102話 思想
「僕たちは本土の人々に比べてもかなり抑圧された生活を強いられている。アトリアに敷かれた封建的な社会は特に下流階級である貧困層から教育や職業選択の自由を奪い、それが更なる貧富の差を生んだ。
満足な教育を受けられなかった貧困街の人間はまともな職につくことができず、子供達は飢餓に苦しんでいる。衛生状態の悪化から病気が蔓延しても、病院にも行けず薬も手に入らない。
耐えかねた人々は大衆や議会に訴えようとしたが、ラスキア政府の謳う言論の自由は形ばかりで、逆に治安維持部隊の取り締まりは年々強化され、罪のない人々が毎年何百人も収容所に送られるようになった。
…言論の自由とは、民主主義の根幹だ。それを奪うということは、アトリアにおける民主政治の終わりを意味している。」
ルアンは時折タバコを咥えながらも、話を止めることはなかった。生々しい傷を抱えながらも言葉を紡ぐことをやめないその姿に、フランツはルアンが彼自身以外の何かに突き動かされているかのようにも思えた。
「問題は、これが誰によってつくられたものなのかということだ。歴史は歪曲されている。正確には、洗脳教育のための歴史が新たにつくられている。つまり君たちが知っているアトリアの歴史はほとんど嘘だ。」
アレクはふと幼い頃に祖父の別荘で読んだ本のことを思い出した。そこに書かれていたアトリアの歴史は学校で教えられたものとは確かに違っていたが、簡単には信じることができず途中で読むのをやめてしまった記憶がある。
「現在の状況はホルシード王国が約百年前にラスキア共和国に併合されてから少しずつ自由を奪われてきた結果だ。アトリアの人々はつくられた歴史による罪悪感から、ラスキア政府が少しずつ正体を現してもその横暴を止められずにいた。
新しくつくられた歴史と思想により再教育された人々が成長し、その人口比率が半分を越えたあたりから、ラスキア政府はアトリア州議会の掌握に乗り出し、議員を手なづけて自分たちに都合の良い法律をつくっていった。それがさっき言った通りの階級社会をさらに進める結果となり、特権階級以外の人々の生活をひどく悪化させた。
そして併合から百年経った今、アトリア州議会はほぼラスキア政府のものになろうとしている。」
そこまで話すとルアンは突如下を向いて黙った。突然口を閉じた兄をソフィアは心配そうに見た。
「お兄ちゃん、もうしゃべらないで…体にさわるわ。」
「…大丈夫…モルヒネが効いてきた。痛みは和らいでる。」
タバコを持つルアンの手が少し震えていた。アレクはそのとき初めてルアンが吸っているのが普通のタバコではないことに気づいた。確かに匂いもタバコとは違う。恐らくモルヒネを原料とした麻薬だ。
「このままではアトリアはいつかラスキアの植民地と化す。特権階級はラスキア政府と一体になり、それ以外の人々は奴隷となる。奴隷に人権は無い。故郷も、自由も、誇りも、尊厳も、人間を人間たらしめる全ての要素を奪われ、アトリアの歴史は終りを告げる。 …君たちはこれを、僕の妄想めいた虚言だと思うか?」
顔をあげたルアンから微笑みは消えていなかったが、目の奥には力強い光を宿しているように見えた。するとフランツがそれに答えた。
「いえ…ラスキア政府が敷いた理不尽な階級社会によって激しい貧富の差が生まれ、その結果貧困街の状況が悪化していることについてはあなたの言った通りだと思います。アトリアの議会が形だけのものになり、言論の自由がより厳しく制限され、ラスキア政府の直接支配が進んでいることも、このままではいつか植民地と化すというのも恐らくその通りでしょう。
ただ…、アルデバランはどうやって独立を果たそうとしているのですか?アルデバランが数年前から組織を拡大させ、得た資金を軍事力の強化に費やしていることは知っています。それはラスキア政府との武力衝突、つまり戦争のための準備に他ならない。
…僕はこれまで数々の戦場を見てきました。悲惨な戦争を引き起こし、多くの犠牲を伴ってまで独立させなければならない理由を、少なくとも今の僕には説明できません。」
フランツの言葉を聞きながら、ルアンは再びタバコを一口吸った。それは痛みを和らげるためというよりも、言葉を振り絞るための狂薬のように思えた。
「君の想いはよくわかる。これまでアルデバランは穏健派らしく非暴力による抵抗と無血革命を目指してきた。そのための主な手段はラスキア議会にアトリア派の議員を送り込んで少しずつ数を増やし、民主政治のもとで正当に意見を主張していくことだった。アトリアの自治権を脅かすような法律が議論にかけられた際にはその不当性を訴え、党を超えて議員に呼び掛け水際でそれを阻止してきたんだ。
それはラスキア側の支配のスピードを緩めるのには確かに一定の成果を上げてきた。その手段を持っていなければとっくにアトリアは完全なるラスキアの支配下に置かれていただろう。
アトリア州議会の弱体化に伴い、国会でもアトリア派は少しずつ弾圧されていったが、それでも現在もその試みは続けられている。声は小さくなっても言葉でもって正当に訴える手段はまだ残されているということだ。
…だが、僕はそれだけではダメだと言った。議会の状況は悪化している。このままでは多少遅らせることはできても完全にはねのけることは到底できない。それを実現させようとすれば、いつかは戦争になる。そしてそのためには必ず武力が必要になると。」
アレクは驚きを持ってルアンに確認した。
「…ルアンさんがアルデバランに武力を持つことを提言したということですか?」
するとルアンははっきりと答えた。
「そうだよ。僕はそれまで非暴力を基本としてきたアルデバランに対して軍事力を持つべきだと主張した。それが約十年前のことだ。
そのためにはまず組織を拡大させることが必要だった。そこで僕は人を増やし、資金を増やし、武器を手に入れて戦闘部隊をつくることを主導した。メンバーを扇動してリーダーとなり、組織を変革した。」
アレクはルアンの手の震えが少し大きくなっているような気がした。それに比例したようにその手に持っているタバコは随分短くなっていた。すると牢屋の入り口のあたりで静かに佇んでいたブラウン中将がそっと近寄り、ルアンの持つタバコを新しいものに取り替えた。
「ヴィルヘルム、すまない…」
ルアンがそれを咥えると、中将は再びライターで火をつけた。それを見たソフィアが涙を溜めた目で言った。
「もう吸わないで…それ、普通のタバコじゃないわよね?」
そんなソフィアにルアンは優しく声を掛けた。
「ああ。でもソフィアが心配してるようなものじゃないよ。一時的に痛みを麻痺させるためのもので、それ以外には大した害はない。少なくとも僕の頭は正常だ。」
「…ルアンさん、続きはここを出てからにしましょう。一旦はバラバラになっても、身体が回復すれば再会することは可能です。」
アレクは麻薬の力に頼らなければ言葉を紡ぐことができないほどルアンの身体が限界に近いであろうことに危機感を覚えていた。
「いや…、続けさせてくれ。まだ時間はある。君たちには迷惑なだけかもしれないが…、僕には今伝えなければならないことがある。」
「迷惑なんかじゃありません…!少なくとも僕は知りたいです。あなたをここまで突き動かしているものが何なのか…」
フランツはルアンの目を真っ直ぐに見て訴えた。それに対してルアンは優しく微笑んだ。
「…ありがとう。そうだね…それを話さなくてはならない。」
ルアンは一度タバコを深く吸うと、再び話を再開した。




