致命的な一撃
唯一の不幸は、夫の定年後数年が経ってから夫婦間は冷え込んだ。夫に離婚届を突き付けて、「一週間後に家を出て行くから」と彼女が宣言した。
先の巨額の遺産が手に入った時期と一致したから、お金が彼女を強気にしたのかも知れない。夫が判を押さず、結局手続きも面倒だからとなって、未だ法的整理は実行していない。よく聞いてみれば、なに「離婚されたら、独りでよう生きて行けない」と夫が半泣きになったのが真相で、彼女も殺人者になりたくなかったのだ。
妥協案というのは何時でもあるもので、結局家庭内別居となった。
理由は考え方の不一致だそうだが、第三者からみて我慢出来ないほどのものではなさそうで、どちらかと言えば世間知らずで完璧主義者の彼女の我儘に近いかも知れない。実兄が頓死して転がり込んだ遺産で次の日から突然大金持ちになるなんて殆どあり得ない偶然だったし、それまでは年1~2回の海外旅行を夫婦で楽しめたのは一体誰の稼ぎのお陰だったかと、夫にすれば言いたいところだ。
が、「過去は過去、今は過去ではない」と言う女の理論に、逆らえる夫などいない。新しい男を見つけたから出て行くと言われなかっただけでも、夫は不幸中の幸せと思わなければならない。夫婦間が元へ戻る見通しは、宇宙のブラックホールよりも暗い。
「やっと自由になれたわ」と、痴漢から身を振りほどいたみたいな言い方をした。致命的な一撃を食らって、夫は事態が何時か目の覚める悪夢なのか覚めない現実なのか、未だはっきり認識が出来ていないらしい。金を握った女の恐ろしさである。
かっては出世したなんて腹の足しにもならず、バカな元夫を見捨てておいて、そんな彼女が最近二泊で金沢市へ一人旅をした。積極的な気性で若い時から元々、一人で居る事を決して寂しがるタイプではない。だからこそ74の歳で一人旅も堂々と出来る。
帰阪して旅の報告を兼ねて私の配偶者へ一時間ばかりの長電話を掛けて来た。古都金沢の静かな美しさに浸るには「(なにせ夏場の盛りだから)暑すぎたわ」とお喋りする中で、ふと一言彼女がこう漏らしたそうである:
「金沢市で大きなホテルに泊まったんだけれど、夜になって見ていたTVのスイッチを切って、一人で泣いたーーー」
「どうして泣いたの?」と配偶者が訊くと:「ただ、虚しくてーーー」と、しんみりと応えた。孤独な億万長者である。




