天下取っても二合半
さて、筆者が会社を起業したのは1984年の秋。配偶者と二人でマーケット(=内部が薄暗かったから、当時はドロボウ市場と呼んでいた)内にあった五坪ほどの印鑑屋の後を借りて、スタートした。中年真っ盛りの43歳の時。せめて社名だけでも格好良くと思って、カタカナを混ぜた輸入商社だった。
スタートニ年後に、それまで過熱気味だった日本経済のバブルがはじけた。丁度、起業した途端にコロナ禍に見舞われたようなもので、銀行でさえ大小多数が消滅したから、世の中の風通しがよくなった。が、目障りな事にウチは生き延びた。
同じ社名のまま37年後の今は社員も増えて、また息子二人も一緒に働くようになり、規模は依然として小さいながらも、堅実にやっている。配偶者は繰り返し筆者に「成功は私のお陰よ」と言って、自分の功績を最大限に讃えている。筆者は逆らわない事にしている。
今回の話には質問が多いが、読者にも一緒に考えて欲しいと思うからで、もう一つ訊ねたい問い掛けがある。そんな風に筆者は経営者になった(=起業した)けれども、これは「人生として」良かったかどうか、である。(良かったと思うならば)「そう思う理由」は何かである。
思い付きやすいのは、お金持ちになれる、セレブな生活、威張れる、社会の為になる、自分の思うように仕事が出来るーーーの辺りが、理由だろうか。
起業する前までは実は筆者もそんな風に考えていて、それ以外の理由は思いつかなかった。けれども、三十数年経営者をやって来て老年に至って考えてみれば、先のどの理由も実は当たっていなかった気がする。 そう思う理由は、「生きる・生きている」とはどういう事かと考えるようになったからだ。
例えばお金持ちになっても、朝から晩までご馳走をバケツ一杯づつは食べられない。彼女を300人囲って、月一の男が果たして面倒を見切れるか。宮殿のようなベッドに寝てもたたみ一畳の上に寝ていても、寝てしまったら本人に区別はつかない。起きて半畳寝て一畳、天下取っても二合半なのである。




