112話 ハンスとルカ
初夏の早朝、朝日が出る前の空気は冷んやりして静かだった。二人は音も無く裏庭を駆け抜け、すぐに暗い森に入っていった。
獣道のような細い道をルカは迷うことなく素早く駆けて行く。しばらく二人とも黙って走っていたが、家から十分離れたところでルカが初めて立ち止まった。
「大丈夫か?」
呼吸を整えるルカにハンスが声を掛けた。
「平気よ。このまま走るわ。」
「…麓までどのくらいかかる?」
「南側の麓までならそんなにかからないわ。このペースで行けば30分くらいで麓近くの山小屋に着く。そこから山の入り口までは道は真っ直ぐだし、大体15分くらいね。」
「わかった。じゃあその山小屋で別れよう。お前はそこで少し待って、完全に日が昇ってから家に帰れよ。」
ルカは少し戸惑いつつも頷いた。すると二人は再び走り出した。
30分ほど暗い山道を走り続けると突如少し開けた場所に出て、ルカの言った通り奥の方に小さな小屋のような建物が見えた。そのときにはすでに日が昇り始めたらしく、辺りは少しずつ明るくなり始めていた。
「…着いたわ。」
ルカが息を整えながら言った。ハンスも同じように息を整え、辺りを確認した。
「麓への道はこの先か?」
ハンスは少し先に下に下る小道を見つけて指差した。
「うん。その道をただ真っ直ぐ下って行くだけ。そしたらまた開けた空間に出て、その先はもう道路よ。」
「そうか…わかった。」
それだけ確認すると、ハンスはルカの正面に立った。
「ルカ、ありがとう。」
ルカはパッと顔を上げた。ハンスもルカを真っ直ぐ見て微笑んだ。
二人は少しの間黙って見つめ合ったが、ルカは何も言わなかった。するとハンスはふいにルカを力強く抱き寄せた。
「…お前に会えてよかった…。元気でな。またいつか会おう。」
すっと腕を離すと、ハンスはルカに向ってじゃあな、と笑顔を見せた。それからさっと踵を返し、麓へ続く道へと駆けて行った。
ルカは去っていくハンスの背中が小さくなっていくのを呆然と眺めた。
だがその背中が小道の向こうに消えかけた瞬間、ルカは声をあげた。
「待って!!!」
その声にハンスは立ち止まった。ルカはゆっくりと振り返るハンスのもとに駆け寄った。
「私も行く!!」
「…は!?」
ハンスは突然のことに面喰らった。だがルカはただ真っ直ぐにハンスを見つめた。
「私も一緒にアトリアに行く!」
「何言ってるんだよ…!俺がこれから何をしようとしてるか分かってるのか!?」
「もちろん分かってるわ。反政府組織に入って戦争に加担する。」
「分かってて何でだよ!お前はやっとここで安心できる生活を手に入れたんだ。もし俺に同情して一緒に行ってやろうなんて考えてるなら、それこそ余計なお世話だぞ!」
「違うの…!私、ずっと考えてたの。私の家族は何で殺されたんだろうって。」
思いもよらない返答に、ハンスは改めて木々の間から覗く朝日に照らさたルカの顔を見た。
「…家族を埋葬して一人でタレズまで歩いて行く途中、ロティタギルの武装勢力が近隣の村々を襲ってるって噂を何度も聞いた。ラスキアでアレクと暮らすようになってから、私はその組織のことを調べ始めたの。
その武装勢力はカザンとロティタギルの国境にあたる地域にあった、エルハデアという小さな国の人々の生き残りだった。カザンとロティタギルがその国を奪い合った結果、カザン側に吸収される形で国は滅びたの。さらに人々はその地域を追い出され、住む土地を与えられない流浪者となった。
それに目をつけたロティタギルがエルハデアの人々に武器を与えて自分たちの土地を奪ったカザンへの恨みを果たすようそそのかし、武装組織と化してカザン国境付近に住む人々を襲うようになった−。」
ハンスは戸惑いつつもとりあえず黙ってルカの話を聞いていた。
「私がその組織について調べたのは、家族を殺した人物を探し出して復讐するためだった。何の罪もない私の家族を残忍な方法で殺した犯人がのうのうと生きているなんて、どうしても許せなかった。何年かかってでもいつか絶対にこの手で仇を討つ!私が自分の手で殺してやる!って思ってた。」
ルカは目に涙を溜めていた。その美しい漆黒の目はどこまでも澄んでいるように見えた。
「…でも、昨日のアレクの話を聞いて考えが変わったの。エルハデアの人たちも奪われた人たちなんだって。
もともとはただ大昔から平和に暮らしていた人たちの命と誇りを奪った、私の祖国カザンのせいなのかもしれない。エルハデアの人たちが自分たちの国を守ることができていれば、私の家族は殺されなかったかもしれない。」
「…お前の気持ちはわかる。俺と同じように家族を殺された原因を探しているんだろ。
でも…、そのこととお前がアトリアで戦争に加担することには何の関係があるんだよ?」
「アトリアはエルハデアと同じよ。ううん、人々が皆ラスキアの奴隷になったらもっとひどいことになるかもしれない。」
「飛躍し過ぎだ…。エルハデアとアトリアは違う。ましてやお前はアトリアと関係ないだろ。」
「関係あるわ!私は私みたいに理不尽に家族を奪われる子供を増やしたくないだけ。だからカザンでもアトリアでも世界中のどこであったって、その原因が生まれようとしていることに対してできる限り抵抗したいの!
ましてやハンスは−、…私の友達だもの。大切な人を放っておけないのはハンスだってそうでしょ!?」
「だからって何でお前がそこまでする必要があるんだよ!?お前は過去に十分つらい現実と闘って、幸せな今を手に入れた。俺について来たってまた大変な目に遭うだけだ。幸福な今を捨ててお前がわざわざそんなところに足を踏み入れる必要はない!」
「何が幸せかは私が決めるわ!少なくともアトリアの人たちがラスキアの奴隷になるのを黙って見過ごすことは私にはできない。それに…これは自分の問題でもあるの。」
「アトリアのことは俺の問題だ!
…お前は今混乱してるだけなんだよ。一度冷静になって、アレクの元に帰れ。」
「違う!私はこのままじゃこれ以上前に進めないの!!家族の死に対して何もできなかった自分のままじゃ−」
ハンスを見上げるルカの目からついに涙が溢れた。家族の死に対して何も出来なかった、というその言葉はハンスの心に突き刺さった。それは自分も同じだと思った。
「お願い…、私も一緒にアトリアに行く。絶対にハンスの足手まといにはならないって約束するから!」
ルカの目から溢れた涙は朝日に照らされてキラキラと輝いていた。それはあまりにまぶしかった。
「俺は、ルカには…、過去に壮絶な経験をしたお前には、これからはただ平和に幸せに暮らして欲しい。ここでアレクと一緒にだったらそれができる。…俺にはそれは約束できない。」
「いいの…そんなの望んでない。私は私自身のために選択するの。ハンスがそうしたように。」
ハンスはルカの目を見て沈黙した。ルカは終始ハンスの目を真っ直ぐに見ていた。二人はしばしそうしていたが、やがてハンスが静かに口を開いた。
「…一つだけ約束しろ。何があっても絶対に死ぬな。必ず生きてアレクの元に帰れ。その覚悟があるなら……、俺について来い。」
するとルカはハンスの目を見たままはっきりと頷いた。
「約束する。」
その言葉にハンスが小さく頷くと、二人は静かに走り出した。朝日が差し込む木々の間を抜け、共に麓を目指して駆けていった。




