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異次元の世界

20.異次元の世界


 魔女だから、頭の後ろにも眼がある。足音の消えた後方に異変を感じた女は、直ぐに振り向いた。暫く立ち止まって木立を透かしてこっちを見ていたが、やがて傍まで後戻りして来て、私の顔を訝しげに眺めた。顔は蒼白だったに違いない。

「あと どれくらい?」 

 同じ言葉を私は十数回以上も繰り返していたが、これが本当に最後の最後の問い。


「もう少しーーー」

「ーーーー」

「ジュースを上げる」 魔女は同じ手を再度使った。ジュースを呑ませてから血を吸う積りだ。

「ーーーー」 こっちは人間だから、もう騙されはしない。


脚が棒のようで、本当に動けなかったのだ。視野が狭まばり、辺りが夜の闇のように暗く感じた。そんな意識の中で、木立の中に薄白く佇む女の姿がはっとする程綺麗だった。一層近くへ寄って来た女は私の目を覗き込み、生きているかどうか確かめた。間近に見る濡れた黒いひとみは、何の感情も宿しておらず、山の中の静かな湖面を思わせた。


 幼児の手を引くみたいに、いや、脈を採って生死を確かめるみたいに、女は黙って私の片手を取り上げた。そのまま顔を凝視した。笑わない女の顔には、息の乱れも汗の跡すら無かった。山の気が満ちた神秘的な空間に、磨いたように美しい顔を間近に見て、怖くはなかったが、それが人間とは思えなかった。周囲の深い静寂が私を圧迫し、幻想と現実世界の境目がはっきり区別を付けられない。震える気持を抑えて懸命にかすれた声を上げた: 

「遅くなりそうだからーーー、ここで、もう帰るよーーー。道を戻れなくなるといけないからーーー」


 女は私の手を取ったまま黙って顔を眺めた。男の子の憔悴した青白い顔の中に、表向きの言葉とは別に、何かを恐れる怯えの色を見て取った。無理と判ったらしい、ついに女は私を引き止めようとはしなかった。


恐怖に駆られた私は、後も見ずに元来た道を転がるように駆け下って行った。気を変えた女が直ぐ後ろを追って来て、冷たい手で今にも首筋を掴まれそうな気がした。怖かった。走りながら、背中に冷たい汗が流れ続けた。疲労困憊していた筈なのに、跳ぶような速さと勢いで元の登山口まで戻れたのが不思議である。よく転んで怪我をしなかったものだ。もはや女との結婚は諦めるしか無かった。魔女と結婚は出来ない。


 普段と様子が違い、青い顔をして遅目に帰宅した私に、母親が理由を尋ねたかどうか、私がどう言い訳をしたか、覚えていない。完膚無きまでに打ちのめされた私は、訊かれても決して本当の事を言わなかったのだけは確かである。もし本当の事を言えば、どんなタタリがあるかも知れなかったからだ。 その晩、何時もとは違う夢を見た。


つづく

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