105話 幸せのかたち
「自分が居なくても目的を果たすための体制は整った。…僕は役割を果たしたんだ…」
そこまで言うとルアンは激しく咳き込んだ。それを抑えた手から生々しい鮮血が滴った。
「お兄ちゃん!?」
ソフィアは驚いて格子の間から手を伸ばし、血がついた兄の手を取った。
「…ソフィア、元々僕はもう長くない。父さんや母さんと同じ病気だ。」
兄の手は震えていたが、顔は柔らかく微笑んでいた。ソフィアはショックで言葉が出なかった。呆然として微笑む兄の顔を見ると、ルアンは両手でソフィアの手をそっと握り返した。タバコを持っていなかった方のルアンの手には全く力が入っていなかった。
「僕の人生は幸せだった。最期まで自分の信念に忠実に生きた。役目を全うし、大切な妹を守ってくれる人にも会うことができた。もう思い残すことはない。」
「…何言ってるの…!?一緒にここを出るのよ!!」
ソフィアの声は震えていた。
「ルアンさん!?もうすぐ作戦が実行されます!数分後に全員でここを出ることは可能です!!」
フランツの言葉に、ルアンは柔らかい声で応えた。
「僕が外に出ても組織にとって害にしかならない。治安維持部隊の収容所に居た時、僕は司法取引によって自分がリーダーであることを告白し、代わりに仲間を解放した。軍側はどうせ秘密警察で拷問に掛ければ仲間の居場所や基地の場所まで全て吐かせられると思ったんだろうが、僕が死ねばそれも完全に不可能になる。また僕の死を利用することでアルデバランへの捜査が緩まるような対策もすでにしてある。
僕は僕に残されたわずかな時間をできる限り有効に使いたかった。その目的を果たすことができて満足だ。」
するとルアンは改めてソフィアをまっすぐに見据えた。
「ソフィア、大好きだよ。お前はお前の人生を十分に生きてくれ。」
ルアンは傷ついた腕を格子から出し、ソフィアをそっと抱き寄せた。
「…幸せにな。」
耳元でそれだけ言うとすっと腕を離した。そして最愛の妹に向かってにっこりと笑った。
「…やめて…、お兄ちゃん!!お願い!!いかないで!!!」
笑う兄に向って必死に手を伸ばしたその瞬間、ソフィアは首の後ろに衝撃を受けてふっと意識を失った。
「ブラウン中将!?」
フランツは咄嗟にソフィアの身体を支えながら驚いて中将を見た。ソフィアのうなじに衝撃を与えて素早く意識を奪ったのはブラウン中将だった。
「…これ以上は酷だ。」
その瞬間、大音量の警告音が鳴り響いた。同時に看守の制服を着た一人の男が通路の先から勢いよく駆け込んで来た。
「ブラウン中将!予定通り作戦が開始されました。90秒以内に機密通路に抜けます!」
するとブラウン中将はすぐさまフランツとアレクに向かって言った。
「行け!作戦を実行しろ。お前たちが外に出るチャンスは今しかない。」
その命令にすぐさま従ったのは今駆け込んできた看守だった。屈強な体格をしたその男はソフィアの身体をフランツから離すとさっと抱き上げた。
「行くぞ!」
「待て!!ルアンさんがまだー」
「ルアンはここで死ぬ。お前たちは行け。」
ブラウン中将の信じられない言葉にフランツとアレクは一斉にルアンを見た。
「…僕の役目は終わった。二人とも話を聞いてくれてありがとう。」
ルアンは美しい笑顔で言った。
「ルアンさん!!駄目です!あなたはアトリアにとって、世界にとって必要な人です!!一緒にここを出てください!!」
フランツが叫ぶと、アレクも続けた。
「あなたがいなくなったら誰が人々を先導するのですか!?あなたの役割は独立を成功させるまで続いているはずです!!」
「…僕の代わりはいる。僕の身体は滅びても、意思は受け継がれる。」
柔らかい微笑みのまま、ルアンは続けた。
「君たちに受け継いで欲しいと言っているんじゃないよ。君たちは君たちの信念のもとに生きてくれ。僕がそうしたように。」
ソフィアを抱えた看守がついて来い!と叫んで駆け出した。同時にブラウン中将はアレクに耳打ちした。
「ルアンのことは任せろ、お前は無理やりにでもフランツを連れて行け。」
アレクは中将を見たが、一瞬の間を空けて頷いた。
「ルアンさん!!」
フランツはルアンに向かって祈るように叫んだ。だがルアンは最期にフランツに向かって屈託のない笑顔で告げた。
「フランツ、ソフィアを頼む。」
その瞬間、アレクはフランツの片腕を掴んで駆け出した。
「アレク!?ルアンさんがー!」
「黙れ!!」
アレクは混乱しているフランツを引きずるようにして最初の部屋の扉まで近づいた。ソフィアを抱えた看守によって開け放たれた扉の向こうにフランツを投げ出すと、アレクはすぐに扉を閉めた。
「アレク!!」
「ルアンさんは最初から覚悟を決めてたんだ!あそこまで意思の強い人にもう何を言っても無駄だ!お前と俺はソフィアと共にここを出る。彼が命がけで守ってきたものを無駄にする気か!?…お前、最期になんて言われたんだよ!!」
フランツは何も言えなかった。ルアンが死を覚悟し、自らそれを望んでいることはわかっていた。だが心がそれを拒否していた。
「ソフィアを頼むって言われただろ!!!お前はその言葉を…ルアンさんを裏切るのか!?」
アレクは目に涙を溜めていた。フランツは呆然とその顔を見た。
「立て!!」
アレクに促されて、フランツはようやく我に返った。自分の間違った判断によって命を賭してルアンがつくり上げてきたものを無に帰するようなことは絶対にできない。フランツは一瞬俯いて目を閉じたが、押し潰されそうな思いを振り切るようにソフィアのもとに駆け出した。
扉の向こうに消えた看守を追って二人が部屋を出た瞬間、後ろから一発の銃声が聞こえた。
フランツとアレクはその銃声に全てを悟った。どうしようもなく奥から溢れ出ようとする涙を必死に抑えながら、二人は気を失ったままのソフィアと共に施設の外へと繋がる暗い通路を駆けて行った。
フランツがアレクに連れられて扉の向こうに消えたのを確認すると、ルアンは安心したように再びイスに掛けた。
「…言い残すことはあるか?」
牢屋の中に戻りながら、ブラウン中将が静かに声を掛けた。
「もう十分話したよ。」
ルアンが笑うと、ブラウン中将もふっと笑った。
「お前はリーダーとして、そして変革者としての役目を全うした。後は続く者に任せろ。」
「…ああ。やっと解放された。まるで生まれ変わったみたいだ。こんなに心が軽いのはいつぶりかな…最高の気分で死ねる。」
ルアンは牢獄の天井を見て幸せそうに笑っていた。ブラウン中将はホルダーから銃を取り出した。
「確実に一発で、楽に死なせてやる。」
「…いいよ。とっくに痛みは麻痺してる。何発撃ったって同じだ。」
中将はゆっくりと、ルアンに向けて銃を構えた。
「お前を心から誇りに思う。俺もすぐにいく。」
「ああ。向こうで会ったら、今度はゆっくり酒でも飲もう。」
少しの沈黙のあと、一発の銃声が鳴った。ルアンの身体はドサりと椅子の向こう側に倒れた。




