100話 再会
「どうした、ソフィア。また泣いてるのか。お前はほんとに泣き虫だな。今度は何があった?」
「…だって…今日友達と港の公園へ遊びに行ったら、他の学校の子がお前らはここに来るなって、石を投げられたの。」
「それで?」
「石を投げた子になんで来ちゃだめなのって聞いたの。そしたら、ここは貧困街の奴らの来るところじゃないって。」
「そんなわけないだろ。公園はみんなのものだ。」
「うん…だから、何で貧困街に住んでたら来ちゃだめなのって聞いたんだけど、その子はうるさい!って言ってまた石を投げてきて…。」
「それで泣いて帰ってきたのか?」
ソフィアが頷くと、ルアンはソフィアの頭を優しく撫でながら語りかけた。
「…ソフィア、自分が正しいと思うことはちゃんと主張しないといけないよ。その子は知らないだけなんだ。自分の世界以外のことを。」
ソフィアはルアンの顔を見た。ルアンは優しく微笑んでいた。
「この世の中には納得のいかないことや歪んでいると思えることがたくさんある。それが当たり前のようになっていて、変えることなど到底不可能のように思えても、ただ諦めてるだけじゃあダメなんだ。自分が正しいと信じることをちゃんと言葉にして伝え、また相手にもそれを認めること。それは自分を大切にすることと同じなんだよ。」
幼いソフィアにはルアンの言葉の全てを理解することは難しかったが、いつの間にか涙は止まっていた。
「さあ、涙を拭きなさい。お前は優しい子だから、きっと周りからも深い愛情を貰えるだろう。だから何があっても大丈夫だ。」
その言葉を聞いたソフィアは、なぜかルアンがどこか遠くに行ってしまうような不安を覚えた。
「お兄ちゃん、どこへも行かないでね。私、大きくなったらお兄ちゃんと結婚する!」
焦ったように言うソフィアに、ルアンは明るく笑った。
「どこへも行かないよ。ありがとう。俺もソフィアのことが大好きだ。」
そうしてルアンは一度だけぎゅっとソフィアを抱きしめると、ゆっくりと離して立ち上がり、前を見てそっと歩き出した。
「…お兄ちゃん?どこへ行くの?」
だがルアンは振り返らなかった。ただ前だけを見て音もなく静かに歩き続けた。
「待って…!お兄ちゃん!行かないで!!」
ソフィアが追いかけて兄の手を掴もうとした瞬間、ハッと目が覚めた。周りを見渡すと、白いベッドのシーツがゆらゆらと揺れる小さなランプの火に照らされている。ああそうだ、とソフィアは自分の状況を思い出した。
もう何日兄の夢を見ただろう。でも最後は毎回同じだ。兄はいつでも振り返らずに去ってしまう。
ソフィアはベッドの下に足を下ろしてゆっくりと起き上がった。部屋には時計が無く今が何時かははっきりと分からないが、天井近くにある小さな窓の外は真っ暗で、夜中であることは間違いないと思った。その瞬間、突然部屋のドアからノックの音が聞こえて、そのままガチャンと扉が開いた。
「ソフィア・セレーナ、服を着替えなさい。面会人だ。」
女性の看守が一瞬だけ顔を出して、またすぐにドアを閉めた。ソフィアは驚いた。面会人…?この夜中に?まさか…。
ぼうっとしていた頭が一気に覚めて、ソフィアは慌てて用意された真っ白い部屋着から自分の軍服に着替えた。ここに来てから何度か事情聴取に呼ばれることはあったが面会人など来たことは無いし、そもそも参考人に対する面会など不自然だ。もちろんここに呼ばれた時点で常識は通じないということは覚悟していたけれど。
着替え終わると内側から部屋のドアをノックした。するとすぐに扉が開いて、先ほどの女性看守がついてくるように促した。
迷路のように入り組んだ廊下を進み、何枚かの扉を抜けて地下に降りる階段を下った。明かりは看守が持っているランプだけで足元しか見えなかった。長い階段を下り終わると、看守は鍵を取り出して先にあった扉を開けた。
