アレクが呼んでるわよ。」
相変わらずそっけなく、ルカはすぐに屋根裏部屋へ繋がる梯子を降りていった。
ハンスは寝ぼけた状態のままゆっくりと立ち上がった。屋根裏部屋の天井はハンスが真っ直ぐ立つのがやっとの低さだった。もう昼だとルカが言ったとおり、部屋の窓からは暖かく明るい光が降り注いでいる。
そっと窓際に近づいて外の様子を見たとき、ハンスは驚いた。そこには想像したよりも遥かに雄大な景色が広がっていた。
まだ山頂に雪を残した蒼い山がすぐそこに見えるようなところに聳え立っている。手前は森のような木々が生い茂り、正面に見える大きな山以外にも峰のように連なった山脈が左右に広がっていた。
セントラルで生まれ育ったハンスにとっては、初めて見る雄大な山の景色だった。ラスキア―ドは都会だとばかり思っていたので、近郊の山奥だとはいえ窓のすぐ外にこんな景色が広がっているとは想像もしていなかった。
思わず窓を開けると、初夏の香りのする爽やかな風が部屋の中になだれ込んできた。聞こえるのは鳥のさえずりだけだった。暖かい光が庭に咲く野花を照らしていて、そのまわりには白い蝶が何匹かふわふわと舞っている。
まるで桃源郷だな、とハンスは思った。少なくとも6年前までは父と共にアトリアの独立を画策していた人物がなぜ今こんなところでひっそりと暮らしているのか、ハンスには見当がつかなかった。
父の死のショックによって完全に独立を諦めたんだろうか?でもアルデバランは継続して計画を進めているし、アルデバラン側はアレクの居場所を把握していた。
そこまで考えたとき、アレクが呼んでいるとルカが言ったことを思い出し、ハンスはようやく部屋の梯子に手をかけた。
一階へと続く階段を下りると、リビングの方からいい香りが漂ってきた。
「ようやく来たわね。ほんとのんびりしてるんだから。危機感が無いのも頷けるわ。」
小さなダイニングテーブルのイスに座って縫いものをしているらしいルカが、ハンスの方も見ずに文句をつけた。
「ハンス、おはよう。よく眠れたか?」
続いて台所で料理をしていたアレクがハンスに声を掛けた。
「…おはようございます。よく眠れました。」
「そうか、よかった。まずは体を洗って着替えなさい。そしたら昼食にしよう。ルカ、ハンスを風呂場に案内してやってくれ。」
言われたルカは縫いものをしている手を止めてアレクを睨むように見た。
「私はこいつの女中でも召使でもないわよ!何で勝手に突然やって来た奴の世話をしなきゃならないの?これだってこいつが着るためでしょ!?」
「こいつじゃない、ハンスだ。世話をしろとは言ってない。まだ来たばかりなんだから、最初だけは色々と教えてあげなさい。そうしたら後は自分のことは自分でやる。それが俺たちのルールだ。そうだろ?」
ルカはまだ文句を言いたそうだったが、反論の余地が小さいと理解したのか、いかにも仕方ないといった様子でゆっくりと席を立った。ハンスは見た目に反したルカの口の悪さに昨日は少しイラついていたが、一日にしてすでに慣れた感じがして気にならなかった。
ルカに案内された風呂場で体を洗い、用意された服に着替える。リビングに戻るとハンスはすぐにルカに礼を言った。
「ありがとう。服も用意してくれたんだな。」
「…仕方なくよ。これからは全部自分でやりなさいよ。」
わざとそっけなくつぶやきながら、ルカは台所でコップに水を注いでいた。アレクはハンスが戻ったことを確認すると穏やかに声を掛けた。
「そこへ座ってみんなで昼食にしよう。ハンス、君の選択も聞かないとな。」
相手に選択を委ねているような口ぶりだが、先ほどからのアレクの言動からして、自分の中に父の話を聞かずに帰るという選択肢がないことはとっくに見透かされているように感じた。この人は自分の思い通りに相手を動かすことに長けている。すぐにでも話を聞きたいのは山々だが、目の前の相手を説得することの難しさを、すでにハンスは感じていた。
アレクは皿に注いだ料理をテーブルに運んで席についた。ルカもコップと水差しを運ぼうとしていたので、ハンスはそれを手伝ってそのまま席に座った。
「さぁ、食べよう。」
アレクとルカは同時にいただきます、と手を合わせた。ハンスも二人に続いていただきます、と丁寧に手を合わせてから料理に手をつけた。ラトゥに似た煮込み料理にアトリアでは珍しかったライスが添えられている。ただアトリアらしく香辛料がふんだんに使われたラトゥと違い、よりあっさりとした味付けだった。
「それでハンス、気持ちは固まったか?」
