101話 ルアン
ブラウン中将は小さな机の上に置いてあったランプを手に取って通路を進んだ。三人はそれに続いて通路を行き、鉄格子の扉を越えていよいよ奥の牢屋の前まで来た。
ソフィアは兄の姿を見たいような、見たく無いような複雑な感情に見舞われたが、それでもその姿を探さずには居られなかった。牢屋は思った以上に奥に広く、小さなランプの光は奥まで届かなかった。ブラウン中将が牢屋の鍵を開けて中に入り、ランプを持って奥まで行ったとき、ようやくその姿が見えた。
ルアンは片腕を壁に固定された状態で床に俯いて座っていた。もう片方の腕にも手錠がされているようだったが、ブラウン中将がその両方を外してルアンに声を掛けた。
「…立てるか?妹たちが来たぞ。」
ルアンはわずかに顔を上げ、ブラウン中将に支えられながらゆっくりと立ち上がった。そのまま肩を支えられ、片足を引きずりながら格子の方へ近づいた。
ソフィアはその姿を見て涙が溢れた。兄の体は見るからにボロボロだった。腕は傷だらけで皮膚が裂け、打撲のような後も複数見られた。全身に血が滲み、元は白かったらしい上下は赤く染まった部分と乾いて黒くなっている部分に覆われていた。その姿は明らかに壮絶な拷問の後を思わせた。
「お兄ちゃん……」
ソフィアは言葉が出なかった。鉄格子に掛けられた傷だらけの兄の手を、泣きながら両手でそっと握った。するとルアンは微笑んだ。
フランツはこのうえなく胸を痛めた。秘密警察に移送される前にルアンを救い出せなかったことをどうしようもなく悔やんだ。それはアレクもまた同じ気持ちだった。二人は震える手で兄の手を握るソフィアの気持ちを想った。
ただ、微笑んだルアンの顔は傷一つなく美しかった。年に一度だけある人権団体の監査のためにどうしても隠せない顔だけは傷つけられないということを、アレクは聞いたことがあった。
「ソフィア、俺のせいでここに連れて来られたんだな。すまなかった…。つらい思いをさせたな。」
「つらくなんかないわ!ここに来てからも数回事情聴取を受けただけで本当に他は何もされなかった。私は大丈夫よ。それよりお兄ちゃんが…」
ソフィアは震える声で言いかけて、喉を詰まらせた。
「…今そっちに行くわ。」
ソフィアが格子の向こう側に回ろうとすると、ブラウン中将が制止した。
「君たちはそちらに居なさい。決められた見回り時間まではまだあるが、それ以外には一切監視が来ないという保証はない。作戦が確実に実行されるまではルアンをここから出すのもやめた方がいい。もう少しこのまま待ちなさい。」
ソフィアを戻すと、中将は牢屋の中に置かれていた椅子を持ってルアンの後ろに置いた。足の悪いルアンをその椅子に座らせ、自分のポケットから銀色のシガーケースを出してルアンに差し出した。
「吸え。」
ルアンはありがとう、と言ってタバコを一本口にくわえた。中将はすっとライターを差し出してそれに火をつけた。
ルアンは静かに最初の一口を吸い、傷だらけの見た目とは相反した落ち着いた声で口を開いた。
「さて…君たちに話しておきたいことがある。こんな場所ですまないが…聞いてくれるか。」
「お兄ちゃん、だめよ。まずは傷を治してから−」
「ソフィア、大丈夫。どっちみちここを出るにはあと一時間ほど待たなくてはならない。それまで話をしたいんだ。ここを出たら一旦はバラバラにならないといけないからね。僕はしばらく仲間のところで身を隠す必要がある。」
ルアンはソフィアに対して優しく笑いかけた。ソフィアは涙を拭いながらそんな兄の顔を見た。ルアンは再びタバコを一口吸うと、三人を見て改めて声をかけた。
「本題に入る前にお礼を言わせてくれ。フランツ、約束を守ってくれてありがとう。ソフィアを大切に想ってくれているんだね。そしてアレク、ソフィアをここから出すための手はずを整えてくれたのは君だね。君たちには心から感謝している。」
