110話 決意
アレクがリビングに向かったとき、キッチンの方から微かな明かりが漏れているのに気付いた。明かりのついたキッチンには、ガラスコップに水を汲んでいるルカが居た。
「ルカ、どうした。お前も眠れないのか?」
「うん…。ハンスも起きてるんでしょ?さっき書庫の灯りがついてるのを見たから。」
「ああ。みんな同じだな。…朝になったらハンスがここを発つんだから無理もない。」
ルカは俯き加減でコップの水を口にした。その様子を見てアレクは続けた。
「一ヶ月前にハンスがここに来たことは、お前にとって良い出会いになったな。進む道は違っても、心が離れる訳じゃない。落ち着いたらまた必ず会えるさ。」
するとルカはアレクを見た。
「…ハンスは、アトリアに帰って戦争に参加するつもりなの?」
「それはまだわからない。最終的なあいつの答えはこれから聴けるだろう。」
「このままここに居たら戦争になんか参加しなくてもいいのに…。ハンスの大切な人たちもみんなここに呼んで、全員で平和に暮らしたらいいんだわ。」
「それができたら幸せだろうな。…でも、その他のアトリアの人たちはどうなる?ハンスはきっとそれを放っておくことは出来ないだろう。」
「…でも、それを解決する方法が何で戦争なの?殺し合うことでしか解決できないなんておかしい。言葉を持つ人間同士は話し合うことができる唯一の存在なのに。」
「そうだな…ルカの言う通りだ。育った環境が違うお前たちが理解し合えたように、世界の誰もがそうなったら誰も戦争なんてしなくて済む。…俺たちは、どうしてそんな簡単なことが何千年も出来ないんだろうな。」
アレクがつぶやくように言うと、ルカは水の入ったコップを持ったまま黙ってテーブルについた。そしてテーブルに頭を伏せ、ゆっくりと顔を横に向けると静かに口を開いた。
「…大切な人を守りたいだけなのに、どうしてうまくいかないんだろう…」
アレクは向かいのイスに座り、何も言わずにルカの頭をそっと撫でた。ルカの問いに対する答えはアレクの中にも無かった。アレク自身も大切な人たちを為す術なく失ってきたからだ。
ハンスを含めそれぞれ家族や大切な人を失ってきた自分たちは、今この小さな家で身を寄せ合って生きている。この先に本当の幸せがあることを願って…、いや、ハンスは自らの手でそれを掴もうとしている。
しばらくそうしていると、廊下の向こうからカタン、という音がした。アレクは手紙を読み終えたハンスが書庫から出て来たことを察した。ルカも同じく音に気付いて頭を上げた。
リビングに入ると、ハンスは真っ直ぐアレクのもとへ向かった。自分の決意を伝えようとしたが、適切な言葉が突いて出ず、ただ黙って相手の目を見た。するとアレクはハンスの目を見返して微笑んだ。
「…決めたんだな。」
「どうして分かるの…?」
「お前の目を見たら分かるよ。昼間に見せていた無闇な気持ちが無くなって、静かに決意を固めた目だ。…フランツの言葉がお前をそうさせたんだな。」
「うん…。自分の中で解決してない問題が何なのかずっとわからなかったけど、父さんからの手紙でそれがわかった。俺は…ただ父さんに自分のことを認めてもらいたかったんだ。…子供じゃないなんて言っといて、ほんとガキだよな。」
ハンスが自笑するように言うと、アレクはそれを否定した。
「自分を肯定されることは自らの意思を形成する上でとても大事なことだ。ハンスは他の人間にはない大きな魅力を持っているが、自分自身がそれを認識するには大切なものが欠けていた。人それぞれそういったきっかけを持っているが、ハンスにとってはそれが父親からの承認だったということだ。だから何も恥じることはない、とても自然なことだよ。」
ハンスはその言葉を理解しようとした。
「自然なこと…なのかな。自分一人では気づくこともできなかったけれど。」
「ハンスはずっとフランツの影を追ってきたんだろう。レースに出てチャンピオンシップで優勝し、軍のパイロットになろうとしたことも、フランツのようになりたいと思って必死に努力してきた結果だ。だがそれをやり遂げた途端、目標だった父親が全く別のところを見ていたことを知った。」
ハンスは何も言わずアレクを見た。アレクは柔らかく笑っていた。
「その理由を知ることで自分も同じ願いを持つようになったが、もう一度一から前に進むためには土台として足りないものがあった。それはずっと追いかけてきた父親に、これまでの自分とこれからの自分を認めさせることだった。」
「…すごいや。アレクはまるで俺よりも俺のことがよくわかってるみたいだ。」
「いや、それを言うならフランツだろう。…フランツはやっぱりハンスの父親だな。六年前の時点でお前がどこでつまずくか分かっていて、その答を用意していたんだから。俺の心配は取り越し苦労だったな。」
アレクは嬉しそうに微笑んだ。
「手紙を読んで、父さんが本当に俺たちのことを想ってくれていたことがよくわかった。遠征が多くて一緒に過ごした時間は長くはなかったけど、手紙に書かれていた父さんの言葉は、自分でも気付かないうちに心の奥で求めていたものだったのかもしれない。」
「そうか…。だがこれは忘れるな。お前がその歳で戦争に加担するようなことは、きっとフランツにとっても、もちろん俺にとっても決して本意じゃない。けど、お前が一度心に決めたその強い意思を止めることが不可能なことはよくわかってる。だからフランツはせめてお前が無茶な真似をしないよう、手紙を残すことで本当の覚悟を決めることを促したんだ。そのことはお前自身もよく分かっているな?」
ハンスははっきりと頷いた。
「アレクの言いたいことはわかってる。父さんもその上で自分の道を行けと背中を押してくれた。だからもう迷わない。…大丈夫、今はすごくすっきりした気持ちなんだ。もう何があっても揺るがないって、はっきりと言える。」
ハンスは本当にすっきりしたような表情で微笑んだ。アレクは一つ成長したように見えるハンスの顔を眺めながら、何とも言えない感慨深い気持ちになった。
「…アルデバランに入るの?」
二人のやり取りを静かに聞いていたルカがそっと声を掛けた。
「ああ、そうだ。」
ハンスがはっきりと答えると、ルカは複雑な表情を浮かべていた。
「…他に選択肢はないの?アトリアを救う、戦争以外の方法は?」
「俺もそれができたら理想的だと思うけど、この状況では難しいだろう。ラスキア政府はすでに武力を持ってしてでもアトリアを支配下に置くことを決めている。」
ハンスの答えにルカは黙った。ハンスは戦争を避けて欲しいというルカの気持ちは分かったが、気休めのような言葉を掛けるのは違うと思った。
そのとき、ふとリビングの窓に掛かった薄いカーテンの向こうに小さな光が見えた気がした。窓の方に向いていたのはハンスだけだったので、二人は気付いていない様子だった。
「何だろ、何か今光った気がしたんだけど…。」
つぶやきながらハンスは窓の方に近付いた。カーテンに手を掛けようとしたとき、突然アレクが声をあげた。




