技術部長の嘆き是非も無し
さて、FN銃で長く道草を食ったが、一体今を時めく話題は何だったけーーー? あにはからんや、接着剤の話だったから、思い出して欲しい:
失職する数年前に話が遡るが、ある日モリコートという変わった名前の特殊グリース(油)が、ミロク製作所の組み立て現場へ初めて持ち込まれた。分量は数百グラムの小さなブリキ缶で一つ。先に紹介した通り、このグリースの見栄えは悪く粘り気があり、色は真っ黒だった。
この愛想の無い油の登場は何気ない風だったが、効果は神様みたいに驚異的だった。
高度でデリケートな仕事は何十年となく続いて来て、それが彼らの誇りだった。鉄砲の部品のすり合わせに汗を流していた組立職人らは、その日から仕事に「手を抜ける」ようになったのである。一滴塗布すればツルツルになったから、もうヤスリは要らない。銃工場で、伝統の技が廃れたのは時間を掛けて徐々に起きたのではなかった。たった一滴の特殊油の出現で、ある日あっという間に起きたのだ。
新型の油で手を真っ黒にしながら、職人達は「オレの給料が下げられるかもしんねえな」と心配した。筆者と親しかった工場の年配の技術部長が、後日嘆いていた:「モリコートの為に、仕上げ職人の腕が落ちたーーー」と。
科学の進化の怖さと言うか見事さというべきか、訳も無く感銘を受けたのを、技術部長の戸惑いの顔と一緒に、筆者は今も覚えている:「伝統と時代が変わるとは、こういう事かーーー」と思った。
昔、誰も予測しなかった明智光秀の突然の謀反に接し、信長がいまわの時に呟いたそうである:「是非(=良い・悪い)も無しーーー」。モリコートの出現は、高知の片田舎で時代を変えた。




