夏の前奏曲(プレリュード)
少し設定がずれてる箇所が発見されましたが、気にせずにお読みください。
夏の前奏曲
大きな窓から取り込まれる光が、レッスン室を明るく照らしていた。窓の外には綺麗に手入れされた庭があり、適度な緑は見ている者の目に優しく感じられる。もっとも、今は外を気にしている場合ではないのだけど。
「やめ。――六十八小節から、もう一度。その小節からのクレッシェンドをもっと強く」
大森先生の声に、僕は演奏の手を止めた。楽譜上の指示された小節に目を通して、再び鍵盤の上に指を乗せる。だが、二度目の演奏は長く続かなかった。
先生は綺麗な形の眉を歪め、大きなため息を吐く。額に深く刻まれた皺が、僕の心に少しだけ申し訳ない気持ちを呼びこんだ。
「すいません。最近少し、練習に集中できなくて」
「そう。……今日はもういいわ。時間もそろそろでしょう」
壁に掛けられた時計は今日のレッスンがいつもより十五分も短いと訴えていたけれど、僕も今日はこれ以上ピアノを弾こうという気分にはなりそうに無かった。先生の申し出に従って、譜面台の楽譜を片付ける。何度も捲って癖のついた楽譜は、どこかしょぼくれて見えた。随分前から使っていた楽譜だけど、最近急に老け込んだ気がする。何が変わったわけでも、ないだろうに。
先生は自分の前に佇むピアノの埃を掃いながら言った。
「そういえば、コンクールのことだけど――」
「ああ、はい。……もう少しだけ、待ってくれませんか」
特に埃を被っているようにも見えないけれど、先生は尚も掃除の手を止めようとはしない。僕は楽譜四冊の入った鞄を手に、小さく頭を下げた。その礼が、どのような意味に伝わったのだろう。僕には知る由も無かったけれど、先生はまた一つ、大きなため息を吐いた。
「応募締め切りが近いから……夏休みが始まるまでには、連絡してね」
僕はありがとうございました、と再び礼をして、レッスン室を後にした。粘度の高い熱気が、むっと体にまとわりつく。
夏休みまで、か。
先月くらいに高校入学を果たした気分でいたけれど、時間は僕たちの意識を超越した場所を流れているらしい。夏休みまでは、あと二週間しか残されていない。
履き慣れたスニーカーに足を突っ込みながら、僕は玄関の扉を後ろ手に閉めた。
カレンダー七枚目、今は初夏と称される季節である。だけど陽射しと温度だけは立派なもので、外気に触れた途端、体中から汗が噴き出してくるのを感じる。近くの公園では蝉が狂ったように鳴いていて、その鳴き声も暑さを助長しているようだった。
僕は駅直通のバスが停まるバス停までの道を歩きながら、ふと自分の手に視線を落とした。
骨ばった甲は暑さの所為か全体的に赤みを帯びていて、その中を流れる青筋が川のようにはっきりと見えた。そこから伸びる指は自分の目を通しても、綺麗な指とは言えない。短くて、太く、小さな頃からピアノを弾いていたためだろうか、筋肉質な指だ。先日切るのを忘れた右手親指の爪だけが、長い。美しい手とは言えなかったが、僕はこの手が嫌いではなかった。十四年の間、僕の指示通りに鍵盤の上を飛んだり跳ねたり、時に不格好な踊りを踊ってはいたけれど、最後は僕の思い通りに動いてくれる。
この手があったお陰で、僕は自分を保っていることが出来たのではないかと、先日の自己分析の結果は語っていた。もしかしたら、今歩いている足よりもずっと、僕のことを支えてくれていたのが、この手なのかもしれない。
僕は歩道を歩きながら、遥か前方へ走り去っていくバスの後姿を眺めた。どうやら僕は、自分の手と見つめ合っているうちに、バスに乗り遅れてしまったらしい。バス停に着くと、時刻表を確かめる。一時間に一本しか走っていないとは知っていたけれど、どうしても確かめずにはいられなかった。しかし、時刻表に僕の期待する異変は起きておらず、バスはもちろん一時間に一本のままだった。
歩こうか。
僕は頭上で燦々と陽光を降らせる太陽に小さく呪詛を呟きながら、駅までの道をとぼとぼと歩きはじめた。
そもそも、僕がこんなことになっているのは、アイツが原因なんだ。
「北野肇です。よろしくお願いします」
夏休みの三週間前。珍しい時期にこの町へやってきた彼は、噂通りの転校生だった。
遠く何百キロと離れた大都会から訪れる、イケメンの転校生。女子テニス部の川端が、皆にそう嘯いていたのは、二日前だったか。部活の後片付けをしているとき、担任と一緒に歩く彼を見かけ、情報収集に奔走していたらしい。
担任の指示に従って、北野は僕の後ろの席までやってきた。窓際、一番後ろの席だ。
「よろしくな」
「おう、よろしく」
教室の窓から差し込む光に照らされた北野の髪は、柔らかい栗毛色に輝いていた。
……確かに、イケメンだ。僕なら彼がアイドル事務所に所属していると言われても、疑わない。テレビなんて見ないから、今どんな男たちがステージの上で歌って踊っているのかは知らなかったけれど、きっと北野ならそこに立っていても不思議じゃない。
僕は彼のそんな姿を、以前どこかでみたことある気がした。どこかの町ですれ違ったのだろうか。
「じゃあ一時間目は体育だ。今日は外だから、遅れないようにな」
担任の要るのか要らないのか分からない――多分要らない注意事項を最後に、朝のホームルームは終わった。
今日もまた、いつもと変わらない一日がやってくると思っていた。
一時間目が始まるまでの休み時間は、僕の周りに沢山の男子が集まってきた。いや、正確には僕の後ろにある席に、だけど。
「北野って、東京から来たんだろ? すげーよな」
何が凄いんだよ、言ってみろよ。ただの転校生じゃないか。
「やっぱ都会人から見ると、こんな町小さすぎるだろ」
都会人じゃない俺から見ても、小さすぎるよコノヤロウ。
僕に向けられている訳じゃないクラスメイトの高揚した声に一々心の中で悪態を吐いていると、前の席の亮一が突然後ろを振り向いた。彼は早々に体操服に着替え終わり、下敷きを団扇代わりに、自信を扇いでいた。
「何機嫌悪そうな顔してんだよ」
「やっぱり陸上部のエースは着替えるのも早いんだな」
僕はパンツ姿で手提げバックの中を漁りながら応えた。目的の物を見つけ出して、それをすぐさま身につける。
「慣れてるからな」
僕らは揃って教室を後にした。
亮一は、僕の幼馴染だった。保育園の頃まで、その出会いは遡る。小学校、中学校とほぼ同じクラスに属し、同じような時間を過ごしてきた僕らは、そこらの兄弟よりも互いのことを良く知っていた。
