進退が窮まる
19.進退が窮まる
そうなっても、魔術に掛かったようで自分の歩みを停められなかった。ここで逃げる様子を見せると、獲物を逃がすまいと女が飛び掛かって来る。それこそ危険だ。五本の指にはナイフのような鋭い爪があるから、八つ裂きにされる。いや、あの背の高さだ、首に食らいついて先に血を吸うに違いない。吸い方は手慣れているから、血を抜かれて白くなってピクピク痙攣しながら、自分は死ぬに違いない。
もはや絶体絶命である。逃げる決断をすべき刻限が刻々と迫っているのに、ズルズルと私は女に引きずられるようにして歩いた。無理も無い、小二だから決断力が足りないのだ。
けれども、未だ一匹も狼が出た訳ではないし、タヌキ汁の大鍋が見付かった訳でもないのに、弱音を吐くのは好きな女の前で、流石に恥ずかしい。何せクラスで一番綺麗で、生まれて初めてこっちから声を掛けた貴重な女の子である。
命の危険よりも面子を重んじたのだから、矢張り自分は幼くして紛れも無く武士の血を引く「日本男児」だった。恥ずかしい振る舞いが出来ようか! カルシウムの注射を巡って、医院でヤブ医者と右腕か左か、べそをかきながらやり合うのとは訳が違う。
進退が窮まり必死に対策を考えた:わざと道の上に蹴躓いて、地面へ倒れ込もうか? 足を挫いた振りをするのだ。これ以上先へ進むのは物理的に「無理だ」という口実に使えるし、第一プライドが傷つかない。何より、泣きたい程の恐怖心を、女に悟られなくて済む。
しかしそうは言っても、大きな岩石を見つけて本気で膝をぶつければ、痛いだけ損だし、打ち所が悪ければ帰路で動けなくなる。そうなっては本当の一大事になる: 運良く狼に気付かれなくても、怪我で身動き出来なければ、何千という山の強力な蚊の集団に襲われる。ムカデもいる。こっちはチビだから、一晩掛けて体中の血をポンプのように吸われて、干乾びてしまう。女に血を吸われるか蚊に吸われるかだけの違いで、想像以上に山の中は危険が一杯なのだ。
蹴つまずく石の大きさの按配が難しいし道は所々ぬかるんでいるから、下手に転ぶと泥だらけになる。泥まみれの姿を、女の前に晒すのは、余りに醜悪だ。あれこれ考える内に、体の疲れと飛躍的に複雑化した思考に考えあぐねて、遂に小二の脳は限界に来てパンクした。突然私は運転を停止したのである。頭もぼんやりして、物理的にこれ以上動けなくなってしまった。
つづく




