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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

モブみたいな兵士だってがんばれる話

作者: ニアル

一部に残虐・グロテスクな描写を含みます。

御理解をいただきますようお願いします。


1/30 タイトル、あらすじを一部変更しました。 

 サアア、と外で雨音が聞こえる。

 小粒な雨は耳に優しく、そしてどこか淀んだ気配を孕んでいた。

 窓の向こうのその音を聞きながら、隻腕の老翁は掠れたペンにインクをつける。

 さらさらと、流れるように何かを一心に書き続けていた。インクが切れればまたつける。書く。つける。書く。つける。その繰り返し。

 滑らかに動くのはその指のみ。

 顎は力が入らないのか緩むように開き、肩はまるで凍えるように震えている。

 目は落ち窪み、その貌には死相が浮き出ていた。


 老翁の死が近いことは、誰の目にも明らかだった。


 まるで自身の命を書き込むように、老翁の手は止まることはない。


『治癒魔法も、効果ありません』


 ふと、雨音の中にそんな声を聞いた気がして、老翁は窓に目を向ける。

 外には誰もいない。

 窓に映るのは、灰色の雲から落ちる雨だけ。

 否、その窓に映る、老いた己だけだった。


『かの大賢者も、もうおしまいか』

『最期はあっけないな』

『バカ、声がでかいぞ』


 言葉は老翁の頭のなかに響いている。いつまでも。

 正しく他人事として話す、見も知らぬ誰かの言葉だ。

 悔しかった。

 いつかの冒険で、悪魔の呪いを受けた。

 体中の魔力をゆっくりと垂れ流し、最後に命まで落とす、忌まわしい呪い。

 抵抗を試みた。

 出ていくよりも多くの魔力を蓄えようとし、古代の薬草を調合し、神代の儀式も試みた。思いつくものは総て手を伸ばした。

 そのどれもが、呪いには届かなかった。

 ゆっくりと、だが確実に蝕んでいく呪いは、莫大な力を誇っていた大賢者をただのしわがれた爺に変えた。

 それでも。


 老翁は止まっていた手を動かした。


 諦めるわけにはいかない。

 命を手放すことだけは、絶対に。


 日は沈み、夜になった。

 雨はいつの間にか止み、雲の切れ間から赤い月が覗いている。


 老翁は机にもたれかかるようにしていた。

 吐く息は掠れ、目はほとんど開いていない。

 体中の力という力が、抜けてしまったようだ。

 もはや彼の命はどこにも残っていない。

 だが、最後の最後の力を振り絞り、筆を動かす。

 その、最後の一文字。


 ようやく完成したそれ――小さな部屋の殆どを埋め尽くすほどの長いスクロールに描かれたのは、長大な呪文。

 幸運なことに魔力は必要ない。

 それを起動するものは、たった一つだけ。


「……わが、たましいを、ささげる……」


 その日、「大賢者」アドルフ・ウィリアムは死んだ。



 ◇



 季節が一周した頃。

 王国の首都、ニーズバックでは一つの噂がまことしやかに流れていた。

 それを言い出したのは誰だったのか。

 商人か、旅人か、はたまた童の謳う流行歌か。

 ただ一つ確かなことは、誰もそれを冗談である、とは言わないことだ。


 誰もが口を揃えて曰く、


 とても恐ろしいモノが来る。赤い月の夜は、絶対に鏡を見てはいけない。

 声を掛けられても、答えてはいけない。

 恐るべきモノに、魅入られてはいけない。


 そんな、噂だ。



 ◇



 その日も、男は夜の王都を歩いていた。

 男の名を、ロナジという。

 女遊びでも、ましてや飲んだ帰りでもない。

 ロナジは王都の兵士だ。平民上がりとはいえ、実力を買われて兵士長にまでなった男は、そう多くはない。

 しかも元冒険者となれば、その数は本当に少ない。

 とはいえ、所詮は平民の兵士。

 上司はいけ好かない貴族の四男坊で、准騎士だ。

 あまりの無能さに追い出されるようにして騎士になったともっぱらの噂だが、騎士のくせに剣もまともに振れないと、その無能さは広まるばかりである。

 その上司はどうにも元冒険者、しかも平民であるロナジが気に食わないようだった。

 何かにつけて、面倒な仕事を押し付けてくる。

 ロナジがこうして一人で夜巡をするのも、もう何度目かわからない。

 小声でブツブツとクソッタレな上司を思い浮かべて文句を言うのも、毎回のことだった。


「しかし……今日はやけに冷えるな」


 革鎧の上に羽織った外套を寄せ、ロナジは小さく身震いした。

 王都は雨季を抜け、少しずつ気温が上がっているはずだが、夜はまだ寒い。とはいえ、それでもこの寒さは珍しい。風が吹けば尚更だ。

 ロナジは順路を早足で進む。面倒事がないようにと願いながら。それは純粋な職務意識というよりは早く詰所に帰りたいという下心ではあったが、誰も彼を責めることはないだろう。

 しかし、そんな彼のささやかな願いは、奇妙な物音によって脆くも崩れた。


 それはとある商会の近くを通ったときだ。

 時刻は深水の刻。

 活気のある王都とはいえ、ほとんどの住人は眠っている時間だ。

 とはいえ、それだけに無法者が活動するのもこの時間である。

 ロナジはため息をつきたくなる気持ちをぐっと押さえ込み、意識を切り替えた。

 腰の剣を手で触れながら、物音がした方向へゆっくりと近づいていく。

 音は建物の裏から聞こえた。


 幸い、今日は月が明るい。

 誰かが飛び出してきてもすぐに対応できるだろう。


 心の中でタイミングを見計らい、ぱっと建物の裏へ飛び出す。

 さっと視線を巡らせ――そこには誰もいなかった。


 剣の柄を握ったまま、一秒、二秒、とロナジは固まった後、小さく吹き出してしまった。

 猫かなにかだったのだろう。

 とんだ勘違いだったというわけだ。

 ともあれ、何もなくてよかった。


 安堵したロナジが、ふと空を見上げる。


 空には真っ赤な月が浮かび上がっていた。



 ◇



「ガイーシャ様、ご苦労様です。ロナジが戻り次第、交代させます」

「うむ、あとはしっかりやりたまえ」


 詰所に来た交代の兵士が敬礼する。

 それを受け、准騎士であるガイーシャは満足そうに頷き、さっさと詰所を出ていってしまった。それを見送る兵士の蔑んだ視線には、一切気づかない。

 本来なら隊長であるガイーシャはロナジが戻るまで待ち、ロナジを含めた他の兵士の報告も聞き、書類にまとめなくてはならないのだが、ガイーシャはそんな仕事は一度もしたことがない。

 面倒な雑務は部下にやらせればよいのだ。

 自分はもっと重用なことに時間を割く必要がある。そんな自分の貴重な時間を、たかだか日報程度の書類に当てるなどバカバカしい、とガイーシャは心の底から思っていた。

 四男とはいえこの身は栄光ある名門、ロヴァルキー子爵の直系。今でこそこんな騎士などという寄り道をしているが、本来なら不出来な兄どもを蹴落とし、歓待されながら領地に戻り、領主としての手腕を振るうことになるのだ。