まだ南中していない太陽の白い光に満たされた廊下は温かく、光の海を掻き分けて進むのは気持ちが良かった。時々誰が開けたのか、廊下の窓から吹く風が柔らかく前髪を揺らしていく。
「騒がしい教室は嫌いだ」
「自分じゃないヤツを中心にして騒がれている教室が嫌い、の間違いじゃないのか」
僕は無言で亮一の肩を軽く殴った。彼は心底痛そうな演技をして、何となく滑稽だった。
亮一も僕も、分かっている。伊達に十四年間、一緒にいるわけじゃない。
「もう夏だな」
痛がる演技に飽きたのか、亮一は窓から外の様子を眺めていた。
確かに、グラウンドや屋根の海の向こうに見える空は、もう夏のそれだった。同じ青だけど、秋でも春でも、もちろん冬でもない。夏の青空。
「夏は出会いの季節だ」
「がんばれ。亮一なら彼女の一人くらい捕まえられるよ、きっと」
「根拠は?」
僕は亮一の問いに、肩をすくめる。彼は笑って、また窓の向こうへ視線を戻した。そして言った。
「夏は出会いの季節であると同時に、変化の季節でもあると思うんだ」
「変化の季節」
「人は誰かに出会うと、絶対に変わらなくちゃいられないからさ。誰かと出会うことは、自分が変わることでもある」
昇降口についた僕らは、体育用の靴に履き替える。
こうして靴を履き替えるように、人の心は簡単に変えられるのだろうか。
僕はグラウンドから見える大きな空にそう問いかける。もちろん答えなんて、降ってくるはずもなかったけれど。
その日の午後、僕は思いがけない言葉を耳にした。
「五時間目は……芸術か」
黒板の右上に貼られた時間割表を見て、僕は心の中で呟いた。机の中から音楽の教科書を取り出す。教科書の表紙には、初老のサックス奏者が気持ちよさそうに演奏をしている様子が写されている。本当に、楽しそうだ。
「和斗、行こうぜ」
「おう」
亮一が同じ表紙の教科書を持って、声を掛けてきた。彼は音楽が得意じゃないのに、芸術科目は音楽を取っていた。楽譜もろくに読めなかったはずだけど、何故だろうか。
「そういえば北野は芸術、何を取ってんた?」
「ああ、俺は音楽だよ」
僕の後ろでクラスメイトと話す北野の声が聞こえた。本当なら聞こえないほどの声だったかもしれないが、僕の耳にはちゃんと届いていた。何となく北野の顔を盗み見ると、彼は爽やかな笑顔でクラスメイトと談笑中だった。
机の上に置かれていたノートを仕舞って、僕は音楽室に向かった。
「俺さ、ピアノ弾けるんだよ」
第二音楽室の防音扉の内、二枚目の扉を開けたときだ。僕と亮一のすぐ後ろを歩いていた一団の真ん中で、そんな声が聞こえた。
北野だ。
僕は耳を疑った。あいつが、ピアノを弾けるだって?
思わず後ろを振り返る。北野は自信に満ちた顔で、杉田たちと話していた。
もちろん彼は僕の密かな敵意など知る由も無い。アイドル並みの笑顔で、周りに愛想を振りまいていた。北野の様子を窺っていた僕と、目が合う。
「朝倉もピアノ、弾けるんだろ? 今年の合唱コンクールで、伴奏者賞をとったらしいじゃないか」
「あ、あはは。まぐれだよ、あんなの」
隣の亮一が、驚いたような顔で僕を見つめていた。
「それより北野、ピアノ弾けるんだろ? ……まだ休み時間あるからさ、一回弾いてみろよ」
杉田がそう言って、周りの男子たちが囃し立てる。
「いやぁ、僕もそこまで上手いわけじゃないんだ」
そう言って、北野は苦笑いしながら頭を掻いた。
ああ、僕は知っている。この顔を知っている。
これまで僕が音楽室を訪れる度に見せていた、あの顔だ。
自分が周りの人間より絶対に優れていることを知っていて見せる、あの顔だった。
「一回くらい、いいじゃないか」
「うん……そうだな」
北野は音楽室の前方に佇む一台のグランドピアノへ向かった。前まで僕が座っていた、あの場所へ向かった。
クラスの皆が、そわそわしている。そりゃあそうだ。格好良くて、今朝の体育では、リレーのアンカーを努めていた。勉強だって出来るらしく、その上ピアノが弾けるときた。……天は二物を、なんて誰が言ったんだか。
クラス中の視線を一身に集めながら、北野は椅子に座った。鍵盤蓋を開け、白黒のフィールドに視線を落とす。感触を確かめるように鍵盤を指でなぞると、彼はずっと浮かべていた軽薄な笑みを捨てた。
両手を鍵盤の上に乗せ、全ての動きを止める。教室の動きも思わず止まってしまうほど、その表情は真剣味に満ちていた。
その時、僕の中で鐘の音が聞こえた。それは北野を祝福する鐘だろうか、それとも僕に向けられた警鐘だろうか。
演奏前の静寂が、時を支配する。
もしこの世界に永遠が存在するのならば、それはこの瞬間を指すのだろう。
「スゥ……」
時が再び息を取り戻した。
力強いHの和音。左手の急な下降から始まり、ユニゾンで奏でられる怒涛のアルペジオへと繋がる。これは、ショパン作曲『革命のエチュード』の序奏だ。この曲は、主に左手の練習のために作曲された練習曲と言われている。その通り、左手のアルペジオが最後まで続く演奏は、奏者にとって相当厳しいものとなる。ショパンのエチュードの中では易しいと評価されているものの、誰にでも弾ける曲で無いことは確かだ。
右手の主題を高らかに歌いながら、左手は蜘蛛のように素早い動きを続ける。北野はそれを真剣な、それでも口の端に楽しそうな笑みを浮かべながら演奏して見せた。
全身を恐ろしい寒気が襲った。僕は思わず、耳を塞ぎそうになる。
体中を流れる血液が凍ってしまったように、体の底から生まれてくる冷たさが、体の機能全てを麻痺させた。それでも嫌味なことに音を拾う耳だけは健在で、次第に終わりへと近づく革命を、じっと律儀に聞き続けている。
二分間ほどの演奏が終わり、教室が再び静寂を取り戻した時。次第に元の感覚を取り戻していく僕の中には、恐怖にも似た感情がひしめいていた。
そして、クラス中の皆の拍手、歓声が教室を満たす。壁を打ち破りそうなほどの拍手の中心で、北野は笑っていた。その顔には、先刻までの笑みが取り戻されている。
「すっげーな」
隣で呆然と立っていた亮一が、そう言った。彼もまた、北野に驚きと羨望の眼差しを送る内の一人だった。胸の前で小さく拍手をしている。
「ああ、すごいな、あれは。……僕でもあんな演奏は無理だ」
「え?」
あはは。
僕は笑った。
果たして上手く笑えていたかどうかは、分からなかったけれど。
