たぬき汁
18.たぬき汁
帰路の山道を間違えずに、戻れるかも心配である。今なら未だ戻れそうだが、これ以上深く入るならーーー、自信が無かった。仮に夕方になって茶店に着くと、帰りは真っ暗だ。そんな状況になったら、私は彼女の前でベソをかくはめになる: 今晩泊めて欲しいと、すがりついて泣くだろう。そうなれば、恥も外聞も無い。
そこまで考えた時、流石に私はこれが最も危険で最後の選択だと直感した。帰れなくなり、真夜中になればきっと茶店の裏手で殺され、生き胆を抜かれるからだ。タヌキ汁にされてしまう: 暮らしを立てるのに、元々山の上には充分な食べ物が無い。タヌキが獲れない時には、麓で味の良さそうな子供を捕まえて来て、時々そうやって茶店の家族は、こっそり食べているに違いない。
誰も知らない山中だ、食べていないという証拠が何処にあろう。口数の少ない女は、問い詰めてもたやすくは口を割るまい。
茶店の奥には、子供を切り刻む大きな包丁が、ピカピカに磨かれて壁に掛けてあるに違いない。ありありと、これが実感出来た。自分の母親が家で時々、切れ味の悪くなった小さな包丁を砥石でといでいたのを思い出した。シュッシュッと軽い音がしていた。けれども、茶店の包丁は遥かにサイズが巨大だから、夜になって研ぐ時は、ゴーシ・ゴーシと気持ちの悪い音が辺りに響く。けれども大丈夫、山の中で誰にも聞こえはしないのだ。
女の背がクラス一番にあれ程高いのは、理由が有ったのだ。普段から子供の生き胆をたらふく食べて、栄養の回りが良いからああなる。便利な事に今日は、背の高い女の子がちびの男の子を手引きして、山へ入るのを見た者は居ない。食われてしまっても誰も気付かない訳だ。
仮に山道では狼に襲われたとしても、注射をしても痛くない方の左手を一本食わせている間に、体は充分逃げ切る事は出来る。だから、最低限命だけは助かる。けれども、茶店に連れ込まれて一旦生き胆を抜かれたらお仕舞で、残りの頭部と足だけで逃げ切れたという話は聞いた事がない。危険度は狼どころの騒ぎではないのに気付き、顔から血の気が引いた。
つづく