 むしろ、こうして無駄に拘束されることがロヴァルキー領、ひいては王国の損失になると、なぜ誰も気付かないのか。ガイーシャは本気で疑問だった。

 だからこそ、自分が率先して立ち上がり、暗愚共を引っ張らなくてはならないのだ。

 いつか自分が父を跪つかせ、ちょっとばかり顔が良いだけの無能な王子どもを従え、王として君臨するのだ。

 そのときこそ王国は最盛期を迎えるだろう。

 ガイーシャは自分の妄想に酔い、ふと思い至った。


「そうだ、ぼくの優秀な子孫を残しておかねば……」


 もちろん栄えあるガイーシャの正妻には、王国の麗月と社交界で注目を浴びるミリア王女が収まることは、ガイーシャの中では既に決定事項である。

 それとは別に、ハッキニア公爵家のコーネリア嬢、リュアネルシア伯爵家のナザリア嬢、大商会エマーセン家のレベッカ嬢あたりは、愛妾として囲む必要があるだろう。


「ぐふふふ。あとは、野蛮だけどSランク冒険者のターニャも……許してやるか」


 気色の悪い笑い声を上げながら、ガイーシャは頷いてみせる。

 どうして自分はこんなにも罪づくりなのか。国外にまでその美貌を轟かせる美女・美少女たちを独り占め。その栄光こそ自分に相応しい。


「……まぁ、ぼくの才能がいけないんだけどね」


 迷うことなく娼館に向かっていた足を止め、ふと民家の窓に写った自分の顔を覗き込む。すこし眼力を入れてみる。

 威厳のある顔だ。才覚が滲み出ている。女なら誰でも惚れてしまうだろう。


「本当に、悪い男だ、キミは」


 ガイーシャは吹き出物だらけの顔で窓に映る自分に語りかけた。

 極めて客観的にガイーシャの容姿を評するならば、それは石灰岩に顔を押し付けて変形した肥満症のカエルである。

 それはガイーシャにとって絶世の美男子だというだけだ。

 余人が見れば、狂人の戯言に思うだろうが。

 本当に、ガイーシャはそう思っていた。


 ある意味、凄まじい才能の持ち主ではある。


『そうだな……、悪い男だ、キミは』


 ふといるはずのない第三者の声を聞き、ガイーシャは振り返った。

 その視界に、何か薄暗いものが映る。

 とっさに、口をついて出る言葉。


「誰だ?!」


 背後には誰もいない。

 訝しみながら、あたりを見回す。

 窓に彼の顔が映る。

 そこに、違和感を感じる。

 自分の顔が、まるで自分ではないような。

 訝しむガイーシャの、窓に写った顔だけが、ニヤリと恐ろしい笑みを浮かべた。



 ◇



 ロナジが詰所に帰ってきて、必ず一番にすることはカエルを探すことだ。

 いないのは厄介だが、いるのはもっと厄介だ。

 日報を書くことはそれなりの手間ではあるが、ガイーシャにぐちぐち絡まれるのは別次元の面倒臭さであることを思えば、それは苦にはならない。

 今晩もいないことに、内心で安堵する。

 一つ階級の低い兵士たちが帰ってきたロナジを見て、苦笑する。


「ああ、ロナジさん。カエルは井戸に帰ったよ」

「そりゃ良かった」


 同じ班同士、あまり上下関係にこだわらないロナジは、気安い笑みを交わした。ロナジは棚から一枚の紙を引っ張り出す。

 とはいえ、それは隅に小さな穴の開いたただの紙だ。質もほとんど最低のもので、ごわごわして固い。

 それを気にすることもなくロナジは机に付き、近くのペンを手繰り寄せる。

 インクをつけて、書く。

 ロナジにとっては、もう慣れたものだ。さらさらと書き終え、他の兵士の話も聞いて、特別異常がないことを形式張って書くだけだ。

 ロナジも、このときはもう物音のことなど忘れ去っていたため、何もない、という旨を書いて終わった。

 本来ならガイーシャのサインが必要であるが、ロナジは堂々と自分のサインは書いて終わる。これを提出する先の文官にはずっとまえに事情を説明してあるため、いまさら言うことはない。

 この書類を提出するたび、上がらないガイーシャの評価が下がるだけだ。。


「ロナジさん、今夜は冷えたし、少し運動してから帰るんだけど、どうする?」


 同僚の一人が、いやらしい笑みを作って腰を振る。見ると、もう一人も似たような笑みを浮かべていた。

 夜の店に繰り出さないかという誘いだ。

 ロナジは少しの間考え、まぁ、たまにはいいか、と首を縦に振った。


「よし、それじゃ、支度済んだら行こう。今日はルナちゃんがいるはずなんだ」

「誰から聞いたんだ」

「とある情報通からさ」

「ははは、なんだそりゃ」


 こんな会話はいつものことである。

 いつも通りが、いつも続くなんてことを信じていた。


 そんなこと、あるはずがないのに。



 ◇



 驚いたことと言えば、入店を断られたことだ。

 これまでそんなことは一度だって無かった。

 ロナジはあまり気にしていなかったが、ルナとかいう嬢を目当てにしていた同僚はひどく落ち込んでいたようだった。

 とはいえ、これは店側も責任を感じているらしく、責任者を名乗る年経た女性が集まった男たちに申し訳なさそうに謝罪していた。

 もちろんこの騒ぎにあつまったというわけではなく、ロナジたちと全く同じ理由で入店を断られた男たちが、せめて理由を聞こうと女性に詰め寄っていたのだ。

 女性は何度も頭を下げつつ、客が突然貸し切ったのだ、と告げた。


「どういうことだ?」


 比較的冷静なロナジが男衆を代表して訊ねると、女性もロナジに絞って答える。


「それがですね、突然お客様が大金を持ってこられて。今日はこれから貸し切りだと言って、残ったお客様まで無理やり追い出しちゃったんですよ」

「なんだ……それは……」


 こういう店だ。そんな乱暴な客が出てきたのなら、用心棒のゴツい男が出てくるはずだ――などと考えていたロナジの視界に、ボロ布のように転がっている男が映る。

 店の扉の横に、まるで捨てられたように放られているのだ。

 暗いためにはっきりとは見えないが、かなりの大男だ。腕も筋肉が膨れ上がっていて、見るからに強い。

 訓練をつんだロナジと対等……下手をすると、それ以上。

 それが、ぐったりと伸びているというのだ。

 ロナジは信じられない思いでそれを見ていると、女性がロナジの視線を追って、それに頷いた。


「うちのモンも、あっさりやられちまって……金も出されちゃ文句も言えなくて……あたしらも困ってるのさ」

「お気の毒に」


 そう言う以外に、ロナジに掛ける言葉は見つからなかった。

 周りの男達も大男の惨状を見て、一斉に口をつぐむ。ここで乗り込んでいけば、次にああなるのは自分かもしれないのだ。

 ロナジの同僚も、もう何も言わない。今日は諦めて帰ろうとした、その時。


「あっ、あっ、おやめてください! いや!」

「ぐふふふふふっ! そうはいってもな、身体のほうは、よろこんでいるぞ!」


 二階の窓が乱暴に開かれ、白い女の背が現れる。どうやら興奮した例の客が、窓を開け放ってプレイするという暴挙にでたようだ。

 もっとも、それを止めるはずの男はここで伸びているため、あの嬢はかわいそうだが、されるがままだ。


「ああ……! ルナちゃん!」


 同僚の情けない悲鳴が上がる。というか、他にも数人の男が似たような悲鳴を上げていた。どうやら人気の娘らしい。

 背中ばかりで肝心な場所は何一つ見えないが、若い女の背中を、男たちは複雑な表情で眺めている。

 その時、一瞬、ロナジは信じられないものを見た。


「……ガイー……?」


 いや、気のせいだ。

 ロナジはそう言い聞かせる。

 女と向かい合うように立っていた男の顔が、まさか己の上司に見えたなんて。

 あの豚とカエルの合わさったような男では、小柄な女性を抱えて持ち上げることだって出来ないだろう。

 しばらく確かめようとしたが、女の背しか見えず、ロナジは諦めた。


(それに、あの大男には、絶対にかなわないはずだ……)