いつの間に着いたのだろうか、気付けば僕は駅のホームに立っていた。見慣れた寂れ具合の、場末の田舎駅。休日だというのに、ホームに僕以外の利用客の姿は無い。ホームを我が物顔で闊歩する鳩が、目の前を通り過ぎる。
暑さの所為だろうか、学校での記憶が幻覚のように鮮明に思い出されていた。ずっと耳について離れない、音楽室での『革命』。
僕は、人の耳目を集めることが生き甲斐だった。いつからだったかは思い出せない。だが気付いたときから、賞賛の言葉、尊敬の眼差し、それらを得ることに何よりもの快感を見出していた。頭は悪くない、走るのだって昔から速かった。今や陸上部のエースとなっている亮一にも、小さい頃はかけっこで連勝していた記憶だってある。
そして僕には、ピアノがあった。
二歳の頃から始めたと、母さんは言っていただろうか。ともかく気付いたら、僕はピアノを弾いていた。長く弾いているから上手い、というわけでもないだろうけれど、僕は小さいころからこつこつとピアノの腕を磨いていった。二年前のコンクールでは、全国大会の一歩手前まで駒を進めるほどに成長していた。
僕は自分のピアノという船にのって、大海原を航海する旅人だった。その航海、航跡こそが誇りであり、僕がピアノを弾く理由だった。だが、僕の乗っていた船は、数日前あえなく転覆してしまい、今はどこかの海を漂流中というわけ。
僕はホームに滑り込んできた電車に乗り込んだ。同じ車両に乗客の姿は無い。どこまでも寂れた駅だと思った。
空調の風で汗が一瞬にして吹き飛び、僕の気分は些か楽になった。しかし、この心を覆う黒い靄は、空調の風でも、真夏の太陽でも、取り払うことは出来ないだろう。
外の景色は相変わらずで、駅のロータリーから繋がる商店街と古い民家の後姿。商店街は数年前の活気とは縁を切ってしまったようで、今や開いている店よりもシャッターの下りている店の方が多く、シャッター銀座と化している。木造民家の壁はどれも黒く煤けていて、その間から垣間見える無造作に箱を積んだような新築の家も、何だか無愛想なオブジェクトのようだった。
こんな人の数万人しかいない町でも、僕は良かった。県コンクールで一位になれただけで、僕は満足だった。周りの人が、自分を認めてくれる。それが何よりも、嬉しかったんだ。
もちろん僕は知っていた。全国区の大会に出れば、僕より上手い人が掃いて捨てるほど居ることを。だから二年前の大会で全国大会に出られなくても、あまり悲しくはなかったのだ。僕の住む山に、関係の無いことだったから。
だけど、そんな別次元にも思える世界に住むピアノの名手が、僕の住む山にやってきたら?
僕は自分の小ささに、絶望することだろう。否、今まさに絶望の淵を見下ろしているところだ。
ぽっかりと口を開けた絶望もまた、僕のことを見つめているようだった。
僕は自分がピアノを弾く理由に気付くと同時に、それを失った。だから僕は、あのレッスン以来、自分からピアノに触れることは、ほとんど無くなっていた。居間の端に立っている木目のアップライトピアノは、居場所を無くした子供のように縮こまって見えた。
レッスンを受けた後の、初めての月曜日。あと十日間登校すれば、夏休みは訪れる。出来るだけ早く、その時が来てくれれば良いと思った。夏休み前の浮き立ったような空気が、僕は嫌いだ。それにコンクールに出るか出ないか、その判断を下さなければならないことも、僕の首を微かな、しかし止むことない力で締め付けていた。
「おはよう。今日は早いんだな」
「ああ、陸上の朝練があると思ってたんだが、勘違いで。お陰でやってなかった宿題が一つ終わっちまったよ」
「そりゃあ良かったじゃないか。僕だって毎日宿題を写されてばかりじゃ、面白くない」
僕は数学の予習でもしようと、今朝はいつもより早く家を出た。いつもなら登校する前に、指の運動をするはずだったが、今はピアノに近づくことさえ嫌だった。そうして出来た空白の時間を、僕はどう使えばいいのか分からなかった。
朝の光が照明の代わりを果たす教室にいた生徒は亮一だけで、僕は何となく安心した。
大げさにノートを閉じて、席に座った僕の方を、亮一は振り返った。
「和斗、最近調子悪いのか?」
「……いや、別に。どうして、そんなこと聞くのさ」
「そうか」
亮一は席を立った。いつも通りの大股で中庭に面する窓へ向かい、それっきり黙りこんでしまった。外を眺める彼の目には、何が映っているのだろうか。
「何見てんだ」
僕はその沈黙が恐くなって、亮一の方へ近づいた。彼の隣に並んで、僕も同じ方向に目をやる。青々と緑の茂る中庭と、体育倉庫、その向こうに真っ白なグラウンドが広がっていた。
「あれ? ……陸上部、練習してるんじゃないのか?」
「そうだ。練習してる」
光っているように見えるグラウンドの端っこで、陸上部顧問の萩原とユニフォーム姿の生徒が四人、何やら話をしている。
僕はその様子と、亮一の様子とを見比べて、勝手に合点した。
彼らは夏期大会の、リレー選抜選手なのだ。
僕はその四人の中に、見知った顔があることに気付いて、思わず言った。
「あれ、三組の川田じゃないのか?」
「そうだ。確かあいつは、二走だったかな。直線が得意なんだ」
他の三人は三年だろうけど、その中でも一年の川田は埋もれていなかった。四人で対等に並んで、顧問の話を真剣に聞いている。
僕が何か言おうか言うまいかと悩んでいると、先に言葉にしたのは亮一の方だった。
「俺、もう少しで川田を追い越せそうだったんだけど、最後の最後で負けちまった」
僕らは無言で、グラウンドを眺め続けた。彼らは四人で隊列を組むように並び、バトンパスの練習を始めた。バトンパスはリレーにおいて一番重要な部分だ。中学にいた頃は、あの練習だけで部活の時間を潰したこともあった。
ふと、僕の心の底から、一つの泡が浮かび上がってくる。真っ黒でどろどろした液体の奥底から上がってきたそれは、言葉となって僕の咽喉へとやって来た。いくらか舌の上で弄んでから、僕は意を決して聞いた。
聞くまでも無いことなのだろう。だけど、聞かずには居られない。
「亮一は、陸上をやめるのか?」
「……は? 何言ってんだ、和斗」
亮一は僕の突拍子の無い問いに、半笑いで答えた。
「やめるわけないだろう」
「そうだよな」
僕らは笑った。誰もいない広々とした教室に、二人の笑い声が跳ね回った。
「何で亮一は、走るんだ?」
「不思議なことを聞くんだな」
