46話 闇の中
ハンスはただ闇雲に走った。何も考えたくなかった。これまで自分を支えていた何かが大きく崩れて突然闇の中に放り出されたが、前に進むための足場を探ることも、周囲を確認するために火を灯そうとすることも、今のハンスには不可能だった。
同時に右腕のケガの痛みが堰を切ったように全身を襲い、頭痛も一向に治まらなかった。それらを忘れるためにひたすら走った。
だがしばらくすると走ることもできなくなった。ついにその場に倒れ込み、雨に濡れた体は熱くなって感覚の無いまま小さく震えた。ハンスは膝を抱えて俯き、両腕で耳を塞いだ。ここがどこかなど考えることもできなかった。
どのくらいそうしていたのかは分からないが、半分眠るようにうずくまっていたとき、突然肩を掴まれた。
「おい、ここで何やってる!?」
強く揺さぶられて顔をあげると、自分と同じくらいの年齢の男がこちらを真っ直ぐに睨んでいた。辺りはすっかり暗くなり、周りには所々に弱い光の街灯が灯っているだけだった。
「誰だお前…この街の者じゃないな。ここは俺たちの縄張りだ。どこから来た!?」
乱暴に胸ぐらを掴まれて無理やり立たされ、いつのまにか数人の男が自分の周りを囲んでいることに気づいた。その内の一人がハンスを見て声をあげた。
「おい、その服、航空学校の制服じゃねぇか?」
ハンスは昨日救護室で目覚めたときから、右手のケガによって上は制服の下に着ていたシャツ姿だったが、下はレース用の制服のズボンとブーツを履いたままだった。その男のセリフに他の男も同調した。
「そうだ、間違い無い。昨日ヴィルを負かした航空学校のパイロットじゃないだろうな。それともチームクルーの一人か?」
するとハンスの胸ぐらを掴んでいた男が再び声を荒げた。
「…そうなのか?答えろ!上流階級の奴がなんでこんなところに居る!」
ハンスはそんなことに答えるような状態ではなかった。いつもなら相手が誰であろうと何人であろうと全く怯むことはなかったが、今のハンスには何もかもどうでもよかった。
昨日のレースも、そのために全てを賭けてきた日々も、すでに遠い昔のことのように思えた。
ハンスが何も答えないでいると、その男はいきなりハンスの右頬を殴った。ハンスは体ごと飛ばされて地面に倒れた。右腕が潰されるような痛みが走ったが、それでも抵抗する気は起きなかった。
「おい、何とか言え!殴られたいのか!?」
男は倒れたハンスの胸ぐらを再び掴んで怒気を発した。だがハンスはその男の目を見ることもなかった。それに憤った男は再びハンスを殴った。
仕事を終えたヴィルは久しぶりに実家に帰ろうとしていた。普段は会社の近くにある寮で生活しているのだが、今日は家に帰ろうと決めていた。昨日のレースで負けたことを兄弟たちに謝らないといけない。
自分はパイロットになれなかった。3位でゴールした瞬間にそれは分かっていた。近年のパイロット試験では合格者は毎回1〜2名だったし、2位との差があり過ぎた。
レースの前まではもし負けたら自分はどうなるのだろうということが頭に浮かんでは考えないようにしていた。それほど怖かった。
けれど昨日実際にゴールした瞬間には、想定外に冷静だった。自分の全てを出して、それで完敗した。想像したよりも遥かにすっきりとした気持ちで、自分はハンスやゾフィーと共に表彰式を迎えるつもりだった。あの事件が起こったせいでそれは叶わなかったけれど。
貧困街へと続く小さな橋を渡って、荒れた道路に出た。舗装もされておらず土が剥き出しで、雨に降られた地面はぬかるみ、側溝もないため道路の端に小さな川をつくっていた。貧困街の道路はどこもこんなものだ。雨はだいぶ前に止んでいたが、ヴィルは暗い中水たまりを避けながら歩いた。
住宅街へ入る入り口のあたりまで来たとき、誰かの怒号が聞こえた。聞き覚えのある声だった。この貧困街の中で自分と同じ歳くらいの奴らは、満足に学校に行けなかったことからまともな仕事に就けず、ギャングまがいのことをして他の貧困街の連中らとよく衝突している。
自分はそんな風になりたくなかった。他の子供と同じように学校にはなかなか通えなかったが、小遣い稼ぎの仕事や兄弟たちの面倒を見る合間を縫っては近くの中心地にある大きな図書館に通い詰め、ひたすら航空力学や航空機設計の本を読み漁った。
そのおかげで今の会社に入ることができ、夢だった空軍パイロットまであと一歩のところまで行った。その夢は叶わなかったけれど、それはひとえに自分の努力が足りなかったからだ。最大限に努力するための情熱と、絶対に目標を達成するという執念が、自分には足りていなかった。ただそれだけだった。
歩きながら何となく怒号が聞こえたあたりを確認すると、予想通り同じ年代の知り合いが誰かを殴っていた。いつものことだと思って通り過ぎようとしたが、ふと殴られている奴の服装が目に止まった。周りに立っている仲間のせいではっきりとは見えないが、紺色の航空学校のブーツを履いているように見える。ヴィルはまさかと思いながら近づいた。
「…ハンス…!?」
つぶやくと同時にヴィルは駆け出した。近づいて栗色の髪を見た瞬間、殴られているのがハンスであることを確信した。
「おい!!やめろ!!!」