 今なお目覚めない大男を見て、ロナジは自身の見間違いだと思った。

 実力で兵士長になったロナジは断言する。

 ガイーシャと勝負しても百回やって百回勝てる自信がある。

 その自分が、あの大男には勝てるかどうかわからないのだ。

 とにかく、これ以上ここにいることは何の意味もない。


 項垂れる同僚の背中を押し、ロナジは帰路についたのであった。



 ◇



 翌日。

 同僚たちと詰所に来たロナジは、喉元まで上がった悲鳴を懸命に飲み込むことになった。朝は絶対に居ないはずの人物がいるから、では、ない。

 目の前にいるのは、贅肉が揺れ、吹き出物だらけの顔をした上司だ。

 しかし目が違う。纏う何かが違う。

 追放され、落ちぶれた四男だ。だが、そこにいるのは猛獣か何かだとロナジは何も言われずとも理解した。

 カエルの見た目には変わりないだろう。

 それでも、そこにいるのが普段見るカエルか、魔物の中でも上位にあるカースド・フロッグかどうかの見分けはつく。

 目の前に突然魔物が現れたのなら、ロナジの反応は至って正常だ。

 いや、もし本当に魔物に出逢っていたなら、ロナジは悲鳴を上げつつも剣に手を伸ばしただろう。

 上司が魔物になっているから、ロナジの驚愕は凄まじかったのだ。

 そう、上司だ。

 間違いなくガイーシャ・ロヴァルキーだ。彼が魔物ではなく人間種であることは数年の付き合いである自分が、疑いようもなく知っている。

 別人だとは思う。しかし、昨日までのガイーシャと何も違いはない。

 彼の中の何かが変わったのだ。


「ぐふふふ。どうした、ロナジ? あいさつはっ!?」

「は、はっ! おはようございます! ガイーシャ様!」

「よろしい。……さっさとしごとをしろ。ぐふふふふふ……」


 弾かれたように、ロナジは掲示板の前に移動する。

 普段のように今日の予定を確認しているふりをして、そっとガイーシャの様子を盗み見る。彼は専用の椅子に腰掛け、短い足を組んでいた。

 いつものガイーシャだ。

 より偉そうになっていることを除けば、違いはない。

 一体何が起きたのか。

 見れば、同僚たちも違和感に気づいたようで、しきりに目で合図を送っている。

 互いに心当たりがないことだけが分かり、ロナジたちは訝しみつつも仕事を初めた。

 仕事そのものは、特に問題はない。

 普段から何もしないガイーシャがどう変わったところで、別に影響はない。

 ただ、今までは面倒な上司というだけだったが、今日は得体の知れない恐ろしさを持っている。

 慣れない空気に、ロナジを含めた同僚たちの動きもどこかぎこちない。

 それでも、何事もなく時間は過ぎていった。


 日は落ち、夜巡の時間になる。


 普段ならガイーシャの嫌がらせで決められたが、今日に限ってガイーシャは何も言わない。

 不気味に黙り込むガイーシャの指示がないため、戸惑った兵士たちは、臨時でロナジに指示を仰いだ。ロナジは少し間、ためらった。

 ロナジは、他の兵士よりも階級が高い。ガイーシャがいないときは、いつもロナジが指示するため、そこに問題はない。ただ、さすがにガイーシャがいるときに、というのは初めてだったのだ。


「では……」


 ガイーシャにも聞こえるように、ロナジは大きめの声で指示を出した。


「前回の続きで担当しよう。今回は……俺とニックのペアだな。待機はザナック。カールとモディは整理と清掃を頼む」


 ロナジたちの班全員の行動が決まり、それぞれに仕事に取り掛かった。

 ガイーシャは、何も言わず、その様子をじっと見ていた。

 朝は多弁だった。

 昼過ぎ頃から口数が減り始め、いまではほとんど何も言わない。

 無視ではない、と思うのは、視線だけは合うためだ。

 問いかけても答えがないというのは、さすがに異常だったが、面と向かっておかしいなどと言えるはずもない。

 ロナジは底知れぬ不気味さを感じながらも、どうすることもできなかった。

 ただ最後に、確認くらいはするべきだろう。

 無視をされる予感を感じつつ、ロナジはガイーシャに近づいた。


「ガイーシャ様、担当に問題はありましたか?」

「…………」


 やはり、無視をされた。

 ロナジは重くなる気分を表には出さぬように勤め、一礼して背を向ける。


「――て」


 何か、声が聞こえたした。

 ロナジは振り返ってガイーシャを見るが、特に何も言われなかった。

 じっと、視線だけを感じる。


(……気のせいか)


 ロナジは、夜巡のため出ていった。



 ◇



 ニックは小柄ながら、小盾の扱いが上手い兵士だ。

 小盾の技術だけなら、もしかすればニックはロナジよりも上手いかもしれない。総合力ではロナジには遠く及ばないまでも、負けにくい戦い方をするため、訓練でも成績は悪くない。

 ただ、少々おしゃべりの癖があるのが玉に瑕だ。まだ若い兵士のため、多少は目をつぶっているが、今日のニックはいつもより輪をかけておしゃべりだった。


「ロナジさん、今日のカエル、変だったですよね?」

「ああ、俺もそうもう」


 とはいえ、それはロナジも気にしていたことだ。

 話題にしたくなる気持ちもわかる。

 昨日までは普段通りだったのだが、今日はどうも妙だった。

 精神の病気を疑ってしまうほどだ。

 ロナジはガイーシャの様子から、なにか似たような病気はないかと考えたが、特別詳しくもないロナジに分かるわけもなかった。


「でも、実はカエル、昨日の夜からおかしかったみたいなんですよ」

「なんだと?」

「実は、僕の友達が娼館で働いてるんですけど、昨日カエルが来たみたいで」


 ロナジの脳裏に、昨夜の光景が蘇る。

 ボロボロになって倒れた大男に、ガイーシャのように見えた、男。


「まさか、それはあれか、ルナとかいう娘がいる娼館か?」

「え? ああ、そうです。淫魔の館っていうんですけどね。ルナのこと知ってたんですか?」

「いや、名前だけだ。ニックは知ってるのか?」

「僕の友達です」


 そういえば、とロナジは思い出す。ニックは昨日、あの場に居なかった。

 世間が狭いことを実感しつつ、何かを思い出しそうなロナジは焦ったようにニックに詰め寄る。


「そ、それで? 何がおかしかったんだ?」

「ルナ、昨日の夜遅くに僕のところに愚痴言いに来たんですよ、迷惑ですよね」

「ああ、そいつはとびっきり迷惑だ。それで?」

「はい。って言っても聞いた話なんですけど、なんでも昨日はいつもより大きかったそうなんですよ」

「……それは、アレのことか?」

「はい。ルナが痛かったって、文句言ってました。あと、ずっとブツブツ独り言言ってて気持ち悪いし、途中で窓を開けられて最悪だって。はは、嫌なら早くやめればいいのにって、僕いつも言ってるんですけどね。いつもはもっと早くてお手軽なのに、昨日は――」


 ロナジはニックの話を途中から聴き流していた。

 窓を開けられた。

 昨日、そんなことをしたのはあの男だけだろう。

 それは見た。聞いた。確信した。ロナジの頭のなかにいくつもの情報が雷のようにパッとひらめき、その結論に愕然とする。


「……悪、魔……?」

「え?」


 ニックが脳天気な声を上げた。ロナジは血相を変えて、ニックを怒鳴りつける。


「神殿へ行け! 悪魔がいる! 司祭を連れてこいっ!」

「へ? あ、はい!」


 驚きのままに駆け出すニックを見送り、ロナジは踵を返して詰所へとひた走る。


(……突然の肉体強化、そして精神の変化……おそらく、いや、間違いない!)


