仕分け方
古代人類の淘汰やジェノサイド(大量殺戮)の歴史を、使う言語の視点で眺める人は居ないかもしれない。けれどもホモサピエンスがたまたま保有した言語の質(=動詞を前に置く知性的・積極的・攻撃的な)が、他の種族のそれより勝っていたという風には考えられないか。
言語から生まれた物の考え方や哲学や文化(=武器とも言い換えられる)が一歩勝る結果となる。他の種族を滅ぼすのは充分に可能だろう。殺人鬼のホモサピエンスは異文化を受け入れるだけの、心の広さが無かったのだろう(過去形で書いたが、現在形で書くべきか)、だから実行した。
そんな太古の歴史はひとまずおいて、現代に戻る:
「人は言語で考える=言語に違いがある=思考法の違い=生み出す文化の違い」とするなら、その人が身に付けている言語とは、文化そのものだと思う。その意味で言えば「である」を文末に置く日本語では、ニュートン力学は生まれず宇宙へロケットは飛ばせなかったろうか、と思ってしまう。
だからこそ例えば、日系イギリス人石黒一雄のノーベル賞受賞を「日本人の事」のようにマスコミははしゃぎ回るが、日本語を第一言語としない人が果たして日本人と呼べるかと疑う。スポーツの世界でも似た事が言える。民族や人種の違いは肌の色や顔つきやパスポートで区別するよりも、第一言語が何かによる仕分けが合理的ではないか、と筆者は思う。
日本語では宇宙へロケットを飛ばせなかったかも知れないと書いたが、だからといって、それが悪い訳でもないように思う。人の幸せはロケットとは限らず童謡にある通り「♪笹の葉サ~ラサラーーー♪」の方が人の幸せに繋がる気がする。英語を勉強しながら、文末に「である」を置く日本語が筆者は好きなのである。