おはよう。そんな声を聞いて僕らが振り向くと、クラスメイトの杉橋が立っていた。文芸部に所属している、大人しい女生徒だ。確か彼女は、いつも誰より早く登校していた。朝から静かな教室で読書に耽っているところを、これまで何度か見かけたことがあった。
僕と亮一は杉橋が席に着くことを合図に、それぞれの席へ戻った。
「そりゃあ和斗、走るのが好きだからさ」
「それで、いいのか?」
「おう。それで、いいんだ」
亮一は、再び宿題の残りに取り掛かったようだった。
僕もノートを広げてみたものの、勉強などする気にはならなかった。右手に持ったままのシャープペンシルを回しながら、ずっと自分の席から見える青空を眺めていた。
その日の放課後、いつも通りさっさと着替えて部活に行った亮一に手を振って、僕も机の中身を鞄に放り込んでいた。ずっと学校に置いたままの辞書も、そろそろ持って帰った方が良いだろうか。そう思い手に持ったものの、何となく気が進まず、辞書を再び机の奥に仕舞いこむ。
放課後の教室を後にして、僕は廊下を歩いた。そこかしこの教室から騒がしさの欠片が溢れ出て、廊下の隅に落っこちている。僕はそれらから出来るだけ遠ざかるよう、窓際に寄った。
ふと、廊下を歩く足を止める。僕は目の前に佇む、大きな扉を見た。それは重厚な造りで、その向こうには同じ造りの扉がもう一枚あることを僕は知っている。第一音楽室だ。僕らが普段授業で使っていない方の音楽室で、考えてみると僕はこの部屋に入学してから一度も入ったことがなかった。
昇降口へ向いていた足を止めたのには、もちろん理由があった。
微かに聞こえたのだ。ピアノの音が。
僕はその音を聞いた時一瞬肩を強張らせたものの、その心配が杞憂であることを知った。二枚の扉の向こうから聞こえる演奏は、どう聞いても訓練された者のそれでは無かったからだ。利き手の人差し指だけで必死に鍵盤を追いかけている。そんな演奏。
僕は躊躇った後、その場を去った。階下へ続く階段を下りる靴音が、空虚な校舎に響いた。 何故だろうか。僕は先刻聞いた拙いきらきら星が忘れられなかった。どうしても、耳からこびりついて離れないのだ。すぐ近くでそれは演奏されるように、僕の耳へ届いた。
コツ、コツ。
下へ向かう足音が、ずっと響く。自分が、地の底まで続く階段を歩いているように思える。
僕はその演奏を聞いた時、心の中でほくそ笑んだ。下手だな。僕の方が何十倍、いや何千倍だって上手く弾ける。そう思って。
だけど、僕はその演奏に何かを感じた。
下手……だけど、拙さの中に垣間見える一生懸命で、楽しそうな音色。
こんな音を、僕はいつから忘れていただろう。
その演奏が、呼んでいるように感じたのは、僕の錯覚だろうか。願望だろうか。
僕は思わず、先日聞いた亮一の言葉を思い出した。
『夏は出会いの季節であると同時に、夏は変化の季節でもあると思うんだ』
階段を、一陣の風が昇ってくる。それは一人立ち止まった僕の髪を、服を、心を揺らした。そして風は、開いた窓からあの高い空へと昇っていく。その軌跡が、見えた気がした。
それだけで十分だった。
僕は風に導かれるままに、元来た階段を駆け上がった。その息のまま、音楽室へ向かう扉を、一枚、もう一枚。第二音楽室の扉とは、比べ物にならないほど軽く感じられた。
初めて訪れた第一音楽室は、見慣れた音楽室とそう造りに違いは無い。生徒用の席が並んで、前方にステージ。そしてそこにある、黒いグランドピアノ。
一本打法の弾き手は、一人の女生徒だった。驚いて見開かれた目は丸く、夕焼けを吸い込んで琥珀のように輝いている。口はポカンと開けられていて、バカっぽ――否、少々呆けた顔をしていた。全体的に小ぢんまりとした印象を与える少女で、しかし制服の左胸にある刺繍は、彼女が僕と同学年であることを示している。
「えーっと……」
彼女は空中に言葉を捜すように、目を泳がせた。
「こ、こんにちは」
言葉捜索の結果出てきた言葉はそれだけらしく、彼女はそう言って頭を下げた。短めの髪が、肩をくすぐるように揺れた。
「ああ、えっと……こんにちは」
半ば緊張の渦に引き込まれようとしていた僕は、しどろもどろになりながら言葉を返す。だが彼女同様、挨拶に継ぐ言葉はついぞ見つからず、僕も視線を泳がせる。西の空がメープルシロップを流したみたいに、黄金色に輝いていた。
先に口を開いたのは、彼女の方だった。
「あの、ピアノ聞いてたんですか?」
メープルシロップの観察を続けながら、応える。
「聞こえてたよ」
僕はこんなに、人と話すのが苦手だっただろうか。
「そ、そうですか」
彼女は恥ずかしそうに俯いて、それっきり壊れた機械のように動かなくなった。沈黙に耐えかねた僕は、何とか言葉を絞りだす。
「きらきら星を、弾こうとしていたのか?」
彼女は僕の方を見て、しどけない表情でこくんと頷いた。
「弾いてあげようか?」
僕はつい口に出してしまったことを、酷く後悔した。
今の僕に、自分が満足できる演奏は出来ない。どうしても、あの時聞いた北野の演奏が、脳裏に思い起こされるからだ。僕に、あんな演奏は出来ない。
僕はどうやって「やっぱ、やめた」と言おうか画策した。が、時は既に遅かったようだ。
「お願いします!」
こちらを見返す彼女の目には、琥珀色の輝きが取り戻されていた。幼い少女のような瞳の光が、僕の退路をじわじわと削り取っていく。
僕は北野の演奏を振り払うように頭を振ると、ピアノの方へ一つ踏み出した。
「そういえばあなた、サクラ君だよね?」
「サクラ?」
「今年の合唱コンクールで、伴奏者賞を取っていた人」
朝倉とサクラを、彼女は勘違いしているらしかった。どこで何を聞き間違えたのだろうか。
僕はピアノの前に用意された椅子の高さを調節し、ペダルを全て踏み込む。
「もう、弾くつもりはなかったんだ」
「ピアノのこと?」
「そう。これを弾く意味が、分からなくなってね。だからこれが、最後の演奏だ」
ピアノの前に座ると、もう口の筋肉は僕の意識外に置いていかれる。全ての神経を、指、手、腕、そして耳へと集中させた。彼女も雰囲気の微妙な変化を感じたのか、それ以上は何も言ってこなかった。
鍵盤上に指を乗せ、一瞬の永遠を心行くまで堪能した後、演奏は始まる。
誰もが一度は耳にしたことがあるだろう曲、きらきら星。その起源は十八世紀のフランスに遡る。きらきら星の原曲は、当時フランスで流行したシャンソンである。それを英訳したものが、今日に歌われるきらきら星という童謡なのだ。シャンソンとしての原題は「お母さん、あなたに言いましょう」だっただろうか。曲名からも分かる通り、童謡としてのきらきら星とは似ても似つかない内容となっている。
