人間以外の動物
先の初めての海外出張の話だけでなく、「人の評価・値打ち」と言われる事がある。これは経験豊かな人格の意味だろうか、強い意志がある事か、人生に高い目標を持つ事かーーー? 改めて問われると「人の値打ち」とは曖昧な言い方で、あたかも哲学の命題になりそうだ。
けれども、筆者に言わせれば単純な事で「数字を知っているかどうか」が人の値打ちではないか、と考えている。決して突飛な考えではなく、先の通り人が数字によって生活し、数字を源泉にして思考・思索している点に気が付けば、人の人格や評価がそれを基盤にして成り立っていると考えるのは自然ではなかろうか。
政治家でも同じ。福祉に力を入れますと単に大声でわめく演説より、現在XXX億円のAの福祉予算ですが、これは予算全体のたった10%なんですよ。重要性からしてせめてxx%にしてxxx億円にすべきですよねーーー、と訴える議員の方が説得力がある。数字を挙げる方が心理として「偉く見え・実行力があり・人格がある」ように、見える。
お金を掛けることなく、人物の評価と値打ちを上げる例だ。
先にヤスリの硬さが65(=HRc65)と言ったが、材料別の硬度を飛び飛びに覚えておけば、取引先と話をしたりするときに役に立つ。「その部品の硬度は高すぎやしないかい、Aの凹み部分から割れないかな」などの意見が「即座に」言える。数字が頭の隅にあるからこその一種の思考だ。
「この人、ヨタヨタ老人のくせに高度な知識があるーーー、お主出来るな」と錯覚して、尊敬してくれる。それが錯覚だとしても「人の評価・値打ち」とは、そういうものではないのかな。
筆者の実体験として、覚えていた数字の知識が新しい製品を開発するのに、とても役立ったのは確かだ。摩擦係数の関係で上手く行かなかった時に悩んで、ギザギザ(摩擦係数が大きい)したヤスリを思い出し、同時に(覚えている)硬度に思い至り、機械部品の焼入れ硬度をHRc48に決定して試作したのである。硬度だけでなく頭の中に保存している様々な数字の記憶は、新製品の開発速度を(数字に無知な場合よりも)「劇的に速めて」くれた。
人間以外の動物も、(人と同じように)喜びや悲しみを感じているようだ。けれども人間だけが数字を知っている。そこに人間の意味があるのではなかろうか? 人は案外とこの自覚が薄い。




