美人だった
ウチの「ホッタラカシ」の方針は、先の筆者自身のトップセールスの体験から来ている。決して社員教育として意図した訳ではなかったが、大概の人が(社員の殆ど100%が他からの転職者だが)ウチへ入社すると伸びる。自分は出来るのだと自信に満ちるのだろうか、特に三十過ぎの若い人は、見ていて驚くほど変貌する。「(ウチから)どこの他社へ転職しても、彼は成功するだろう」と思わせる位になる。
ほったらかして、筆者は実質彼らに何もしないのだから、社員は自分の手で自らを練磨したり教育したみたいな結果になっている。「仕事が人を創る」というのは、本当だと思う。作るのは上役ではない。筆者の物差しで測れば、(理由なく)無職である人への評価は大変低くなる。
さて、そう書く一方で、先に「今までに(自由なスタイルの会社に)なじめず、辞めていった人が少なくない」と書いた。成長著しい人が居る一方で、成長出来なかった人は結果的に辞めてしまう。(ウチでは)悪者扱いだが、実は成長しない人の方がむしろ普通人であって、多分70~80%の人がそうなのかと思う。
その意味で、ウチはエリート養成校みたいだ。ホッタラカシというのは、落ちこぼれを助けないという意味にもなるからだ。
筆者の経験から言えば、「自由にやらせて欲しい」と言いながら、多分その実、そう言う人の八割は「管理されたい・指示されたい・命令されたい・殴って欲しい・牢屋に入れて欲しい」と内心で願っているものだ。
冗談めかした言い方だが、本当と思う。言い換えれば指示待ち人間の人の方が数が多い。案外気づかないが、自由にやろうと思えば責任だけでなく自らの「創造力」も要求される。これを備えた人は思いの外少ないみたいだ。
「今日のデートは淡路島にあるウエステインホテルで昼食をして、そばにある温室の植物園に寄ろうよ。新聞によると珍種のサボテンがあるらしいよ」と言われて、「ああ、それはいいわ、行こう行こう」という追従者はラクだ。最初に「ウエステンホテルへ行こう」と提案するのは、追従者よりは創造力が要る、のに似ている。会社の仕事も同じ。
刑期を終えた囚人が、「お前は今日から自由だ、好きなようにやれ」と街中へ放り出されたら、何割かは自由を謳歌するどころか、再度何か小さな罪をわざと犯して、もう一度刑務所へ戻りたがるそうである。彼らは規則正しく管理され指示されるのを、(自由よりも)望むのだ。(職安へ行く面倒な)創造力なんてマッピラだ。指示のままに働き、決められた時間に三食給食されたがる。
自分で考えなくてよく、何もかも人が決めて呉れるのが精神的に一番ラクチンなのだ。
先の事務員の「私の仕事を誰もチェックしないのですか」というのは、誰かがチェックして呉れたら、自分は責任を問われず精神的にラクだから、ラクを要求しているのと同じだ。この事務員は結局自ら辞めた。美人だったし何とかしたいと思ったが、筆者には救いようがなかった。