だが僕が今演奏している曲は、シャンソンでも童謡でも無い。モーツァルト作曲「きらきら星変奏曲」。シャンソンの主題とその十二の変奏によって構成される、有名な曲だ。モーツァルト特有の華々しさや美しさ、そして繊細な旋律。それらが全て凝縮された一曲だと言っても過言ではない。事実、作曲されてから二百年以上が経過した今でも、この曲は世界の至る所で演奏されている。曲の最初に現れる、誰もが知っているきらきら星。その主題を十二にも姿を変えて聴衆へと届ける、その技術には脱帽せざるを得ない。だが僕が今しなくてはいけないことは、帽子を脱ぐことではなく、演奏すること。届ける側に立つことだ。
僕が演奏している間、隣に立つ彼女は目をじっと瞑って音を聞いているようだった。たった一人の聴き手である彼女が終始快さげな笑みを湛えていることは、演奏者の心に安息をもたらした。
僕は先刻まで意識を費やしてきた諸々のことを全て放り出して、演奏に集中した。音が光の粒となって、辺りを跳ね回っているように見えた。
終わりの和音へ向かう坂を走りぬけ、最後の音に全ての意識を注ぎ込む。余韻が消えるまで、演奏は終わらない。否、或いはこの余韻こそが演奏の真髄と言えるのかも知れなかった。
その余韻に心酔する僕の中で、肩を落とす僕がいた。
今の演奏は、理想とは程遠い。直さなくてはいけないパートは沢山あったし、全体的に荒い演奏だった。真面目に弾くのは五年振りではあったものの、そんな言い訳に逃げるのは恥ずべきことであると思う。少なくとも、自分が納得できる演奏ではなかったことは確かだった。
しかし弾き手である僕の感想に反して、僕の傍からは拍手が聞こえてきた。
「……すごい」
目をぱちくりと見開いている彼女の感想は、それだけのようだった。しかし、小さくて控えめだがずっと鳴り止まない拍手が、言葉以上のことを語っているように思えた。
「あ、ありがとう」
僕は一人演奏に没頭し、その上自分に文句を言っている自分が気恥ずかしく感じられて、そそくさと椅子を離れた。彼女は未だ、拍手をやめようとしない。
「もう、やめてくれよ」
「あ、ごめん。……でも本当に、凄かった」
僕の中で、何かが跳ねた。
それは先刻の音の粒の欠片かもしれなかったし、ただの心臓の鼓動かも知れなかった。
僕は突然、何処からかやってきた恥ずかしさに襲われた。きっと顔は紅潮していたけれど、分からない。夕日が消してくれる。
「何だか、懐かしい……」
ここじゃない別の何処かを見るような目で、彼女は呟いた。と、何かを思い出したように、はっとこちらを向く。僕はじっとに向けていた視線を教室の隅に逃がした。
「ねえ、サクラ君――」
ああ、そうだ。僕は大事なことを思い出した。
「僕、サクラじゃない」
「え?」
「僕の名前は、朝倉だ。朝倉和斗」
彼女は最初会ったときのような顔に一瞬戻った後、両手で口を押さえた。
「あれ、ゴメンナサイ」
朝倉君か。
静かすぎる音楽室の中では、彼女の小さな呟きもしっかり僕の耳へ届いた。
「私はね、萩野志穂って言うの」
よろしく。そう言って、彼女は右手を差し出した。
握手をしようということだろうか。僕は彼女の顔を見、もう一度手を見てから手を差し出した。
「ああ、よろしく」
彼女は僕の手を握った。
彼女の手は小さくて温かくて、力を入れれば粉々になってしまうくらいに、柔らかかった。
「あ、あの、またピアノ聞かせてくれないかな?」
僕は予期せぬ言葉に、一瞬たじろぐ。
「あ、先刻最後だって、言ってたっけ。ごめんなさい」
僕は、何を感じたのか。自分でも分からない。ただ、僕は笑っていた。
「いや、いいんだ。……弾くよ」
彼女も微かにはにかんで、小さく礼をした。
「ありがとう」
チャイムが、校舎に響く。もう既に人が居らず校舎が空いているからだろうか、放課後のチャイムは、寂莫とした響きを伴っている。
「あ、私もう帰らなくちゃ。カナが待ってる」
酷く急いでいるらしく、彼女はチャイムの音が鳴り終わらないうちに音楽室を後にした。僕は萩野の手の感触が残る自分の手に、目を落とした。だが、気恥ずかしさを覚え、無造作にポケットに手を突っ込んだ。鍵盤蓋を閉め、椅子を元の位置に戻す。音楽室をくるりと見回した後、僕も音楽室を後にした。がらんとした廊下を歩き、先刻降りかけた階段を、今度は階下まで降りる。地の果てまで続くように思えた階段も、今はどこか優しげな雰囲気を持ってそこにあるようで、僕の足取りは自然と軽くなっていた。
僕は家に帰ると、久しぶりにピアノに触れた。埃を掃ってやると、僕のピアノは待ち望んでいたように輝いた。彼――ピアノに性別があるならば、僕のピアノは絶対に男だ――は、僕のことを忘れてはいないようで、僕の拙い演奏に合わせて、一生懸命歌ってくれた。
北野と出会った夜、僕は一心不乱にピアノを弾いていた。狂ったように、彼の弾いた曲を弾き続けた。僕がもう一度、彼のことを超えてやろうと。だがその末に得られたのは、今までにない前腕の痛みと倦怠感、あとは母親の「うるさい」という怒号だけ。練習を始める前よりも自分が小さくなってしまった気がして、それ以来ピアノから遠ざかるようになった。弾く理由が無くなった、と言った方が正しかったかもしれない。
だが、今はどうだろうか。きらきら星変奏曲を皮切りに、自分がこれまでに弾いてきた曲を、僕は思いつく限り弾いていた。小学生の頃に弾いた曲でさえ、昨日まで練習していた曲のように弾けることに、我ながら驚いた。
これまで知りもしなかった何かが、僕のことを奮い立たせていることに気付く。それは北野を意識して弾いていた時とは、間逆の原動力。この力ならば、僕はピアノを弾き続けていられる。何の根拠もなかったけれど、そう思った。
僕と萩野はそれから毎日、放課後のささやかな音楽会を楽しんだ。夏休み前で放課後の部活動が休みになることが多く、運が味方してくれたのか放課後の音楽室は無人であることが多かった。
萩野は僕のピアノを飽きることなく聞いてくれる、ただ一人の聴き手だった。僕が楽しい曲を弾けば楽しそうに笑ってくれたし、悲しい曲を弾けば、何となく悲しそうな顔をしていて、弾いている僕が申し訳ない気持ちに駆られることもあった。