扉の先は狭い空間で、すぐにまた次の扉があった。まるで迷路のようだとソフィアは思った。看守は最初の扉の鍵を閉め、二枚目の扉の鍵を開けた。するとようやく明るい部屋に出て少しほっとした。
部屋には軍服を着た壮年の男性が一人居た。ソフィアはその人が自分を連れてきたときに指揮を取っていた人物だということを思い出した。
「ブラウン中将、ソフィア・セレーナを連れて参りました。」
「ああ、ご苦労。お前は下がっていいぞ。後は手はず通りに。」
看守はハ、と返事をすると扉の向こうへ消えた。ソフィアはブラウン中将と呼ばれた男性を改めて確認した。部屋はわりと広く、テーブルも何も無かった。中将はソフィアの方を見ることもなく、すぐに反対側にある扉に向かった。
「…入れ。」
ブラウン中将は扉を開けた先に呼びかけた。どうやら扉の向こうに誰か居るようだった。ソフィアは面会人の正体に心臓が高鳴った。
「ソフィア!」
扉の向こうから出てきたのはなんとフランツだった。
「フランツ…!?」
ソフィアは信じられない気持ちでその姿を見た。フランツはすぐさま駆け寄ってソフィアを抱きしめた。
「よかった…無事で…。」
「どうして…!?フランツ、一体どうやってー」
ソフィアが状況が理解できずにいると、後からもう一人の人物が歩いて来るのが見えた。するとフランツはようやくソフィアを離した。
「…ソフィア、大丈夫だったか?何もされてないな?」
「アレクまで…どうやってここに来たの? 私は大丈夫よ。何もされてないわ。…二人ともここの制服を着て…まさかこっそり忍び込んだの?」
ソフィアは心配そうに尋ねたが、何もされてないと聞いたフランツは改めて安心したように微笑んだ。
「大丈夫、お前を連れ戻しに来たんだ。一緒に帰ろう。」
ソフィアはその言葉に戸惑った。
「帰るって…どうやって?秘密警察から退去の許可が出ない限りはどこにいたって連れ戻されるわ。」
「問題ない、今日の0時をもって正式に一時退去の許可が出てる。参考人の拘留期限は7日間だからちょうど昨日までだ。普通は無視されるような法律だが、国防軍からの強い要請で一時的に戻る許可を得た。」
ソフィアは戸惑いつつもアレクの言葉を理解した。兄が口を割るか、もしくは兄の身に最悪の自体が起きない限りは自分が完全に解放されることはないと考えていたが、一時的にということであればあり得るのかもしれない。ただ、そうであれば二人がこっそり忍び込むのはおかしいとも思った。
「ただし、今得てる退去許可は一時的だが、実際にはそうはならない。これをもって完全に解放される。」
ソフィアは驚いてアレクを見た。
「どういうこと…?まさか、兄に何か−」
「心配しなくていい。これからルアンさんに会いに行こう。全員でここを出るんだ。」
フランツのその言葉を、ソフィアは信じられない気持ちで聞いた。秘密警察に移送された兄が簡単に釈放されるなどありえない。何も分からないソフィアはただ戸惑った。
「時間がない、行くぞ。」
ブラウン中将の声に、二人は頷いた。中将は部屋にあったもう一つの扉を開けた。フランツはソフィアの手を取って中将に続いた。アレクは最後に部屋を出て扉を閉めた。
扉の向こうは薄暗い広めの通路になっていた。すぐそばの机の上にランプが置いてあり、通路の途中に小さな照明が一つだけついていたが、空間全体を把握するのにはかなり不十分だった。
目を凝らすと少し先に鉄格子の扉があった。その扉を越えた通路の奥はさすがに真っ暗で何も見えないが、その手前の左側に鉄格子で区切られた牢屋のようなものがあるのが薄っすらと見える。
ソフィアは怖くなってフランツの腕をぎゅっと掴んだ。もしあそこに兄がいるとしたら−