 それは悪魔の呪い。

 現役の冒険者ならすぐに気がついたかもしれない。それほどまでに危険な兆候だからだ。しかし、ロナジは冒険者を離れて長い。

 しかも、こんな人の大勢居いる都市には普通悪魔は出てこないため、気付くのが遅れた。


 悪魔は契約することで、恐るべき呪いを相手にかけるのだ。


 これには決まった流れがある。


 まず相手の願いを訊く。

 願いに沿った呪いを掛ける。

 願いが叶うと、呪いの効果によって徐々に魂を奪われる。

 全て奪われると、悪魔の器に変わる。


 そして、悪魔の下僕にされてしまうのだ。

 魂が完全に奪われてしまった時点で、もはやどうすることもできない。


 願いの内容によって、呪いは変化する。大抵の人は金貨を願い、たとえば死にかけの者なら命を願う。そのあとに、必死に解呪するのだ。

 ほとんどの者は、失敗して全てを奪われてしまうのだが、呪いをよく知る賢者は、悪魔との契約で悪魔を騙して巨万の富を得ることもできるという。

 もっとも、悪魔が生み出す金は強力な疑惑の呪いが掛けられたゴミだということは有名な話だ。


 今回は、ガイーシャが悪魔に魅入られた。

 強くなることで叶う願いだったのだろう。一体何が望みだったのかわからないが、段々と魂を奪われて、人としての存在が消えかけている。


 ガイーシャは話さなかったのではない。もはや話せなかったのだ。


「間に合え……!」


 最悪の状況が頭をよぎる。

 毒々しい赤い月が見下ろす中、同僚の顔が次々に脳裏に映る。その首から下が、冒険者時代に見た死体に置き換わる。


「くそっ!」


 ろくでもない考えを振り払い、ようやく詰所にたどり着いたロナジは、勢いよく扉を開けた。



 ◇



 鏡のように自身を映した窓に向けて――否、そこに映るもう一人の自分に向けて、ガイーシャは怯えたような声を出した。


「な、なんだ。どうなってる?!」

『おいおい、あんまり大きな声を出すなよ。それより、少し話そうぜ。なぁ? 俺は誰よりも、一番お前のことをわかってるんだ。隠さなくたって分かるんだよ』

「な……なんだ、いったい、なんのことだ」

『なぁ、おかしいとは思わないか? 俺たち・・・はこんなところでくすぶってるべき人間じゃない。そうだろう?』

「……そうだ」


 するり、と肯定の言葉がガイーシャから漏れた。それは本心だ。

 ぼうっと、窓に映る自分の瞳が青く輝いた気がした。

 窓に映るもう一人のガイーシャは、心底から悔しそうな顔をした。

 ガイーシャも、一緒になって悲しくなるような、そんな顔だ。


『なぜこんなにも優れた俺たちが、こんな扱いをされなくてはいけないんだ? 夜遅くまでくだらない仕事に追われて、無駄に時間を消費する。こんなのは全部違う。間違ってる。世の中は間違っている。唯一正しいのは俺たちだ。そうだろう?』