そういえば、彼女は時々僕の名前を、未だサクラと呼び間違えることがあるけれど、何故だろうか。僕はそれを、不思議に思っていた。しかし最近はもうそんなことも少なくなっている。彼女が僕の名前を呼ぶたびに、くすぐったいような気持ちになるんだ。
そしていつも、彼女はじっと僕の演奏を聞いていて、その最後に
「ありがとう」
と、小さく礼をする。
その時、僕はいつも自覚させられた。
僕は今、この人の為にピアノを弾いているんだ。
それは放課後の音楽会たった一人の聴き手が教えてくれた、僕にとって何より大切なことだった。
金曜日の終業式まで、あと三日。薄皮一枚隔てたそこで、夏休みは大口を開けて僕らを待っていた。じきに僕も、その口に飲み込まれることだろう。今年は、痛いだろうか。
その日の放課後、例によって僕が音楽室で演奏を終えると、彼女は小さく礼を言った。今日は中学生のときに弾いた『金婚式』を演奏した。今日までの演奏を通して知ったことだが、存外萩野は音楽――特にクラシックピアノについての造詣が深かった。金婚式を知っていたのは頷けるにしても、その作曲家の名前まで知っているとは、僕も心底驚かされた。
「ねえ、朝倉君。一つ、お願いがあるんだけど」
僕は鍵盤蓋を閉じながら、萩野の方を見た。
「サマータイム、って知ってる?」
「ガーシュウィンのアリアだったか?」
「うん。それを弾いてくれないかな、と思って」
「……ジャズを弾いたことない僕でも良ければ」
僕の言い方が、余りに情けなかったのだろうか、萩野はくすぐられたように笑った。
「うん。大丈夫。……どうしても、あの曲が聞きたくて」
萩野はそう言って、何かを探すように窓の外を見た。つられて僕も、そちらに目を向ける。
僕らが見上げた窓の外には、夏の色を宿した空が広がっていた。最近は、日が落ちるのもすっかり遅くなってしまっている。
僕は例によって急いで帰る萩野と音楽室の前で別れた後、制服のまま早速近くの楽器店に訪れ、目当ての楽譜を探した。ジャズの棚には近づいたことが無かったから分かり辛かったものの、サマータイムはジャズのスタンダード・ナンバーで、目当てのそれは案外簡単に見つかった。
軽い気持ちで楽譜を捲った僕を、眩暈が襲った。それほど、理解し難い音楽が、記号となってこの楽譜に書き込まれていたのだ。
音符を追って頭の中で演奏を想像してみても、両手は奇々怪々な動きをしていておよそ自分に弾ける曲だとは思えなかった。家に帰るとすぐさまピアノの椅子に座り、楽譜を広げる。だが、僕の想像は間違っていないことに気付かされる。
右手と左手のリンクが、何よりも難しい。一見単純そうに見えて、その実難しいのだから、性質が悪かった。一ページ目を弾き終えることすら叶わず、とうとう僕はそのまま床に寝転んだ。暑さにとろけそうな体を奮い立たせ、僕は動画サイトに件の曲名を打ち込む。出てきたのは黒人の男の演奏だった。冷たい麦茶を携え、楽譜に視線を落とす。ヘッドフォンから流れる音楽に、何より心を注いだ。
「……無理じゃね?」
僕の十年越し熟成のクラシック脳は、簡単にその音楽を受け入れられなかった。想像通り、拍子は途中で複雑な糸のように絡まってしまうし、右手と左手がそれぞれ別の生き物のように――それも地球外生命体みたい――動いていることも信じられなかった。自分のクラシック脳を塗り替えることは容易ではなかったものの、僕は何十回と曲を再生する内に少しずつ曲の輪郭を掴んでいった。理解出来なかった指使いも少し我流に直して弾けるようにした。拍子だって、体全体で感じられるようになった。クラシックよりもジャズは弾き手の「感覚」を重視する。プロのクラシックピアニストでも、ジャズを弾けないひとは少なくないだろうと思う。
僕が見つけた一つの真理。
ジャズにおいて一番大切なのは、ノリだ。
僕はそれから練習に勤しんで、ジャズのリズム感覚を体得していった。片手ずつの練習を山のように繰り返し、両手を合わせる。途中で演奏が途切れてしまうなら、片手の練習からやり直し。
そんな練習を、飽くことなく続けた。一日、一日と目に見えて腕が上がっていく。その成果もあってか、いつのまにか自分でも楽しめるくらいの演奏が出来るようになっていて、そうなれば自分のもの。楽譜に書かれた黒丸たちを、僕の好きなように変形させてしまえばいい。
これなら萩野も満足してくれるだろうか。
いつまでも、僕はピアノに向かい続けた。
今までの僕とは全く違う誰かが、自分の中にいるようだった。
そいつはピアノが上手ではない。だけど何より、誰かの為を思って演奏することが出来る。自分の為ではない、名誉の為でもない。ただ、脳裏に浮かぶ人の為に、何時間だって練習を続けることが出来る。そんなヤツだ。
そんなヤツとなら、僕は良い友達になれそうだ。
彼女との約束の日が訪れた。終業式の前日、木曜日。僕は一抹の不安と沢山の自信を備え、授業中もノートの上で練習を続ける。人生の中で、一番放課後までの時間が短かったのは、多分今日だ。
既に放課後に入ったというのに、夏の日差しは衰えることを知らないようだった。真っ昼間のような強い日差しが窓越しに肌を刺すようだったし、外の景色は金色のフィルターを通しているかのように輝いていた。近くの松林からは蝉の声が絶えず聞こえている。しかし学校の空気は外とは完全に隔絶されていて、校舎に蔓延する空気は放課後のそれだった。過ぎ行く教室から聞こえるのは生徒の談笑する声だったが、休み時間のそれとは違う。終わりかけの騒がしさ。
後ろを一度振り返り、誰もいないことを確認する。一時の至福を誰かに邪魔なんかされたら最悪だ。僕は自分が忍者になったように音楽室の扉を薄く開け、二枚目の扉との間に入る。その空間の左側には音楽準備室があって、そこは様々な楽器の保管庫になっている。二枚目の扉は、普通に開けた。
いつもは僕より先にあるはずの後姿が、今日は無かった。奥へ歩いていっても、ピアノの陰に隠れているわけでもない人は、出てくるはずもなく。
僕は突如生まれた空白の時間に弄ばれ、仕方なく空を眺めていた。
僕は空が好きだ。いつでもそこに変わらずあって、僕らのことを見下ろしている。泣きたいときも怒っているときも、全く態度を変えない。自然なのだから当然と言えば当然だが、それが如何にありがたいことか、僕は時々自覚させられる。
窓を開けると、夏の匂いが僕の顔に吹き付けた。風は僕の髪を揺らして、後方へ過ぎ去っていく。自分に纏わりつく暑さや気だるさや、メンドクサイものを、全て吹き飛ばしてくれるような風だった。
