哲学を行為に移す
と分かった風に書いたけれども、その一方で果たしてそのような哲学という学問が実利的・経済的にどう役に立つか、それとも「ローソクの火は消えたら何処へ行くか?」など、単なる「言葉遊び」に見えるから、実の処筆者には哲学をやる値打ちがよく分からない。
けれども、どのページで読んだか忘れてしまったが、印象に残った言葉があった:「哲学を知らない人は、幸せでない」という趣旨であった。考えるのに、これは「究極まで考える習慣を持てば、人生の深みが増す」という意味かと、筆者は勝手に解釈している。深みを知らないのは中途半端で、本当の幸せには到達できないという意味なのか。
人生を表面的に享楽的に生きている人もいれば、深く沈思黙考して(即ち、哲学をしながら)生きる人もいる。けれどもいずれが人として幸せかと迫られると、白黒を簡単には決められない気がする。むしろ筆者の過ぎし日の人生と年齢から思うには、はっきり白黒をつけるのではなく、前者と後者の適切な混ざり合いが人の幸せではないかと思う。
それでも一つ言えるのは、哲学を知る事は知らない事よりも人生を楽しめる気がする。退屈しのぎにはもってこいだ。
これ以上の論議は専門の哲学者に任せるとしても、関係書を読んで感じるのは、哲学が第一義とする「(曖昧にされているものを)究極まで問い詰めて行く」姿勢は、真理を探究する事だから、少なくともこの部分だけは「充分評価できる」ものと思う。敵視する相手であっても、良い処は評価するのが筆者の流儀だ。
筆者はこんな風に考えている:
先に書いた通り、筆者は「接着剤(=ボルトの緩み止め剤)とは何か?」という命題を立てた。そして、それをある程度(=とやや遠慮して言うけれども)「究極まで考えた」思う。
「何か?」を解明し、幾つかの視点から検討もし、水と氷の曖昧さも調べて、銃の文化もかき集めて、それなりの知見を得た。自分の立てた命題に対して、実験したり考えたりしたのは、哲学の一歩一歩「問い詰めて行く」プロセスと同じ道である。「哲学を行為に移した」のである。それが儲かるかどうかは別にして。
お陰で、人生の深みまでを知るに至らなくても物理現象の秘密の一つには迫れたから、スマホを眺めているよりは、哲学者の言う歓びには達したのだろうかと考えている。




