道草
ひょんな切っ掛けから銃の話になってしまった。エッセイを書き始めた時には、意図していなかった。途中で軽く触れる積りで銃の話を挟んでいる内に、こんな事を体験した人は日本中探しても筆者以外に誰もいないと気づいた。
銃というのは特殊なもの(=一種の爆発物)だから、世間のあちこちにある話ではない。ならばここで道草をしようと思い直して、半分報告書みたいに書いた次第である。
この体験で人生を学んだなんて大げさな事は言わないが、異質で得難い仕事にたずさわった経験は、後半生の筆者の物の考え方と生き方に柔軟性を与えて呉れたかも知れない。エンジニアが陥りがちな精度やルール万能という頭の固い物の見方を排して、何が大事かを一歩引いて考えるクセを教えた。
現在筆者は、開発の仕事をやっている。既に開発した数点の新製品に関して、そこに応用されている原理はどの製品も誰もが気づきそうな簡単なルールに基づいている。決して複雑怪奇でもないし高度でもない。だから筆者が原理を口で説明すると、それも1分以内に終了する簡単さだから、誰もがびっくりする。
そんな簡単な事に、どうして「(筆者みたいな年寄りではなく)ワレが気づかなかったか」と、聞く人は大抵がプロなので、ありありと顔に悔いが楷書で書いてある。
何かを発明しようと意図して、筆者が老骨に鞭打って考え付いた訳ではない。年齢に関係なく、要は柔軟性を持った物の見方が大きかったと思う。みんな固定観念に囚われていた。この意味では、高知でのAuto-5銃の経験が今に生きていると言えるかも知れないと思う。