軽くジャンプすれば、あの空の果てにだって手が届く気がした。
僕は音楽室の扉が開く音に呼ばれ、そちらを向く。だが僕の待っていた人はそこに居らず、扉の向こうから顔を覗かせるのは、軽薄な笑みを貼り付けた北野肇だった。
無意識の内に自分の神経が尖っていくのを感じた。鋭利な刃物の切っ先よりも鋭く、それは僕の肌を刺した。先刻は肌を撫ぜるようだった風に突然冷たさを感じ、僕は窓をそっと閉める。
北野は後ろ手に扉を閉め、こちらに数歩向かってくる。
用意された台詞を読み上げるように、何の淀みもなく言った。
「俺さ、朝倉のことを見たことがあると、思ってた」
「……僕もだ」
声の出し方を忘れてしまったように、微かな声で僕は言った。北野には聞こえただろうか。
「ずっと考えてたんだけど、昨日思い出したんだよ。……朝倉、二年前の学生コンクールで西日本大会に出場してたよな」
僕は北野の言葉に導かれるように、記憶の糸を手繰っていた。すると、僕の記憶、北野の言葉が間違っていないことに気付いた。
僕はやはり、以前北野に会ったことがあったのだ。二年前の、コンクールの舞台で。
「あの時、朝倉はどうだったんだ、成績?」
「西日本大会で、奨励賞だった」
「ふぅん。……俺、あの時全国大会で三位になったんだ」
北野の目は、意地悪い弧を描いていた。この時ばかりは彼のアイドル並みの顔も、悪魔が創った仮面のように見える。
僕は、出来るだけ自分の心を悟られないように努めた。
「へえ、おめでとう」
それが今の僕に出来る、最大限の反撃だった。
「それで、何で北野はこんな場所にいるんだ?」
「文化委員の備品チェックさ。第一音楽室担当で、何日か前から毎日、放課後に音楽準備室で備品点検をしていた。……放課後の音楽会も、聞こえてたぜ」
迂闊だった。
「そ、そうか」
僕は心底迷った。萩野との約束の場所は、この音楽室。この場所から逃げ出すことは、今の自分には出来なかった。しかし一刻も早くこの場所から立ち去りたいと切願する自分もいる。
沈黙が、僕らのことを心配そうに見守っていた。いつ自分が破られるものかと、静かながらもそわそわした空気を感じる。
僕は一度、相手に気付かれないように深呼吸をした。どうしようも無い寒気はやはり去ってくれなかったが、僕の心に幾ばくかの安息を呼び込むことは出来た。すると、そうして出来た心の隙間に、温かいものが流れ込むのを感じた。それは体の中心から全身に広がって、自分の気を静めてくれる。それは僕が最近手に入れた「新しい何か」だった。
ああ、そうか。僕はもう、大丈夫なんだ。
「何故北野は、ピアノを弾くんだ?」
突然、僕が発した台詞に、北野は戸惑ったらしい。床に落ちる彼の影が、少しだけたじろいだ。
「そんなこと、朝倉に関係があるのか?」
「割と」
北野は、僕の態度に何を感じたのだろうか。そして僕は、北野の態度に何を感じたのだろうか。どちらも僕には分からなかったが、ただ自分を先刻まで襲っていた寒気が、いつの間にかなくなっていることには気付いた。
答えを探すように、視線を彷徨わせた後、北野は言った。
「人に、勝つためだろう。ピアノは俺にとって、頂点へ向かうための道だ」
「そうか」
僕は北野の目を見返して、頷いた。
僕が思いこんでいたほど、北野という男は悪いヤツじゃなかったらしい。真っ直ぐにこちらを見据える彼の目の奥には、僕の持っていない輝きがあることに、気付かされた。
「朝倉も、そうなんじゃないのか。……分かるだろ」
「――いや、分からない。どうやら忘れちまったみたいだ」
僕は、自分の底から湧き上がって来る笑いを、止めることが出来なかった。
急に笑い出した僕を、怪訝そうな目で見ていた北野。だがずっと笑い続ける僕を見て、肩の力が抜けたのだろうか、彼も可笑しそうに小さく笑っていた。
「革命のエチュード、次のコンクールの課題曲だろ」
「そうだ。割と簡単だが、この曲は奥が深い」
「……がんばれよ」
北野は驚いた様子で、目を見開いていた。北野もまた、僕のことを勘違いしていたらしい。いや、勘違いではない。彼の認識は恐らく、正しかったはずだ。
しかし僕は、変わってしまった。全ては、この季節の所為だ。僕だって、変わらずにはいられなかったのだ。
「おう。……それじゃあな」
再び静寂を取り戻した音楽室は、いつも通り暑かった。この場所が世界で一番暑いのではないかと思えるくらいに、暑かった。
そうだ、全部の窓を開けてやろう。教室中の窓を開け放てば、きっと気持ちが良い。
「お疲れ様です」
「あれ? ……萩野、見てたのか?」
「聞いてた、だけどね。音楽会盗聴の仕返しだよ」
音楽室の扉が、ゆっくりと開けられ、今度こそ僕の待っていた人が姿を現した。ちんまりとした彼女には、音楽室の扉を開けることさえ重労働になるのでは、と思える。
「北野君、ピアノ上手なの?」
「ああ。僕よりも、ずっとね」
これが、変わるということなんだろうか。
「そう。……それで、サマータイムは弾けるようになった?」
「ジャズは難しい。僕なんかには、到底手の届かない場所にある音楽だ」
これが変わるということならば、それは存外悪いことでもないようだった。
「そんなことない。朝倉君だって、私から見れば随分と高い場所にいる人なんだから」
僕は彼女の言葉に応えあぐね、苦笑しながらピアノへと向かった。萩野もそれ以上何も言わず、窓際の机に腰を掛け、窓の外を眺めていた。
僕は鍵盤に、手をかけた。
雨降りの日曜日。ソファに深々と体を沈めて、窓の外を眺める。そんな光景を思い浮かべるような曲。世界が灰色の海に沈んでしまったような、不思議な感覚に陥る。軽く、しかし悲しい、そんなメロディの所為だろうか。
僕は、夏を奏でていた。
この時だけは、いつまでもこの夏が続けば良いと思った。暑くて、蝉の声がうるさくて、太陽が狂ったように光を撒き散らす。そんな夏が、いつまでも続いてくれたら、良いのに。
最後の音が、風に吹かれて空気に溶ける。寂しそうな響きを湛えて去っていたその音を見送って、僕は鍵盤から指を離した。
「萩野、どうだっ――」
最後の言葉が、続かなかった。時が止まってしまったかのように微動だにしない彼女の頬を、一筋の涙が伝っていたからだ。目尻から頬を伝い、ぽたりと落ちた一滴。濃紺の制服に染みて、それはすぐに見えなくなった。
