15話 ゾフィーとハンス
少しずつ日が長くなってきたなと、夕暮れの街を歩きながら思う。
アトリアの州都であるセントラルは島の西側の海からほど近い場所にある。春のはじめ、太陽が傾きかけて少し冷たくなった心地良い潮風がゾフィーの頰をなでた。
自分の機体の整備を終えて学校から家へ帰る途中、いつもの通学路からはずれて港の方へ足を向ける。
門限まではあと少しだけ時間がある。穏やかな海を見ていると、このままどこかへ行ってしまいたいような気持ちになった。
もう少し足を伸ばして港の先の方まで行けば、兄たちが作業をしている基地がある。思い切って行ってみようか…とも考えたが、お兄ちゃんはきっと怒るだろうなと思ったら、ふっと笑いが込み上げてきた。
兄とは一歳違いだったから、昔からよくケンカをした。自分としてはほとんど覚えてないのだが、クルトおじさんが今でもその話をしょっ中するから、きっとそうだったのだろう。
でも私が覚えているのは、実は兄の優しい部分だけだ。
昔私が家で一人で遊んでいたとき、キッチンにあった食器棚のガラス戸に大きなヒビを入れてしまったことがある。
なぜそんなことになったのかは覚えていないのだが、私は当時の家政婦さんに怒られると思って一人リビングで泣いていた。するとそこに兄がやってきて、なんで泣いてるかを尋ねられた。私は兄をキッチンに連れて行って食器棚のヒビを見せた。
すると、兄は意外なことを言った。
「ここの端に小さいヒビがあるだろ、これは俺がつけたんだ。その延長だと思われるから大丈夫だよ。俺がやったことになるからさ。」
見るとガラス戸の端の方には確かに小さなヒビがあった。
今思えばそれで私がつけた大きなヒビがごまかされるかは正直どうかと思うが、小さかった私はその言葉で自分の気持ちが一気にすうっと軽くなるのを感じた。
兄には昔からそういうところがあった。普段は私のことを構うような感じでもないのだが、困った時にはどこからともなくすっと現れて、思いもよらず心が救われるような一言を放ったりする。
きっと私だけじゃなく、周りの人みんなにそうなのだろう。だから兄の周りにはいつでもたくさんの人が集まってくる。
私はそんな兄をずっとうらやましく思っていた。兄のようになりたいと思った。
それが今では兄の方が私に嫉妬している。
私が初めて航空機を操縦したのは、航空学校に入って半年後の十二歳のときだった。指導教官を後ろに乗せてのテスト飛行だったが、そのときからもう何をどうすればいいのか、なぜかほとんどを理解できるような感覚になっていた。
機体から伝わる振動で、風の向きや強さ、気流の波の大きさのようなものが手に取るようにわかった。私はただその指示に従って操縦桿を動かし、初めてのテスト飛行で難しい背面ターンを成功させた。後ろで教官が叫ぶ声がかすかに聞こえたが、ほとんど耳に入らなかった。
あの空と風と一体になったような高揚感は、その後もずっと私を捉えて離さない。その延長で今は学校の代表パイロットとしてレースに参戦している。
兄はきっと、ずっと父の影を追っているんだと思う。
父を亡くしたとき私にさえ涙ひとつ見せなかった兄だが、あのとき一番泣きたかったのは兄であったに違いない。
私が物心ついたときから、兄は飛行機に夢中になっていた。
空軍パイロットとして活躍していた父は、私たちに飛行機のことや他のパイロットの話など、父が知っているたくさんのことを教えてくれた。父が遠征から帰ってくると、兄はいつも父に飛びついて話を聞きたがった。
過去に一度だけ、私たちは揃って父の操縦を見たことがある。
当時トゥラディアで行われていた飛行演舞で、父がチームのリーダーとして操縦桿を握ることになったのだ。
真っ青な空に先頭をきって駆け抜ける父の機体の迫力とその美しさに、私たち二人は言葉もなく魅了された。
父の機体を見上げているときの、どこまでも澄んで底から光を湛えているような兄の目をすぐ隣で見た私は、ああ、兄は将来パイロットになるんだな、と思った。
