現在を問う
人が真理・誠を求める姿勢は本来、年齢・性別・人種に関係しない筈だ。歳が入ったら真理や法則が急に変化するなら、それは本当の真理ではなく、ご都合主義に違いない。例えば老人に未来はないのだから、「人生如何に生くべきか」の質問もケセラセラも、若者だけへの限定販売で老人は対象外となる。ご都合主義の見本だ。
対して:
先の設問と言葉は似ているが、(未だ見ぬ将来を悩んだり過ぎ去った過去を反省するのではなくて)「(いま今日)生きている」とは何か、と問う人は少ないようだ。未来や過去を問うのなら、公平の為に「現在を問う」ことがあっていい筈だ。現在を問うのは、言葉を変えれば易し過ぎる設問である、なぜなら「貴方は今何をしていますか?」と問うのと同じだから。しかし、これが「生きている」意味だと思う。
今を問うのは時間軸として生々しいが、年齢・性別・人種に関係しないので、設問として有意義に思える。答え方が正しければ、真理に近いと言えるのではないか? 「どう生きるか」の他人事( ひとごと)みたいな設問より、少なくとももっと身近だ。「人生とは今日一日の事である」というお茶席で使う一期一会の言葉とも、相い通じる処があると思う。
「(いま)生きている」とは何かを考えてみた。先の通り息をしているのは必要条件だが、我々は人間だから少し違う:人は自然の一部で生物の一つではあるが、同じ息をしていても犬でも牛でもないし、ライオンでもカブトムシでもキノコでもない。だから設問には枕詞が付いて「人として、生きている」とは何か、となる。




