誰も困りゃしない
もし日本語を学びたての西欧人がいたら、「私は健康である」という日本語に接すれば不合理だと言うかも知れない。そういわれたら大概の日本人は、「理屈は確かにそうだろうけど、細かい事をほじくるな。意味が通じりゃいいじゃないか! 誰も困りゃしないさ」と反論するに違いない。私たち日本人は文章の不合理性に「気づき難い」言語を持っていると言える。
日本人は健康そうに見える相手から「私は健康ーーー」という出だしさえ聞けば、文末に出てくる動詞の有無は余り大事に思わないのだろう。初めっから「私=健康」の数式なのだ。
「ーーー意味が通じりゃいい、誰も困りゃしないさ」と先に書いたが、実は困る人がいる。哲学者屋さんである。日本で哲学が発達しなかった理由がここにある、と筆者は見ている。「存在とは何か?」のような命題があるとおり、哲学は回答として厳密に「イコール」(=である)を求め続ける学問だ。西欧には数千年の昔から、ソクラテスやプラトンという哲学者が存在し、近代にもハイデッガーやデカルトの哲学者が「イコール」を求め続けた。
対して我が国に古来から哲学者が(多分)一人も居なかったのは日本語という言語の特性によるのではないか、と思うのである。イコールで繋ぐのが苦手なのだ。
トンカラリの言葉そのものに意味は無く、あるのは詩情だけだから、そこに「意味を求め」て「なぜ?何故?」とイコールを差し挟む余地が無い。




