47話 火が消えるとき
周りを囲んでいる者たちを掻き分けて、ヴィルはハンスを襲っている男に対して叫んだ。その男は再び殴ろうと拳を振り上げていたところだったが、ヴィルの声に反応して振り向いた。
「…ヴィルか?ちょうど良かった、こいつー」
「何やってる!?やめろ!!離せ!!!」
ヴィルはすぐにハンスの胸ぐらを掴んでいる男の手からハンスを引き離した。
「ヴィル、こいつは昨日お前を負かした航空学校のチームの奴だろ?お前の宿敵だ。俺が仇を取ってやるよ。」
「バカ、昨日負けたのは俺のせいだ!こいつのせいじゃない。そもそもなぜこいつがここに居る!?お前らが拉致したのか!?」
「…違う。元々こいつがここに居たんだ。なぜかは知らねぇけどな。」
その答えにヴィルはハンスを見た。ハンスはぼんやりと目を開けてはいたが、どこも見ていないような虚ろな目をしていた。
「…とにかく、こいつは俺が預かるからお前らは今すぐ帰れ。昨日の事件でセントラルでも治安維持部隊の数が異様に増えてる。もし上流階級の奴に手を出したとバレたら即連行されるぞ。」
殴っていた男は不満げな顔をしつつも、ヴィルに対して何も言わなかった。治安維持部隊の数が相当増えていることは事実だし、そもそもここではみな貧困街からレースパイロットになったヴィルに一目置いているのだ。
男が離れると、他の仲間もゾロゾロとその場を立ち去った。
男たちが去っていったのを確認すると、ヴィルはすぐにハンスに声を掛けた。
「おいハンス、大丈夫か!?なんでここに居た!?」
呼びかけてもハンスは黙っていた。その暗い目を見たヴィルはいつものハンスとのあまりの違いに驚いた。真っ直ぐなハンスの目を直視できなかったのは自分の方だったのに、今はまるで逆になったような感覚だった。
「…とりあえず、ここは危ない。移動するぞ。歩けるか?」
ヴィルはハンスを支えて立ち上がった。ハンスの手には包帯が巻かれていて、身体は明らかにボロボロだった。何よりあのハンスが一切抵抗することもなくただ力なく殴られていたことに違和感を感じざるを得なかった。
二人は近くにあった古いバーのような建物に入った。入ってすぐにある低い出窓部分にハンスを座らせると、ヴィルは一旦奥のバックヤードに消えた。
大きめのブランケットを手に戻ると濡れたハンスの背中に雑に掛け、近くにあった小さな薪ストーブに火をつけた。同時にカウンターの上にあったランプに火をつけると、ようやく周囲が見えるようになった。
「…ここは随分昔に潰れた店だけど、俺にとっては子供の頃からの秘密基地なんだ。昔はよくここで一人本を読んでた。航空力学や航空機設計の本を図書館や街の本屋でかっぱらってきて、夢中で読んだんだ。」
話しながらヴィルは薪ストーブの上に水を入れた小さなやかんを置いた。しばらくして水が沸騰すると、コーヒーの粉を入れた大きめのマグカップにそれを注いだ。
「飲めよ。」
ヴィルがハンスにマグカップを手渡すと、ハンスはゆっくりとそれを手に取った。ヴィルは反応があったことで少し安心し、自分のカップにも同じように熱いコーヒーを注いでカウンターのイスに掛けた。
ハンスは両手にその温かさを感じながら、ようやく混乱した自分の気持ちを落ち着かせようとしていた。整理することは不可能なので、全てを忘れてリセットしたかった。だが、もう元の自分には戻れない気がした。
「お前のそのケガ、昨日のレースで負傷したのか?それともあの後の事件でか?…どちらにせよ、しばらくは操縦できないな。せっかく念願の空軍パイロットになれたのに、早速負傷兵かよ。」
ヴィルは少しだけ落ち着いたように見えるハンスを見て言った。ハンスは相変わらず黙っていたが、しばらくすると突然口を開いた。
「…俺は軍には入らない。」
静かに放たれたその言葉に、ヴィルは驚愕した。
「…は…!?…何言ってる?殴られて頭がどうかしたのか?」
だがハンスは何も答えず再び黙った。するとヴィルは突如自分の頭に血が上るのを感じた。
「おい、ふざけるなよ!!冗談で言ったとしても許さねぇぞ!昨日のレースで俺を大差で負かして優勝したくせに、お前がパイロットにならないってどういうことだよ!?」
ヴィルは立ち上がってハンスを睨みつけたが、ハンスはヴィルの方を見ようともしなかった。たまらずヴィルはハンスの胸ぐらを掴んで無理やり自分の方に顔を向けさせた。
「何とか言えよ!?」
ハンスは初めてヴィルの目を見た。怒りに満ちたその目を見て、ハンスは羨ましいような、懐かしいような気持ちになった。そしてゆっくりと口を開いた。
「…もういいんだ。」
そう口にすることで、ハンスは自分の中に灯っていた火が完全に消えるのを感じた。冷え切った心でヴィルを見ると、ヴィルの目には怒りに加えて困惑したような色が滲んでいた。
「もういいって…何だよそれ!俺との賭けのことも忘れたって言うのか!?それとも初めからただの遊びだったのかよ!?」
ヴィルは複雑な気持ちをどこにぶつけたらいいかわからず、反射的にハンスを殴ろうとして右手を振り上げた。ハンスは殴られるのを覚悟して目を瞑った。だがヴィルは寸手のところでその手を下げ、ハンスのシャツを掴んでいた左手をバッと離した。
目を開けたハンスは自分と同じように目標に向かって突っ走っていたヴィルのことを想った。
「…ごめん。俺との賭けのことは忘れてくれ。お前にはこれからもレースを続けて欲しい。」
それはハンスの本心だったが、ヴィルははっきりとそれを拒否した。
「だめだ。俺は二度とレースに出ない。自分から言ったんだ、撤回することはない。」
頑な言葉にハンスは困惑した。ただ何と声を掛けたらいいのかわからなかった。
「ヴィル…」
それでもハンスが何か言おうとすると、ヴィルはそれを遮るように声を荒げた。
「一体何があったんだよ!?今のお前は昨日とまるで別人だ。死んだような目をしやがって、あのレースで見せた強靭な精神力はどこに行った!?」
「…何もない。これまでの自分の方が嘘だったんだ。ただ自分の目標に突っ走って周りを巻き込んで、それ以外のことは全く見えてなかった。ーでも、本当は違う。わざと見ないようにしてたんだ。そうすることで自分が正しいと思い込んでた。」
ヴィルはハンスの言葉の意味がわからなかった。だがハンスはそれ以上語ることなく立ち上がり、持っていたマグカップをヴィルに渡した。
「…ありがとう。少し頭を冷やしてくる。」
わずかに微笑みながらそう言って、ハンスはガラス製のバーの扉をそっと開けた。
「待てよ、何処へ行く!?」
ハンスは何も答えずにそのまま外へ出て行った。
ヴィルは一瞬ハンスの背中を追いかけようとしたが、今引き止めたとしてもこれ以上自分に言えることは無いと思い、ハンスが出て行った後のドアをただ呆然と見つめた。