ルアンは状況に反した柔らかい笑顔を見せた。だがフランツはつらそうに首を振った。
「やめてください、僕はあなたを釈放することが出来なかった。もっと早くそれができていればあなたがこんなに傷つけられることも、ソフィアが秘密警察に引き渡されることもなかったはずなのに…。…後悔してもしきれません。」
アレクもまた同じように続けた。
「今日のための手はずを整えたのはアルデバランです。お礼を言われるようなことは何もしていません。」
ルアンはそんな二人を見て再び微笑んだ。
「それはちがうよ。フランツ、僕は元々この牢獄を出ようとも思ってなかった。以前会ったときには確かに釈放を仄めかすようなことを言ったけれど、あれは君やソフィアを安心させるためにわざと希望を持たせるようなことを言ったんだ。つまり全くの嘘だ。…すまなかったね。君が後悔を感じる必要は少しもない。そしてアレク、君がドレイクの心を動かしてソフィアに危害が加えられないように手配させた旨は聞いている。君たちがソフィアを想ってくれているだけでどこに居ても僕は安心だ。」
フランツは傷だらけの体で微笑むルアンを見て胸を突かれた。自分がどんな状況に晒されても妹を想うその気持ちを深く感じ取った。
ルアンは再びタバコを咥え、息を整えるように煙を吐いてから、ゆっくりと口を開いた。
「…さて、本題に入ろう。まず最初に君たちに伝えておきたいことがある。僕はアルデバランの幹部じゃない。現在のリーダーだ。」
フランツとアレクは驚いてルアンを見た。
「まさか…6年間も獄中にいたのに、リーダーというのは…」
アレクが聞き返すと、ルアンがそれに答えた。
「そうだね。組織を率いる者がその地位を保ったまま長年獄中に居るというのは理解できないだろう。だが僕にとってのリーダーは責任を取ることだった。組織を拡大するにはどうしても歪みが生まれる。それは変革には必要なことだけれど、誰かがその傷を埋めて体内にまで毒が回るのを防がなくてはならない。」
「…二人とも一体何の話をしているの…?アルデバランって?」
ソフィアが戸惑いながら尋ねると、ルアンは優しく言った。
「アトリアにある反政府組織だよ。アトリアをラスキアから独立させることを最終的な目的としている。僕はそのリーダーで、そのために今ここにいる。」
そしてタバコの灰を静かに床に落とした。
「独立…?アトリアをラスキアから?」
フランツが独り言のようにつぶやいた。それにルアンは静かに答えた。
「ああ。ラスキア国防軍の軍人である君たちには理解できないことかもしれないね。ただ僕たちにとっては必然だ。奪われた自由を取り返すには、圧倒的な力を前にしたとしても諦めてただ下を向くことは許されない。自分たちの尊厳を取り戻せるのは自分たちだけだ。それに背を向けることは自ら進んで独裁者の奴隷になるのと同じだ。」
フランツはルアンが先ほどから見せている穏やかな笑顔と、その整った口から出る烈しい言葉とのギャップに戸惑いを覚えた。だが同時にルアンをそうさせる確固たるものが何なのかということを知りたいとも思った。そんな気持ちを察したかのように、ルアンはフランツを見た。
「フランツ、君は上流階級の出身だね。君のような人には想像できないだろう。アトリアの中でも自由を謳歌できる君たちは、十分な教育を受けて自分の人生を選択することができる。幼い頃からずっと階級別に分けられた生活をすることで貧困街の状況を詳しく知る機会も無く、自らの輝かしい未来を信じて疑わない。だが、アレクやソフィアと関わってきた君はすでに気づいているはずだ。アトリアに蔓延る無意味なヒエラルキーと、それによって生み出される持たざる者たちの苦しみに。」
フランツはルアンの顔を見返した。小さなランプの光に照らされたその顔は彫刻のように美しく、やはりソフィアによく似ていると思った。