「ああ、そうだ」


 ガイーシャの心の底まで響くような真摯な声だ。

 その目は屈辱に濡れ、それでもと吠える力強い自分の瞳・・・・が映る。


『だから、力が必要なんだ。みんな俺たちの言うことを聞く、そんな力だ!』

「そうだ」

『俺はお前のことを誰よりも分かってる。だって俺とオマエは同じなんだからな』

「そうだ」

『なぁ、もうひとりの俺。そっちの俺の口からも言ってくれよ。俺の願いを』

「ちからだ。みんなにみとめられる、ちからがほしい」


 ガイーシャの口がそう動いた。窓に映るガイーシャも、同じ形に動く。


 ガイーシャが、にっこりと笑った。


 それからは、爽快だった。


『こいつは今まで心の中で俺を見下してたんだ』

「そうなのか」

『だから、こいつを屈服させてやるんだ。金ならある。力もある。こいつに無様に許しを乞わせるんだ。俺の力を認めさせなきゃならない』

「そのとおりだ」


 ガイーシャの目の前で、全裸の女がひれ伏している。

 ついさっき遊んでやった男は、本当の力を取り戻したガイーシャの相手ではなかった。

 簡単なことだ。

 ガイーシャがこれまで煩わしく思っていたことは、少し気分を変えただけでどうにもできる、つまらない些事だったのだ。


『ほら、窓でも開けてやれ。気分がいいぞ』

「ああ、そうしよう」


 窓を開け放ち、空を見上げる。素晴らしい赤い月が、祝福するようだ。


 そのまま、ガイーシャは夜の都市を練り歩いた。

 疲れはない。ただひたすらに気分が良かった。

 いくらでも酒が飲める。メシだっていくらでも入る。

 ゴツいだけのならず者だって、ちょっと撫でてやればすぐにひっくり返った。

 金はガイーシャのポケットから溢れるようにして湧き上がっている。渡してやったら、商人たちは涙を流して喜んでいた。

 最強だ。最高だ。誰もが自分を認めている。

 誰も敵わない。

 これだ。これを望んでいたんだ。


『なあ、いいきぶんだろう?』

「ああ、さいこーだ」

『そうだよな。これで、いいんだよな?』

「いい」

『これでおしまいか?』

「……まだだ」


 ガイーシャは酒によったような、ふわふわとした感覚の中、ある男の顔を思い出していた。


「あのおとこぬきでは、だめだ」


 ロナジだ。

 平民上がりの、ちょっと剣がうまいだけの男。野蛮な冒険者でもあった。

 高貴で完璧なガイーシャのことを心の中でバカにしているのは間違いない。

 部下たちと一緒になって、笑っていることくらい気付いている。

 あいつに認められなくてはいけない。


『なら、そいつでおしまいだな』

「ああ」


 どこからか、機嫌の良さそうな笑い声が聞こえる。


 自分の声だった。


 気づけば日は昇っていて、時間に合わせてガイーシャは詰所へ向かった。

 眠気は全くない。

 それより、一番にあの男の驚いた顔を見なくては気がすまない。


「まだか……まだか……」

『あせならくてもいい。もうすぐ、くるさ』

「ああ、そうだな」


 詰所の窓にうっすらと写ったガイーシャはにっこりと笑った。


 ほどなくして、兵士たちが入ってくる。

 ガイーシャは待ち構えるようにして、ドアの前に立っていた。

 そして、ようやく待ち受けていた顔、ロナジが現れる。


 だが、ロナジは驚いたような顔のまま、固まっていた。

 どうやら、ガイーシャの本当の力に気付くくらいは、できるらしい。

 怒鳴ってやれば、笑えるほどに怯えた声を上げた。


 すっきりした。

 いままでバカにした分を全て返したとは思わないが、これからこきつかってやればいい。


『これでいい。ぜんぶだ』

「ああ、これでおしまいだ」


 上機嫌に笑うガイーシャ。

 だが、うっすら窓に写った自分はまったく笑っていない。

 そのことに、疑問は浮かばなかった。

 笑ってるのは自分だ。窓に映るもう一人のガイーシャが笑っていなくても、そんなこともあるのだろう、と思う程度だ。


 ゆっくりと、ゆっくりと。呪いが進んでいく。


 ガイーシャは悪魔の器へと変わっていると知らず。


 ガイーシャの意識はほとんど肉体へ反映されることはなかったが、違和感だけはガイーシャ本人にも存在していた。

 だとしても。

 普段なら焦るような状況でも、ゆっくりと慣れていけば気付くこともない。

 ゆっくりと、眠るようにガイーシャの意識が薄れていく。

 何もわからなくなる。ガイーシャはどっしりと椅子に座ったまま動かない。

 ずっと座っていて尻が痛いが、それでも動くことは、ない。

 できない。

 ふと、消えかけていたガイーシャ本人の意識が覚醒した瞬間があった。


「ガイーシャ様、担当に問題はありましたか?」


 ロナジだ。彼が目の前に立っている。

 威厳を出さなくてはいけない。

 ロナジの上に立つ人間だと、示さなくてはいけない。


 だが、ガイーシャの身体が動くことはなかった。

 いつの間にか周囲は夜になっている。


 言い知れぬ恐怖を、その時初めて感じた。

 手遅れかもしれないことを、うっすらと感じた。


(――助けてくれ!)


 目の前に立つ男に向けて、ガイーシャの意識はそう叫んだ。

 口は動かない。ならば、声も出ていない。


 頭のなかで誰かが笑っている。


 脳裏に歪んだ光景が見えた。

 老人だ。骨と皮ばかりの、邪悪な顔をした老人が、笑っている。


 恐ろしい。自分が自分ではないものに乗っ取られていると、ガイーシャはその時初めて気がついた。

 いつ頃からそうなったのかはわからない。

 ロナジが、背を向けた。行ってしまう。

 ただ、消えたくない一心で。

 ガイーシャは精一杯叫んだ。

 助けて。助けて。助けて助けて、助けて……助け――


「――て」


 その瞬間、ガイーシャの意識は完全に消え去った。



 ◇



「みんな、大丈夫か!?」


 扉を開け放って、中に飛び込む。もう剣は抜いている。

 ロナジは警戒しつつ、室内を見渡した。が、暗い。ロナジはすぐに、ランプが消されていることに気付いた。

 焦燥が胸を焼く。

 手遅れ。その言葉がロナジの脳裏に浮かび上がる中、部屋の隅で何かが動く音が聞こえた。

 剣をそちらに向け、警戒しつつポケットを探る。取り出したのは夜巡のときに持ち歩く魔石だ。砕けると燐光が拡散するそれを、天井に向けて投げる。狙い通り魔石は天井で砕け、あたりを淡い光が照らし出した。


「うっ……」


 浮かび上がった光景に、ロナジは激しく動揺した。

 血だ。作業机や床、壁にまで飛び散った大量の血液。

 一人分の血液では済まない、そんな猟奇的な光景に、同僚3人の運命を知る。


「……くそ、すまん」


 気付くのが遅れたこと。ここに残してしまったこと。

 2つの罪悪感に押しつぶされそうになりながら、ロナジはゆっくりと移動を開始する。

 音の主は辺りが明るくなっても気にせず、何かごそごそと動いている。床にうずくまっているのだろう、何をしているのか、ロナジには倒れた机が影になって見えなかった。

 すり足でゆっくり移動する。ようやく見えたそれ・・は、予想された光景だ。

 それはあらゆる可能性の中で、最悪の想定。


「ガイーシャ……様」


 ロナジの口から、掠れた息が漏れる。

 顔は見えなくても制服が違うため、ガイーシャだけは判別が容易だ。

 ガイーシャは床にうずくまるようにして、同僚――首から上がないため、特定ができない――の胸のあたりに、顔を押し付けているようだ。

 一見すれば、亡き同僚の胸に泣きながらすがりついているようにも、見えなくはない。

 だが、それは、ぴちゃぴちゃ、くちゃくちゃ、というおぞましい音を聞かなければの話だ。


「……」


 まだ、振り返っていない。


(ありえない。……もしもまだ正気が残っていれば、などと甘いことを考えている、俺が、ありえない)


 あれは既にして悪魔の器。忌むべき人間の敵だ。

 ためらう必要などどこにもなく、ためらうだけ不利になる。

 斬りかかる側の葛藤。そこまで含めて、悪魔の呪いなのだ。


 とはいえ、その葛藤も数秒。

 覚悟を完了したロナジは、いまだ同僚の肉を食らっている悪魔に無言で飛びかかり、頭目掛けて剣を振り下ろした。


「キョアァァァアアアア!!!」


 だが、それは化鳥のごときおぞましい絶叫を上げた悪魔が跳ねるようにして距離を取ることにより、空を切る。

 それまで悪魔のいたスペースが見えるようになり、ロナジは込み上がる吐き気を必死に押さえ込んだ。食い散らかされた亡骸を、見ないように目をそらす。

 かわりに、口元を真っ赤にしたガイーシャ……の形をした悪魔を睨む。

 よくみれば、悪魔の額には小さな角が生えていた。

 邪悪なる眷属、悪魔の器の証明だ。


「ア……アア! キミハ。キミハキミハキミハ。ロナジ」

「……悪魔め、知性があるのか」

「ク。クフフ。オドロイタタタイタ? ロナジ、キミハ、コロ、コロコロコロコロ、クイコロス」


 悪魔の器になったものには、呪いをかけた悪魔の能力に応じて言葉を話すことができる場合がある。若干怪しいが、多少なりとも会話が成立するレベルの悪魔となると、元冒険者とはいえ一兵卒であるロナジの対処できるレベルを大きく逸脱している。

 ロナジはここで、討伐から退避へと目標を変更した。

 応援を呼ぶ必要がある。

 せめて、ニックが司祭を連れてくるまでは、耐える必要がある。


 扉までのルートを素早く目を走らせて確認し――嫌な予感に従い、ロナジは大きく扉とは逆側へ跳んだ。その空いたスペースへ、猛烈な勢いで悪魔が突っ込んでくる。

 悪魔は倒れていた机にぶつかるも、机のほうが吹き飛ばされてしまった。

 悪魔となったことで、人間だった頃のガイーシャよりもずっと強くなってしまっているらしい。


(……だが、少しわかった)


 ガイーシャの腰にある剣を振るよりも突進を選択するあたり、剣術までは習得できていないようだ。

 悪魔の器になるとき、本人の技能まで受け継ぐレベルの強力な悪魔であれば、逃げることも出来ずに惨殺されるであろう。もっとも、そんな悪魔が出てくれば勇者や聖女の出番だ。