食べ始めてすぐに、アレクはハンスに尋ねた。そんな風に訊く時点でハンスの答えはすでに悟られているように思えた。
「…正直に言えば今すぐにでも話して欲しいというのが本音ですが…、あなたには何を言っても条件を変えられそうにない。…怪我が治るまで待ちます。」
「そうか、よかった。怪我が治るまでここでゆっくりしなさい。折れた右腕をそのままにしておくような状況だったんだ、ここに来るまで相当無理をしてきたんだろう。…今の君には休養が必要だ。」
ハンスの決断を聞いたアレクは一見して嬉しそうに見えた。ハンスは複雑な気持ちだったが、昨日の夜に今の自分の状況を分析して、今すぐにアトリアに帰らなければならないような状態ではないと分かると少し落ち着いていた。
それにルカも言ったように、このまま適当に怪我を放っておいたら右腕が使えなくなる可能性があることも分かっていた。今後再び操縦桿を握るようなことがあるかどうかは分からないが、そうでなくても元通りになるまで一度しっかり治すことは自分にとって必要なことのように思えた。
「ちょっと、怪我が治るまでっていつまで居るつもり!?どのくらいで治るの?」
ルカが再び怒って口を挟んだ。
「…以前医者に診てもらったときには一ヶ月ほどと言われた。今は訳あってそのときより容体が悪化しているけど、それでも一ヶ月あれば治ると思ってる。」
ハンスが答えると、アレクも頷いた。
「そうだな、その状態だと最低でも一ヶ月はかかるだろう。俺としてはいつまで居てもらってもいいんだが…。」
「冗談でしょ!?突然やって来た素性も知らない男と同じ屋根の下で一ヶ月も一緒に暮らせって言うの?せめて自分が誰なのか、説明くらいしなさいよ!」
言われて初めて、ハンスはルカに対して自分が誰なのかさえちゃんと伝えていなかったことに気がついた。
「そうか、悪かった。俺はアトリアから来た、死んだアレクの親友の息子だ。ここに来た理由は昨日の話で大体わかっただろ。親父の話を聞くためだ。…ていうか、そっちも自己紹介しろよ。ルカはアレクの娘か?」
「私とアレクに血の繋がりはないわ。私は四年前までカザンにいたの。カザンの首都であるタラズでアレクに会ってから、色々あってここで一緒に暮らすことになったのよ。」
「色々って?」
「色々は色々よ!まだほとんど知らないあんたに全部話すわけないでしょ!」
あっさりと突き放すと、ルカは黙々と食事を続けた。するとハンスはアレクを見た。
「…6年前の事故の後、あなたはカザンに渡ったんですか?」
「そうだ。正確には事故の一年後にカザンに渡った。あの事故でフランツや多くの幹部を失ってから、アルデバランは一度大きな混乱に陥った。フランツが居なくなったことで統一されていた反政府組織は再びバラバラになり、俺はそれを止められなかった。到底フランツと同じようには出来なかったんだ。…それでも何とかある程度組織を立て直し、計画を引き直してから、他の人間に後を託してカザンに渡った。表向きはカザンからアルデバランへの支援を受けるためとしていたが、本当は…逃げたんだ。フランツを失ったことは俺の中であまりに大きかった。カザンでアルデバランとのパイプをつくることに成功したら、そのままカザンに留まろうとも考えていた。カザンでなくても、ロティタギルでもベルスタードでもどこでもよかったがね。」
アレクは淡々と語った。話の筋は通っていると思ったし、父を失った後のアレクの気持ちも、ハンスにはよく理解できた。
「でも、そのままカザンに留まらずにラスキアに戻って来たのはなぜですか?アルデバランの話では、あなたは今組織とは少し距離を置いているということでしたが。」
「それを話すには、ルカとの出会いについても触れないといけないな。…ルカ、ハンスにお前のことを話してもいいか?」
アレクがルカに確認すると、ルカはちらっとだけアレクを見て返事をした。
「…勝手にして。私は別に隠すことなんてない。話すと長いから面倒なだけよ。ごちそうさま!お皿を洗ったら、畑に行ってくる。」
「わかった。森を通るときは気をつけろよ。」
アレクの言葉に頷くと、ルカはさっと立ち上がって台所で皿を洗い出した。アレクは再びハンスに向き直った。
「さて、ハンスの質問に答えよう。ただ後で俺の質問にも答えてもらえるか?聞きたいことは山ほどあるんだ。」
アレクは柔らかく笑った。ハンスがしっかりはい、と答えたのを確認すると、アレクはカザンに渡った後のことについてゆっくりと語り出した。