…兄なら一度心に決めたことを曲げることはないだろうから。
そんなことを思い出しながら、ゾフィーはしばらく港の近くにある街灯の下のベンチで海に沈んでいく夕日を眺めていた。そのうちパッと街灯の灯がついた瞬間、いつの間にか辺りがすっかり暗くなっていることに気づいた。
ハっと腕の時計を見ると、すでに門限をだいぶ越えてしまっていた。
ゾフィーは慌ててカバンを持って駆け出した。門限を越えたことがもし養父にバレるとうるさく言われる。自分は別にそれでもいいのだが、そのことによってまた兄と養父が険悪な雰囲気になってしまうのは嫌だった。
息を切らしながら家に着いたときには、門限を一時間以上も過ぎてしまっていた。養父や義兄が家にいないことを祈りながら、そっと重厚な玄関のドアをあける。
吹き抜けになっている広い玄関ホールの天井にはシャンデリアがさみしく輝き、磨き上げられた冷たい大理石の白い床はいつも通り靴跡一つ付いていない。
玄関の向こう側はカーペット敷きになっており、そのすぐ左側に二階に上がる階段がある。階段を上ると家族の個室やゲストルームが多数並んでいて、玄関ホールの右側は広いリビングダイニングとキッチンがあり、左側には豪華な客間が備えられている。
七年前に初めてこの家に連れてこられたときには、豪華なつくりなのになぜか寂しいような、静かで冷たい印象を持った。それは数年住んだ今でも変わらない。この家が自分の家だと思える感覚は無かった。
ゾフィーが靴音を立てないようにこっそり二階にある自分の部屋へ行こうとしたら、たまたま使用人のマリアンヌがキッチンの方から出て来て玄関を横切ろうとした。
「まあ、お嬢様、今お帰りですか。」
ゾフィーに気づいたマリーは少し驚いた顔で声をかけた。
「うん、ちょっと訓練が長引いて…。お養父さんやお義兄さんは今日もまだお仕事?」
「そろそろ帰ってこられるそうですよ。今日は職場の方を連れて来られるそうで、その準備をしていたところです。」
「…そう、わかった。じゃあ私は部屋に行ってるね。夕飯も部屋に持って来てくれる?」
「ご主人様方のお食事は客間にご用意しますから、お嬢様はダイニングでお召し上がりくださいませ。ハンスお坊っちゃまももうお帰りでしょうから。」
「お坊っちゃまなんて言ったらまたお兄ちゃん嫌がるわよ。でも、じゃあ帰って来たら一緒に食べようかな。」
「そうなさいませ。それよりお嬢様、また門限をお破りになって?この前もお父さまに厳しく言いつけられたばかりでしょう。」
「ごめん、訓練の後ちょっと港のベンチでぼうっとしてたらいつの間にか時間が過ぎちゃって…。」
「まぁ、危ない!もう暗くなるのが早くなっていますし、明るいうちに帰らないと。港の方は街灯も少ないでしょう。お嬢様のような美しいお嬢さんが暗い中一人で外を歩いているなんて思ったら、お養父さんでなくても心配しますよ。最近のセントラルは昔よりだいぶ治安が悪くなってますから。」
マリアンヌは眉間にしわを寄せた。それは本気でゾフィーを心配している声だった。
「ごめんなさい、これからは気をつけるね。今日のことはお養父さんには内緒でお願い。」
そう言って手を合わせるゾフィーに、マリアンヌは仕方ありませんね…、明日からは本当に気をつけてくださいよ、と言いながらため息をついた。
この家の中で兄と私の唯一の味方と言えるのがこのマリーだ。七年前に私たちがこの家に引き取られたときからずっと何かと気にかけてくれていた。使用人として主人の命令に従うことは絶対だが、養子としてやってきて冷たくあしらわれている私たちをいつも程よい距離感で見守ってくれている。
ゾフィーがマリーと別れてから部屋に向かうため階段を登りかけたとき、ガチャっと玄関が開く音がした。振り返ると、養父のヨーゼフが義兄のフリードリヒを連れて帰って来たところだった。
さらにその後ろから見慣れないスーツ姿の人物が一人家に入って来た。マリアンヌは慌てて三人を迎えた。