 とてもじゃないが、都市の片隅にある詰所で起きていい事件じゃない。


「キ、キキキ、グフフフフ、グキ、グキキキキ」


 笑っていることは、分かる。

 どうやら、逃走経路を潰すことができたことが、お気に召したそうだ。詰所の出入り口は一箇所しか無い。悪魔は、その前に移動した。

 クソッタレ、とロナジは心の中で吐き捨てた。


 詰所の交代が来るまでは、まだ時間がかかると考えていい。ロナジがその間ずっと悪魔と追いかけっこできるかと言われれば、考えるまでもなく答えはノーだ。

 悪魔の器に、疲労という概念はない。

 攻めるにしても守るにしても、一方的にロナジが不利だ。


「これは……本気でまずいな……」


 ロナジは、死がすぐそこまで迫っていることを知った。



 ◇



 悪魔が扉の前で陣取っているなら、こちらは離れていればいい。

 などと、そんな解決法があるはずもなく。


「キョアァァア!!」

「くそがっ」


 悪魔が奇怪な叫びを上げるとともに、鋭利な氷の矢が飛来してくる。

 魔法攻撃だ。

 一発一発の威力は強くない。机に刺さって止まった矢を見たロナジの行動は元冒険者らしく、極めて早かった。

 最初は落ちている机を盾にし、それが破壊されれば落ちている同僚の円盾を使い、とくるくる器用に立ち回る。

 だが、それも三十近く射撃されるころには手元に盾になるようなものは残っていない。

 ごろごろと必死で床を転げ回り、みっともなく回避するしか残されていなかった。

 それでも、体力と精神力はガリガリと削られていく。

 そう遠くないうちに、氷の塊がロナジの身体を貫くだろう。腕にしろ、足にしろ、どこにしろ、血を流せば遠からず動けなくなる。

 つまり、一発でも直撃すれば負けだ。


 もう避け続けている間に、時間の感覚は狂っている。

 あれから一時間にも、なんなら一日くらい経っている感覚だ。

 それだけの間、避けられているのは決してロナジが優秀な回避能力を持っているから、というわけではない。

 ロナジは食いしばるようにして、身体を起こした。

 悪魔はそれを確認すると、またも奇怪な叫びを上げる。それをロナジが全力で回避する。その繰り返し。

 遊ばれている。

 一発逆転を狙って、剣を投擲するという手段が残っているが、それを外してしまえばいよいよ手段が残っていない。

 ロナジは踏み切れずに居た。


(とはいえ、このままじゃどっちにしろジリ貧だ……くそ、どうしたらいい?!)


 立ち上がる寸前に、ちらと扉を見る。

 そこに増援の気配は見えない。

 そうしている間に、もう聞き飽きた感のある叫び声。

 とはいえ、それが致命傷であることは分かりきっているため、ロナジの行動はやはり回避しか残されていない。


 そうして、ロナジの回避数が五十を越えた頃。

 ロナジは息も荒く、擦り傷も目立つようになっていた。それでも直撃を受けていないというのは、他者が見ていれば賞賛するに値する。

 もっとも、ロナジからすれば賞賛する暇があるなら助けに来い、と言うだろう。


「く、くそ……流石に、もう、いい加減、限界だ」

「グキ? グフフキ? オシマイ? ロナジオシマイ? ゴハン?」

「……」


 もはや軽口を返す気力も残っていない。

 ロナジは剣を正面に構えた。

 これまでと違う動作に、わずかに悪魔が警戒を強める。知能の高い悪魔だ。ただ投げつけただけでは、確実に避けられるだろう。

 だからこそ、ロナジはタイミングを待っていた。

 これは、賭けだ。勝率は、僅かに……いや、かなり悪い方へ傾いている。

 しかし、やるしか無いのだ。

 必勝のタイミング。それを、掴むしか無い。

 チラと、悪魔の背後の扉に一瞬だけ視線を送る。


「いまだ! ニック、やれぇええええええっ!」


 ロナジが扉に向かって絶叫するのと、悪魔が振り返って氷の矢を背後に打つのはほとんど同時だった。

 ロナジの目の動きを見ていたのだ。タイミングを読まれ、背後に居た者は間違いなく致命傷だろう。

 悪魔は醜悪な笑顔を浮かべ、氷の矢は無慈悲に空中を走り――扉に突き立つ。


「キッ?!」

「……いれば、な」


 一瞬だけ遅れて走り出したロナジのすぐ目の前には、背後を向いている悪魔。

 ロナジは賭けに勝ったのだ。


「うおおおおおおっ!!」

「キョアァァァアアアアアアア!!」


 互いに裂けんばかりの絶叫を響かせ、迎撃を諦めた悪魔は回避に、ロナジは攻撃に全力を振り絞る。


 グチッ、という気色の悪い音とともに、ロナジの剣が悪魔の身体を捉える。


「っは!」


 即座に、もう一度剣を振るロナジ。斬り下ろしからの、振り払い。

 肩から脇腹、同時にふくらはぎを一閃。

 深い。

 確信したロナジは、そのまま追撃――などせずに、扉を開ける。


 だが、事体はロナジの思っていない方向へ加速する。


「ロナジさん、いま助けぐあっ?!」


 ニックが、タイミング悪く扉の前に登場したのだ。

 互いに扉を蹴破る勢いで突撃しただけあって、その衝撃も凄まじい。

 とはいえ、体格に勝るロナジの勢いが勝り、運良く扉の外に転がることはできた。

 もんどりうって倒れ、衝撃に閉じた目を素早く開き、ロナジは焦りつつ背後に視線をやる。


「――アアアッ!!」


 その動きは、やけに遅く見えた。

 ロナジはニックを押し倒すような格好で、四つん這いだ。すでに飛来している氷の矢を防ぐのは、たとえ腕を犠牲にしようとも不可能なタイミングであるとは、これまで避け続けたロナジが一番わかっている。


 転がるように避ければ、チャンスはあったかもしれない。

 しかし、その先にいるニックは確実に死ぬ。

 その躊躇いが、ロナジの最後の回避の時間を奪っていった。


(畜生……!)


 ゆっくりした世界の中、こんなバットエンドを用意した神の存在を恨みながら、ロナジは目を強く閉じた。


「――『聖浄盾セイント・シールド』!」


 だが、予想した鋭い痛みはなく、代わりに聞こえたのは澄んだ凛々しい声だ。

 まだ若い少女の声だが、それが魔法の短縮詠唱であることに、元冒険者のロナジはすぐに気づいた。


 すぐに目を開き、跳ねるようにして立ち上がる。

 ロナジの前には、薄く輝く膜のようなものが広がっていた。薄っぺらに見えるそれは、盾を数発で貫通する氷の矢を見事に弾き返している。

 ロナジは泣きそうな気分になりながら剣を構えた。


「助かった!」

「間に合ってよかったです! ニックさん、あなたも起きて!」

「は、はいっ?!」


 いまだ状況を把握できていないニックが素っ頓狂な声を上げたが、ロナジはそちらは気にせず、前を睨む。


 これで形勢は3対1だ。


 自身の不利を悟ったのか悪魔の表情は先程のいたぶるような表情は消え去り、険しく歪められている。


「回復します! ――『下級治癒ロー・ヒール』」

「よし、よしよしよし!」


 ロナジの身体にあった細かい傷が消え、心なしか疲れも抜けた気がする。

 もっとも、治癒の呪文に疲労の回復の効果はないため、これはロナジの気分によるものだ。もちろん、ロナジもわかっている。

 希望の芽が見えたどころか、このまま押し切れそうな状況なのだ。

 多少の疲れも吹き飛ぶというものだろう。


「ニック! 司祭を守れ! 司祭さんはこっちの支援を頼む!」

「はい!」

「わかりました!」


 ニックが剣と小盾を構え、司祭の少女の前で構える。

 司祭の少女は短杖ワンドを構えて、長く呪文を詠唱する。

 悪魔がそれをさせまいと、短い叫び声とともに氷の矢を打ち出すも、


「はっ!」


 ニックが巧みに小盾を操り、氷の矢を受け流す。

 若干の角度をつけて弾くことで、矢の進路を変えているのだが、暗い夜間で初見の魔法矢を相手にそんな芸当ができるのは、ニックの盾技術が優秀だということの証左であろう。

 その間に、司祭の詠唱は終わる。


「――『中級防御付与アドバンス・アーマー』!」


 すると、ロナジの身体にうっすらと透明な膜のようなものが生じる。さっきの光る膜とは違うようだが、十分な効果がありそうだ。


(回復魔法をタイミングよくしてくれればバンザイだったが……頼りになる)


