38話 残像
4つ目のゲートを通過したあとの短い直線を過ぎると、すぐに2回目のスラロームがある。ハンスは驚異的な集中力で1回目と同じようにほぼ直線でスラロームを突っ切った。
一方さすがのゾフィーも無駄のない動きで見事にスラロームを駆け抜けたので、その距離はほとんど縮まらなかった。
ただ次にはいよいよ最後のポイントとなるUターンが待っている。優勝を賭けた勝負がこの最後のターンに委ねられたことは、誰の目にも明らかだった。
最後のターンは1本のシングルゲートを軸に180度旋回するだけのシンプルなルートだ。ターンを終えた後には短い直線があるだけですぐにゴールゲートを迎える。
それでもこの最後のUターンは観客が最も盛り上がるポイントだった。なぜなら観客席の目の前でターンを曲がる瞬間のデッドヒートが見られるからだ。
そのシンプルな軌道だけに、ここでは単純にターンの出来が勝負を左右することになる。その出来を左右するものとは、旋回するギリギリまでスピードを出し切れるか、そしてそれを制御するだけの技術を持ち得るか、この二つだけだ。
ハンスは2回目のバーティカルターンですでに右腕が限界に達していることを感じていた。そのあとのスラロームはバーティカルターンに比べるとGがゆるいため何とか集中して乗り越えられたが、いよいよ最後のUターンに入る直前、突然視界が見えにくくなっているのを感じた。グレーアウトだー。
下方に大きなGがかかることによって脳に充分な血液が行き渡らなくなり、視野が狭くなったり色調を失うことをグレーアウトと言う。
ハンスは普段から耐Gのための訓練を欠かせたことは無く、これまでのレースでも完全にグレーアウトした経験は一度も無かった。
Gがかかる瞬間、パイロットは下半身に力を入れて力むことと特殊な呼吸法によって脳に血液が回るようにコントロールする。だが今回は右腕の激痛から、Gがかかった瞬間にその対処を十分に行うことができなかった。また、右腕を庇う為に左腕にも相当な負担がかかっていた為、体全体の疲労が限界を超えていたのだ。
ハンスはすでにゼェゼェと息が上がり、普段のレースではありえないほど汗も吹き出していた。それでもこのターンに全てを賭けた。
最後のUターンに臨んだ2体はピットや観客席の目の前にあるゲートに向かって真っ直ぐに加速した。春本番のこの日、雲一つない晴天の空は、既に初夏の香りのするほどの暖かさに満ちていた。
2人の機体は共に最速速度で駆け抜け、いよいよゲートを曲がり切れるギリギリの地点に達したとき、ゾフィーの機体は見事鮮やかに素早く旋回体制を整えた。だがすぐ後方にいるハンスはまだ最大スピードのままだった。
誰もがこのまま曲がり切れるはずがないと思いゾフィーの勝利を確信した瞬間、ハンスの機体がゲートの先で急旋回した。
スピードを出し過ぎていたため、旋回による遠心力に耐えきれずに確実にゲートにぶつかる軌道だった。
見ていた全員が息を飲んだ。
ハンスはターンに入る直前にグレーアウトしていることを感じたとき、同時に右手が痙攣して動かないことにも気づいていた。だが軽い酸欠状態になった頭では何も考えられず、ただ感覚だけで最大速度で最後のターンに突っ込んでいた。
ハンスは右手の痙攣を押さえるように、あえて右手にしていた腕時計を左手で掴んだ。動け!とハンスは心の中で叫んだ。動いてくれ…!
震える両手で無理やり押し込むように操縦桿を動かし、強引に旋回体制に入った。
速度をゆるめず突っ込んだため、進入角度はめちゃくちゃだった。それでも曲がり切れると信じてただ一つの道を探す。
狭くなった視界で、ハンスはゲートギリギリまで機体を持っていこうとした。
そのときゾフィーの機体は全く見えてなかった。
次の瞬間、ハンスは機体を一気に90度転回させ、奇跡的と思えるほどゲートとゾフィーの機体の間のわずかな隙間を一瞬ですり抜けて行った。
観客もクリスたちも何が起こったのか分からなかった。ただハンスの機体が魔法のようにゲートをすり抜けて行ったように見えたのだ。
そしてそのまま短い直線を突き抜けてゴールゲートを通過した。
最後のターンを曲がる瞬間、ハンスは一瞬だけゾフィーの機体を見た。まるで時が止まったように、操縦席もはっきりと見て取れた。だが、そこに座っていたのはゾフィーではなく父親だった。
「父さん…!」
薄れゆく意識の中で、ハンスは父を呼んだ。そのままゴールゲートを通過したが、しばらくはそのことさえ認識することができなかった。
しばらく最速スピードのままゴールゲートの先を飛行していたが、ようやくコース外に出たことが分かると、何とか少しずつ呼吸を戻して徐々にスピードを落としていった。
体は限界に達し、酸欠状態の頭は意識を繋ぎ止めるのに必死で、呼吸はただただ苦しかった。レースの結果も何も考えられないまま、最後に見た父親の残像だけがハンスの脳裏を占めていた。




