アリストテレス
今回の接着剤のケースも含めて、開発の最初の取っ掛かりは、とても簡単な現象に見えた。何かを発明する意図はなかったし、ドアの内に入るのは容易に見えた。どのケースでもそうで、哲学で言えば「存在とは何か」みたいな入り口だった。
けれども「存在」の命題が難しいのと同じように、一旦開発の入り口を入ってみたら、あにはからんや、待っていたのは非常に緻密な観察と何日も堂々巡りするような繰り返しの思考が必要だった。頭の良さや知性のヒラメキは関係が無く、又そこに時間の感覚はなくて、ただ「なぜ・なぜ・なぜーーー」の連続する疑問ばかりがあった。
「なぜ」の一つ一つを地道に解明していった。休日の朝起きぬけにも、ベッドでうつらうつらしながら「なぜ」を思考したものだ。こんな時に案外会社に居て考えるよりもいい考えが浮かぶのが、複数回以上あったから不思議に感じた。
人はおかしな事と思うかも知れないが、根を詰めた思考をやりながら、「ここまで微細に観察したり思考を詰める人は、(自分以外に)外に居ないだろうなーー」という気がした。少なくも、そう感じるまで凡庸な頭で考えた。そんな事をやる自分を、別の自分が客観的に眺めるような奇妙な感覚に何度か襲われた。
哲学というのは「言葉の遊び」とか「暇つぶし」いう人も居る。古代のソクラテスやアリストテレスから始まった哲学は、数学や物理学みたいに時代を経て進化したり知識が集積されて高度化して行くものでもないようだ。
だから、そのうちに哲学という学問が世の中から無くなって、「昔は哲学という言葉遊びがあったそうだよ」という教養人の知識以上のものではなくなる、と自嘲気味に皮肉る哲学者もいるそうだ。
筆者は入門書から入って少しばかりの哲学書をかじった。わざと難しく書いている(=正しく言えば、易しく書いてくれていない、と言うべきだろうが、又は説明のための言葉足らずと言うべきかも知れないが)部分が多いが、面白いと思う処もあった。
複数冊を読んでから、「これが何の役に立つのか?」と、そう正直に思った。
けれどもーーー今では、筆者は「役に立たない」とは考えていない。数々の実験と思考を根気よくやり続ける自分を別の自分が眺めながら、ここに哲学がちゃんと生きていると思ったのである。机上でアリストテレスが考える哲学はその答えが本当に正解なのかどうかは、必ずしも分からない。偉いから正しい訳ではない。
けれども、接着剤のケースで示したように実験で確かめる哲学は、得られた回答が正解か不正解かを結果が判定してくれる。不正解な場合は物が出来ないからだ。これ以上に明確な断定はない。
真理を求めて根気強く微細に思考する哲学の習慣を身に着ければ、それを身に着けて日々の現象を探ってみれば、世の中が違って見える筈だとおもう。これが「発明のコツ」だと思う。
一方で最高学府内に棲むプロの哲学者は書籍や机の前から離れて、現実の生活の場に下りてくるべきだろうと思う。仕事として発明者がぴったりなのだから。そうすれば哲学がもっと人や世間に役立つものになるし、これでこそ、初めて「哲学を知る者は、幸せである、そして人を幸せにする」となるのではないか。
お仕舞い
2021.7.27