 ロナジは望外のサポートに気炎を上げると、剣を握り締めて悪魔へ突撃していった。


「キョァアアアアアアアア!」

「はぁぁぁあああああああ!」


 近づくまでの数歩、その一呼吸で3本もの氷の矢が飛んでくる。

 ロナジは司祭の防御魔法を頼りに左腕を盾にして突っ込むと、防御魔法は見事に氷の矢を弾いてくれた。

 動揺する悪魔。

 必殺の好機を見たロナジが更に一歩踏み込み、鋭く一閃する、直前。


「――『中級斬撃強化アドバンス・シャープ』!」


 司祭の支援魔法がさらにロナジを強化する。

 肩口から左の脇腹へ、すっと剣は悪魔を断ち切る。

 抵抗も少なく、剣は振り抜かれた。

 その切れ味はこれまでロナジが体感したことがないほどのもの。

 さすがの悪魔も2つに断たれては致命傷だ。


「――ふッ」


 だが、ロナジは鋭く呼吸し、更に横に一閃。

 振り下ろしからの振り払い。これはロナジの得意な連携だ。

 振り払いは見事に悪魔の頸を捉え、ポン、という気の抜ける音とともに飛ぶ。

 首を落とせば、悪魔も例外なく死ぬ。

 だが、ロナジは警戒を解くことなく、その死体を見つめる。

 その視線の先で悪魔の器――ガイーシャの死体が灰のようにさらさらと崩れ、空気に溶けるように消滅すると、ようやく剣を降ろし警戒を解いた。


「ああ……クッソ疲れた……」


 ロナジは自分がつぶやいたその声で、ようやく終わったのだと実感した。



 ◇



「お疲れ様でした。わたし、司祭長のエルネと言います」

「ああ、エルネさん……様。ありがとな。俺はロナジ。ただの兵士だ。ホント、おかげで助かった。エルネ様は命の恩人だ。ありがとう」

「いえ、様だなんて、そんな……ですが、間に合ったようで本当に良かった」


 しっかりと頭を下げる。

 きっと悪魔などと突然言われ、半信半疑のまま駆けつけてくれたのだろう。

 しかも司祭長だ。神殿の階級には詳しくないが、それなりに偉い人であることは間違いない。

 しかも突然の攻撃に盾を張ってくれたことや、目を見張る補助魔法の腕で能力も高い人だと分かる。援軍が彼女だったことは、今回一番のラッキーだろう。


「ニックも、結果として良いタイミングで来てくれた。……ほんと、良いタイミングだった」

「いえ、すいません……ぶつかってしまって……」


 ニックはロナジが気を使ってくれていると思ったようだ。

 登場早々ぶつかったのではそう思うのも仕方ないが、ロナジは心の底からあれでよかったと思っていた。


(もしニックがいたら、氷の矢はニックに確実に刺さっていただろうしな……)


 悪魔への不意打ちのために使った手だが、ニックがいれば確実にタイミングを合わせようとしただろう。

 おそらく、そのタイミングは確実に読まれる。

 そうなれば目の前でニックは死に、動揺したロナジもまた返り討ちにあった可能性もある。

 結果論だ。

 結果論だが、ニックの援軍としてのタイミングは決して悪くはなかった。


 とはいえ、そのあたりまで説明することせず、ロナジはニックに軽く笑いかける。


「そ、そういえば……ニックとロナジさん、ぶつかった拍子に絡み合っちゃったんですものね」

「か、絡みあ……まぁ、そうですね。あのときはヒヤッとしました」

「はい、わたしもびっくりして。あんなことって本当にあるんだなって」


 表現が少し気になったが、ロナジは頷いた。エルネがなぜか嬉しそうに出会い頭の話を続ける。

 本人も言うとおり、驚いたから印象的なのだろう。扉を開けた瞬間激突するなんて、そうそう見れるものじゃないしな、とロナジは冗談として受け流した。


「その、どうでした? 感触というか……あ、いえ、ごめんなさい、なんでもないです!」

「あ、ええ……」


 ロナジは理解した。この人、たぶん腐ってる。

 エルネはゆるくウェーブのかかった金髪を肩まで伸ばしている。顔立ちも整っているし、スタイルも、身体のラインを隠す神官の服を着た上からでも、豊かな胸があることが分かる。

 もったいない人だ。ロナジはそこで思考を打ち切った。

 特殊な趣味でも命の恩人であることには変わりない。


(そうだ。喜んでもらえるなら……いいじゃ……ないか……)


 納得はできそうになかった。

 そうして、3人は協力して詰所の片付けをする。死体の処理はロナジが率先して行った。ニックにも、エルネにも刺激が強いだろう。

 とくにニックは、昨日まで一緒に仕事していた同僚の悲惨な姿を見たら、心に傷を負いかねない。役職柄用意してある大きな布の袋に、部屋の中の3人分の死体を納めた。


 袋の口を締め、ロナジは両腕を組んで目を閉じる。

 この国での、死者への礼だ。

 振り返ると、ニックとエルネも同じ姿勢で静かに祈っていた。


 血の処理や破損した備品の修理・申請、報告書や被害者の家族への連絡といった書類の作成、補充人員の分担の計画など、思いつくだけでも仕事は山積している。

 それでも、定時になり交代に来て驚愕していた兵士たちも巻き込み、掃除を続けた。終わったのはすっかり夜も更けた頃だ。

 さすがに、全員の顔に疲労が見える。

 特に、必要もないのに最後まで仕事を手伝ってくれた司祭長のエルネには、本当に感謝の言葉しかなかった。


「というわけで、あとはこっちでやっておく。本当に、ありがとう」


 一緒に作業をした中で、ロナジの口調からは自然と敬語が取れていた。それを気にした風もなく、エルネはにっこりと微笑む。

 それから、少し真剣な顔になって、エルネはロナジとニックを他の人から少し離れたところまで引っ張った。

 何事かと目を白黒させる2人に、エルネは声を潜めて告げる。


「じつは……悪魔の被害は、ここ数ヶ月の間に、急激に増加しています」

「なんだって……?」

「赤い月と鏡の噂、聞いたことはありませんか?」

「あ、それなら僕知ってます」

「何の話だ?」


 ニックが最近になって流れているという噂をロナジに説明する。

 赤い月。鏡を見てはいけない。答えてもいけない。

 そういえば、とロナジは昨日の夜に赤い月が出ていたことを思い出した。


「同じ悪魔による呪いの事件が、最近は多くなっているのです。神殿でも、その対応に追われていまして」

「なるほどな。つまり、今回の一件もそのうちの一つってことか」

「はい。今回は不幸なことになってしまいましたが、何度か悪魔化する前に処理できたこともあります」

「解呪は?」

「……いまのところ、成功した例はありません」


 つまりは、それほどまでに強力な悪魔がこの都市に潜伏しているということだ。


 これは冒険者の常識として知られていることだが、悪魔は本体を討滅しない限り、何度も現れるのだ。


「……そうか。それで、どうして俺たちにその話を?」

「協力してほしいのです」


 エルネは、ためらった様子を見せるが、結局打ち合けることにした。

 これから話す内容は、神殿の恥部だ。広める訳にはいかないが、しかし説明しないことにはこれからの話しも難しい。


「実は、神殿関係者に不穏な動きがあります。今回の悪魔騒動も、一部の者が隠蔽するような動きがあります。おそらく、国政にも……。すいません、あまり多くはお話できません……」