僕は生き方をど忘れした魚のように口を開けたり閉めたりした。我ながら滑稽な男だと思ったけれど、僕はこんなときどうするのか知らなかったのだ。思考回路は熱を帯びていて、自分の体を満足に動かすことさえ出来なかった。
言葉にならない僕の声を聞いたのか、萩野は机からさっと立ち上がってこちらを向いた。いつの間にか頬の跡は消えていて、萩野はいつもの柔らかい笑みを湛えているだけだった。
「どうしたの?」
「え、ああ。……いや、何でもない」
僕は今、何を見ていたのだろうか。思わず目を擦って見たものの、見えるものが変わることはなかった。
僕は話の接ぎ穂を失って、その場に立ち尽くしていた。遠くから聞こえる蜩の鳴き声が、やけに大きく僕の耳に響いていた。
「帰ろうか」
「そうだな。日も、そろそろ落ちそうだ」
僕の言葉に反抗するように、太陽はまだ白い光を放っている。何としても沈みたくないと、見えない腕で空にしがみ付いているみたいだった。
僕らは揃って、音楽室を後にした。思い返してみれば、こうして二人で校門に向かうのは、初めてだったかもしれない。静かな校舎に、二人の靴音が響いた。それが何故だか無性に嬉しくて、萩野の靴音に自分の靴音を重ねて、昇降口まで歩いた。
部活が終わるには早く、授業が終わったのは随分前と中途半端な時間だったため、僕らの他に学校前の道を歩く生徒は一人も居なかった。しかし帰宅途中であるらしい車の隊列が、隣の幹線道路を満たしている。その騒がしさが、初めて二人で歩く僕らの隙間を埋めてくれる気がして、この時ばかりはありがたく感じられた。過積載だと思えるほどの土砂を積んだトラックの後姿を眺めていると、不意に萩野が言った。
「あの曲ね、お母さんがよく弾いてくれたんだ」
「サマータイム?」
「そう」
僕らは大通りをはずれ、静かな住宅街の間を歩いていた。道路の脇を川が流れていて、この季節は蚊柱が多い道だった。
「きらきら星も、よく弾いてくれたの」
僕は無意識のまま自分の家への道を歩いていたが、ずっと萩野は隣を歩いていた。大通りを歩いていた先刻は気にならなかった沈黙が、今は妙にぎこちなく二人の間を行ったり来たりしていた。立ち並ぶ民家たちが、無言で歩く僕らをずっと見つめているように思える。
「萩野、家はどこなんだ?」
ようやく聞けたその問いに対して萩野が答えた場所は、僕の家からさして遠くない場所で、それはこの町に支社を持つ大手紡績会社の社宅だった。
「お父さんが働いてるのか?」
「うん。小さな部屋だけど、一人だと随分大きいよ」
「……一人?」
僕は彼女の言葉の端に見つけたささくれを、思わず聞き返してしまった。しまったと思ったけれど、対する彼女は決まりの悪そうな顔をしているわけでもなく、ただ少しだけ、寂しそうに笑っていた。
「私、お母さんいないんだ」
萩野は小さい子が小石を蹴飛ばしているように歩いていた。僕もその速さに合わせるように、いつもよりゆっくりと歩いた。
「私が小学生の頃、心臓病で亡くなったの。私と妹に、よくピアノを聞かせてくれたんだ。そのお陰かな、マリーの金婚式を知っていたのも。……それで、私が中学生になるころ」
萩野は言葉を切った。
「妹が、お母さんと同じ病気だって分かったの。遺伝なんだって」
彼女は自分で自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を繋げた。僕はただ聞いていることしか出来なくて、少し俯いたまま歩いていた。
「それで二年前、この町にある病院に移ると良いよ、って担当のお医者さんに勧めてもらって、一家で引っ越してきたんだ。それで今お父さんは毎日忙しくて、殆ど家にいないし、妹――香奈子って言うんだけどね、カナはずっと入院中」
「……そうなんだ」
僕はそれ以上のことを言ってはいけない気がして、口を噤んだ。
僕なんかに思いつく言葉では、多分何も彼女に伝えることは出来ないことに、僕は気付いた。
つい最近まで北野や自分のことで悩んでいた自分が、酷くちっぽけなものに思えてきて、申し訳ないような情けないような、恥ずかしい気持ちに陥った。
「そういえば、他の人にこんなことを話すの、初めてかも。……あまり私、友達いなくって」
自嘲気味に笑う萩野に何か声を掛けようと思った。だけど声にならない気持ちが先走るばかりで、結局は何も言うことが出来ない。話すことも、何か行動を起こすことも出来ない。ただただ、僕は静かに歩き続けていた。
僕は、どうすれば良い?
色々な思いが、自分の中を飛び交うのを感じた。朝倉和斗という男が、複数人に分かれてしまったかのように、心の中で様々な声がする。
僕が何も言わない内に、僕は自分が家に近い場所にいることに気付いた。目の前にある丁字路を左に曲がれば、家の庭から張り出した松の木が、僕のことを出迎えてくれる。先刻萩野から聞いた場所を思い出すと、彼女はここを右に曲がるはずだった。
何か言わなければ。そんな気持ちだけが先走って、逆に口はどんどん堅く閉ざされていく。僕は、自分のことを呪った。大事なトコロが、何も変わっちゃいない。
「私、こっちだから」
「ああ、うん」
「今まで、ありがとう。私の我が儘に付き合ってくれて。朝倉君のピアノ、お母さんの音に似てて。あのね……私のお母さんの名前『さくら』って言うんだ」
「そうだったのか」
「だけど今は、サクラ君よりも、朝倉君のピアノが好きですよ」
「そりゃあ……どうも」
まだ空気は紅に染まりきっていなかった。彼女は、僕がゆでだこみたいに赤くなっていることに、気付いただろうか。
「朝倉君の音楽会に呼んでもらえて、光栄です」
そう言うと萩野は、小さく手を振って行ってしまった。
僕も無意識の内に、手を振り返す。
彼女は右へ、僕は左へ。それぞれの進む方向へと、歩き始める。
だけど、このままじゃダメだろう。
僕は数歩歩いたところで、思わず後ろを振り返った。淡い期待を胸に抱いて。すると、誰が彼女のことを呼んだのだろうか、萩野もまたこちらを振り返っていた。
僕は、大きな声で言った。
「また僕のピアノ、聴いてくれますか?」
花が咲くように、彼女は笑った。遠くに居たって、はっきりと分かる。
「はい。喜んで」
僕の、僕らの夏が、始まった。
……そうだ。大森先生にも、連絡をしなくちゃね。
最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。
書評など、暇だったらよろしくお願いします。