退屈に苦しむ
老後に充実した日々を与えられたというだけで、起業をしてよかったと思う。好きな仕事が今でも毎日あるからだ。ひょっとしたら、人生への最大のプレゼントは起業家になった事かと思う。仮に出世して大企業の社長や重役になったとしても、定年からは逃れられず、遅かれ早かれ追い出されてしまう事を思えば。
七十代は休むとか休暇を取ることは、殆ど無かった。土日は勿論、盆暮れも正月も休まなかったから無休だった。幸いにして病で伏せる事も無かった。これは八十の今も継続している。若い人から見れば、ワーカーホリック(仕事中毒)として、一見不幸に見えるかもしれない。
けれども、これも歳になってみないと分からない事の一つではあった:休もう・リラクスしよう・気分転換しよう・休暇しようーーーと多くの人は言う。やれ温泉地へ行こう、海外旅行だとなる。けれども(仮にそれだけのお金があるとしても)隙間なく年中温泉に浸かっているわけにもゆくまいて。
となるとーーー、深く考えたがらない人は多いが、「休む」とは果たして「何をする事」だろうか? いや、「何もしない事」なのか?
バス停でバスをたった五分間待つ間でさえ、人は「何もする事が無くて」退屈する。仕方なく手持ちがあれば新聞を読むし、スマホをいじったりする。偶然降って湧いた五分間に休めばいいし、リラックスしてもよいのにーーー人は休みたがらない。
「光陰矢の如し・時間は貴重」と言うくせに、人は何故「退屈に苦しむ」のだろう? この疑問を、考えた事がありましょうや?




