51話 混沌の先へ
早朝の港には穏やかな風が吹いていた。
季節は春から初夏に移りかけたところだった。あのレースの日のような晴れやかな空は、今のクリスの心と正反対な明るさに満ちていた。
クリスはハンスが自分ではなくヴィルやクルトに会っていたことに複雑な気持ちを抱いた。ヴィルと会ったのは偶然だろうが、それでもハンスが一番つらいときに側にいてやれなかったことが悔しかった。
天気に相反した暗い気持ちで基地へと続く道を曲がりふと顔を上げると、基地の扉が全て開け放たれていた。
一瞬まさかと思いながら駆け出した。ハンスかもしれない−!チームクルーの誰かが開けただけかもしれないが、それでも祈るような気持ちで基地まで走った。
基地に入ってすぐに機体の周りや奥のソファーのあたりまで確認したが、人影はなかった。ただ誰かが扉を開けたことは間違いない。
人が来た形跡はないかとよく見たら、工具箱の一部に使われたような形跡があった。クリスがそれを確認していると、後ろでカタンという小さな音がした。反射的に振り向くと、なんとハンスが機体に乗り込んだところだった。
「ハンス!!!」
クリスはすぐさま叫んだ。ハンスは一瞬驚いた目をして何かを小さくつぶやいたが、すぐに口をつぐんだ。
「どこにいたんだよ!?みんな心配してたんだぞ!?」
クリスは機体に駆け寄って叫んだ。ハンスはクリスから目を背けようとしたが、クリスは手を伸ばして片手でハンスの肩を掴んだ。それでもハンスはクリスの方を見なかった。
「…悪かった。俺なら無事だとみんなに伝えてくれ。」
「お前が直接みんなに言えよ!機体から降りろ!!どこに行くつもりだ!?」
クリスはハンスの肩に伸ばした手に力を込めたが、ハンスはそれを振り払ってクリスの肩をドンッと強く押し、同時に機体のエンジンをかけた。
「ハンス!!やめろ!!どこへ行く!?ゾフィーを放っていくのかよ!?」
後ろに倒れたクリスがプロペラの風圧に耐えながら叫ぶと、ハンスはやっとクリスを見てはっきりと言った。
「俺は必ず帰る。クリス、それまでゾフィーを頼む。」
ハンスは一気に機体を発進させた。加速したハンスの機体を言葉で追いかけるように、クリスは「ハンス!!」と大声で叫んだ。
ハンスは一切スピードを緩めることもなく滑走路の先でふっと空へ吸い込まれ、瞬く間に澄んだ青空へと浮かび上がった。
クリスが唖然として立ち尽くしていると、突然ジルベールとレイが基地へ駆け込んで来た。
「クリス!!あれハンスか…!?」
ジルベールは真っ直ぐ海の向こうへ飛び立っていく機体を見とめた。
二人はクリスと同じように学校の前に基地に寄ろうとしたところ、たまたま基地の裏側のあたりで自分たちの機体が滑走路を駆けていくのを目撃したのだ。
クリスは小さくなったハンスの機体を眺めながらジルベールに答えた。
「ああ…、ハンスだ。」
クリスはやっと見つけたと思ったハンスがあっという間に行ってしまったことに呆然としたが、現実に引き戻すようにレイが叫んだ。
「ハンスはどこへ行ったの!?あの機体はラジエーターが無いから、冷却水を最大に積んだとしても航続時間は30分も保たない。もしあの方向へ真っ直ぐ行ったとしたら…!」
レイはあの機体では長距離飛行は無理だと分かっていた。ハンスが向かった方向はラスキア本土方面で、もし直線距離で向かったとしてもあの機体が着陸まで持つとは思えなかった。
レイの言葉にクリスもハッとした。ハンスがもしあのままラスキア本土に向かったとしたら、それこそ自殺行為だ。
次の瞬間、クリスは自分の制服のポケットにしまってある一枚のメモのことを思い出し、すぐさま駆け出した。
「クリス!?どこに行く!?」
ジルベールの声にも反応せず、クリスは一目散に北へ向かって走った。メモに記された中心街より北側にある中流階級の集合住宅が立ち並ぶエリアへは、おそらく港から走ればたったの5分ほどの距離だ。
ジルベールとレイはクリスがどこに向かっているのか全く見当がつかなかったが、とにかく後を追いかけた。突然走り出したクリスが何かハンスを救うために動いていることは明らかだった。
クリスは等間隔で配置されている街灯に記された住所を確認しながら走り、一件の古いアパートの前で足を止めた。ジルベールとレイも同じく足を止めて息を整えた。
クリスが持っていた一枚のメモは、ゾフィーがクリスの家に送られて来たときにゾフィーを連れて来た女性から手渡されたものだった。
女性は自分の正体を明かさなかったが、もし今後ゾフィーやハンスに命の危険があるようなことがあれば、このメモに書かれた住所を訪ねて欲しいと言った。ただし、それ以外のことでは決して近づいてはいけないと念を押した。もし近づけばクリス自身だけでなく他の仲間にも危害が及ぶ可能性があるから、あくまでも命に関わるような緊急時にのみ使うようにとのことだった。
クリスはそれが今だと思った。ジルベールやレイに説明するより先に、意を決してアパートに足を踏み入れようとした。
そのとき道路の向こうから声をかけられた。
「クリス君!?」
振り向くと、あのゾフィーを連れて来た女性が一人の男性と共に狭い石畳の道路の向こう側に立っていた。女性はすぐにクリスのもとに駆け寄った。
「どうしたの!?ここへ来るのは本当の緊急時だけと言ったでしょう。」
「緊急時なんです!今ハンスが自分の機体に乗ってー」
クリスが咄嗟に答えようとすると、一緒に来た男性がそれを遮った。
「ここで話すのはまずい。入れ。」
小声でささやくと素早く三人をアパートの中に引き入れた。さらに通路の奥にある部屋の前まで行って鍵を開けると、音もなくさっと全員を中に入れた。
続いて男性と女性はすぐに玄関の脇にある扉を開けて地下へと続く階段を降りていった。三人も無言でそれに続いた。
ジルベールとレイはここがハンスたちを拉致した組織の基地であるということをすぐに察した。すでにクリスからゾフィーを連れて来たのは女性で敵意は無さそうだったと聞いていたし、先ほどの会話とこの状況からクリスがその組織を頼ってここまで来たことを理解したからだ。




