45話 喪失
「…人生を選択できる自由だと?それはお前ら上流階級の中だけでのことだろうが。お前みたいに限られた一部の中でしか生活していない奴にはアトリアの本当の現状が見えてないだけだ。貧困街で一生を終える奴らのことを一度でも考えたことがあるか?…お前は自分の目標のためにただひたすら突っ走ってきた。だがそれは、アトリアの多くの人々には一生手に入らない、望みもしないようなことだ。…そんなこと考えたこともないだろうがな。」
壁に背をつけてずっと話を聞いていたドレイクがハンスを見て口を開いた。ハンスは再びドレイクを睨むように見返した。ドレイクはその目線に応えるように続けた。
「お前だけじゃなく上流階級のほとんどがそうだ。自分たちの生活が全て、アトリア全体がそうだと思い込んで汚い部分に蓋をし、真実を見ようとしない。お前は自分が全て正しいと思っているんだろう。フランツのことも受け入れられない。ラスキア軍の高官として活躍し、憧れであり尊敬していた父親が、反政府組織などという訳のわからない無法者たちのリーダーをしていたなんてな。」
「違う!!俺はただー」
ドレイクに反論しようとして、ハンスは言葉に詰まった。俺はただ…何だ?
「俺はただ、父親みたいなパイロットになりたかっただけ…か?けっこうなことだ。自分の周りの平和な世界から一歩も出たことがないくせに、戦闘機に乗って人を撃つことができるのか?お前は井の中の蛙なんだよ。自分のことばかりで全く周りが見えてない。フランツとは大違いだな。」
ドレイクが吐き捨てるようにそう言うと、見かねたクラースがゆっくりと口を開いた。
「…ドレイク、言い過ぎだ。ハンスは自分の置かれた環境の中で必死に生きてきた。戦闘機に乗って人が撃てるかどうかなんて、軍に入る前の人間が考えても仕方のないことだ。そういうのは兵士になってから教育され、必然的に経験する。フランツとハンスが違うなんて当たり前だろう。親子であっても別々の人間なんだ。フランツだって、ソフィアと出会っていなかったらどうなっていたかわからない。」
ハンスは母親の名前に反応した。クラースの言葉で、父親がなぜ反政府組織に加担したのかというその原因が、自分の母親にあることを察した。
「…ハンス、ドレイクの言葉は真実だが、君が全てを抱える必要はない。これはアトリア全体の問題だからだ。一方で、君が言った悲惨な戦争を引き起こす必要がどこにあるのかということは、我々もこれまで散々考えてきた。そしてその結果が今のこの状況だ。昨日の事件をきっかけとして、我々はこれからラスキア政府からの独立戦争に突入する。」
エラルドは言い終わった瞬間にハンスが再び自分の目を見たのを確認した。だが最初のような真っ直ぐで力強い目ではなかった。混乱と絶望が入り混じり、奥に秘めていた光は失われていた。
「…君にとってはそんなことよりも父親がなぜ反政府組織に身を投じたのか、という疑問の方が重要だろうな。母親の名前も出てきて余計に混乱しているだろう。だが、残念ながら俺はその質問には満足に答えられない。その話をするのに最も適した人物は、今ラスキアード近郊の山奥にいる。かつてアルデバランでフランツの右腕として指揮を執り、フランツにとって幼い頃からの一番の親友でもあった人物だ。訳あって今はアルデバランとは少し距離を置いているが、もし君が我々の組織に入ると言うなら、彼と引き会わせよう。」
その言葉を聞いて驚いたのはドレイクだった。
「おい、こいつを入れるだと!?聞いてないぞ!俺は反対だ!」
それに対しエラルドが静かに続けた。
「入れるとは言ってない。もしハンスが入りたいと希望したなら歓迎するということだ。俺たちはみんなそうだろう。誰かに言われたのではなく、自らの意思で足を踏み入れたんだ。…そうでなければいけない。」
ハンスはもう何も考えられなかった。自分の足元が音もなく崩れ、手に掴もうとしていた目標は闇に消えた。エラルドの言葉に返答するどころか、考えることさえも拒否していた。
「…すぐには考えられないだろう。とにかくまずは君をクリス君の家まで送り届けよう。…そうだ、ゾフィーの婚約の件だが、もう心配しなくていい。昨日の事件で最初に狙撃されて死亡したのがバルツァレク国防長官だったからだ。政略結婚の意味は無くなったからな。」
エラルドは席を立った。ハンスに外まで移動するよう伝えたが、ハンスは反応を見せず俯いたままだった。
仕方なくエラルドがハンスの隣まで回り込み、片方の腕を軽く掴んで立たせようとすると、ハンスはすぐさまその手を振った。そのまま勢いよく立ち上がって乱暴に入り口の引き戸を開けると、ためらうことなく小雨が降る中を走り去って行った。
「ハンス君!!」
アンネが慌てて外まで追いかけたが、すぐに姿は見えなくなった。
「アンネ、放っておけ!どうせ捕まえたって言うこと聞くような奴じゃない。」
ドレイクの言うことは正しいかもしれないが、アンネは混乱した様子を見せていたハンスのことが心配だった。
「…でも、このあたりは貧困街も近いし、あの制服で外へ出たら…。」
「それだけで殺されるってことはないだろ。むしろあいつは現実を見た方がいいんだ。」
ドレイクの突き放すような言葉を受けて、アンネは困ったようにエラルドを見た。
「…今の彼には時間が必要だろう。決めるのはハンス自身だ。そっとしておくしかない。」
エラルドにもそう言われて、アンネは仕方なくハンスを追いかけることを諦めた。
これまで信じてきたものが突然姿を変えたとき、あの強く真っ直ぐな目をした少年の瞳はどう変わってしまうんだろうと、アンネはやるせない気持ちで降り出した雨を見つめていた。