「一介の兵士にはでかすぎる規模の話になってきたな。神殿の中も一枚岩じゃないってことか」

「はい、恥ずかしながらその通りです。そこで、みなさんにはこの悪魔騒動を多くの人に話してほしいのです。ただし、発信者があなたたちだとは、知られないように」

「それは構わないが……って、まさか……?」

「実は……悪魔騒動の当事者が、不自然に消えることがあります」


 いよいよ怪しくなってきた話に、ロナジは天を仰いだ。

 面倒事の気配がぷんぷんする。

 これ以上踏み込むことは絶対に良くない。


「悪いが、その話には乗れそうにないな……」

「そうですか……」


 命の恩人の頼みではあるが、そこに命を掛けるのはロナジの本意ではない。

 エルネ本人が命の危機だというなら命も掛けようが、人間関係のゴタゴタで殺されるのはまっぴらだった。


「すいません、変なお願いをしてしまって……」

「いや、こっちこそすまねぇ。ただ、今の話は絶対に誰にもしないと誓おう」

「はい。本当にすいません」


 そこで話が終わると思われた時、会話に口を挟まずに居たニックが、そろりと手を上げた。


「俺、それやりますよ」

「な!?」

「本当ですか!?」


 驚愕に口を開けるロナジと、喜色を露わにするエルネ。

 すぐにロナジはニックを止めようとして……思いとどまった。ニックがやりたいというのだ。それを止めるのは、ロナジのすべきことではない。


「ですが、先ほどのロナジさんの言うとおり……危険です。妙なごたごたに巻き込んでしまいます。その、断っていただいても、構わないのですよ?」

「でも、そうしたらエルネを手伝ってくれる人はいるの?」

「っ……、それは……」


 目をそらし小声で、います、とエルネは言った。

 だが、それを真っ直ぐに受け止めるほど、ニックもロナジも単純ではない。悔しげなエルネを見れば、答えはわかったようなものだ。


「なら、俺がエルネのこと、手伝うよ。それとも俺なんかじゃ、だめか?」

「ニックさん……いえ、そんなことありません!」


 ロナジはニックがエルネを落とそうとしてるのかと思ったが、それは違う。

 ニックはただ純粋に、好意で手伝いを名乗り出ているのだ。

 その様子を傍から眺めて、ロナジは青春してるなぁ、とぼんやりと思った。

 ニックもエルネも、まだ十代の半ばか後半くらいだろう。

 ロナジはあと数年すれば三十になる。

 一回り以上は違うのだ、感覚も違うだろう。


「じゃ、あとは2人で話してくれ、俺は降りる。ただエルネ、俺はアンタの味方だ……、じゃあな」


 くるり、と踵を返し、ロナジは背を向ける。

 何か一言あるかと思ったが、背中越しに聞こえてきたのはニックの妙な言葉だ。


「エルネ。訊くけど、なるべく多くの人に話すんだよね?」

「え? あ、はい。そうです」

「うん、そうだよね」


 こういうときのロナジの勘は、よく当たる。


「おい、ニック」

「はい、なんですか、ロナジさん」

「俺は降りたからな」

「でも、話しちゃいけないわけじゃないんですよね」

「……降りたんだからな」

「そこで話も聞かないぞって言わないのが、ロナジさんですよ」


 うるせぇ、と逃げるようにつぶやいて、ロナジは真実逃げるように去っていった。

 その背を、少し呆然とした様子でエルネは見送る。


「あ、あの……」

「ロナジさんはああ見えて情に厚い人だからね。何かあったら僕の方から話すよ。そしたら、きっと協力してくれるよ。話は聞いてくれるみたいだからね」

「あ……ああ!」


 ようやく理解したエルネは、隠しきれない笑顔で頭を下げる。もう消えたロナジの背中に向けて。


「さあ、じゃあもう少し、話を聞かせてよ。他に手伝えることないの?」

「あ……では……!」


 こうして、ロナジたちに起きた空間騒動は一段落した。

 以降、およそ月に一度か二度の割合でロナジはニックとともに夜巡へ向かい、ぼろぼろになって返ってくることになる。

 兵士たちの間ではちょっとした噂になっているほどだ。

 さらにその後。ロナジとニックはなんやかんやと神殿騎士として叙任されることになるのだが、それはまた別の話である。



 ◇



 暗い、暗い、湿っぽくカビ臭い、呪いに満ちた、その場所。

 腐り落ちる寸前の、生の気配の微塵もないその場所に息を潜めるようにして悪魔はいた。

 ――生前の名を、アドルフ・ウィリアムという。

 自身の魂を悪魔に捧げ召喚し、肉体を捨てた老翁。

 そして、その悪魔を逆に取り込むことで完全に掌握した「大賢者」。


 ――否。


『ゴァァアアアアアアア!!!』


 突如ボコリ、と彼の腹が膨れ、それが苦悶に満ちた顔を形作る。

 この世全てを呪わんばかりの絶叫はそこから響いているようだが、悪魔は気にもせず、そっと手で押さえ込む。


「ふむ、まだ完全には押さえ込めておらぬか……まぁ、時間の問題じゃろう」


 しばらくすると、腹は何事もなかったように元の形に戻っている。

 悪魔はどうでも良さげに鼻を鳴らすと、じっと手元を除き込む。

 その姿は、どこか病的で、狂気をはらんでいる。


 ふと、悪魔の彼の側に白い塊が浮かんで近づいてきた。

 悪魔はそれに口をつけると、ちゅるり、と音を立てて吸い込む。

 すると、ボウと彼の身体が白い靄に包まれ、――何事もなく靄は消えた。


「ふむ……質も量もないと、やはりこの程度か。魔力の一雫も溜まりゃせんわ」


 悪魔は退屈そうにごろりとその場に寝転がる。


「さて……次はどいつにするかのぉ」


 くつくつ、と悪魔は愉快そうに喉を鳴らす。

 くつくつ、くつくつ。

 笑い声は、ずっと鳴り止むことはなかった。

お読み頂きありがとうございました。

普通ならモブのポジションのキャラをメインにしてストーリーを一本仕上げよう、という作品です。

本来ならもっと短く終わる予定だったのですが……しかもどっちかっていうと悪魔が主役だったのですが……気付いたらこのような形になっていました。

とはいえ、個人的には満足する出来になりましたので、ぜひ皆様にも楽しんでいただければと思います。

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