キツネの嫁入り
2.キツネの嫁入り
国鉄(現JR)須磨駅から東に位置するのに、学校が「西」須磨小学校というのはヘンだが、昔も今もヘンなままの校名で通している。級友の中で私の家が学校から一番遠く、潮見台町に住んでいた。
学校から自宅への帰路は複雑だ:
校門から、少し登り坂になった離宮道へ出る。やがて左へ曲り山陽電鉄の須磨寺駅の踏切を跨ぐ。門前町の商店街を通り抜け、須磨寺の境内に入り込み、それを通り抜けると広い土埃りの道に出て、川崎重工業の家族寮の中へ勝手に入り込み、その長い廊下を突きあたりで寮を抜けると、やがて山下汽船の社長だと聞いていた広大な屋敷前を歩く。
そのまま坂道が一番きつくなって三百米程歩き、更に折れ曲がって五百米、やっと自分の家だ。子供心に、学校から自宅まで中国のタクラマカン砂漠を歩くみたいに、着々と延々と長大な道だと思っていた。砂漠ならたまにはオアシスがあるが、昔の通学路にはマクドもダスキンドーナツもない。三~四キロの道のりを、飽きっぽい性格だから飽き飽きしながら一時間半位掛かった。
毎日の往復は、確かに一種の運動であった。体育の時に女先生が、運動をすれば体が丈夫になると言った。無論これは嘘だが、嘘を立証するのに半世紀以上かかった。証拠に通学で六年間歩いたのに、私の体格はこの歳になっても丈夫どころか貧弱なままだからだ。苦情を持ち込もうにも、当時の女先生は既に亡くなっている。
先に書いた通り、住居は潮見台町:
深呼吸すれば潮の香りがして何となく気持ちがよさそうな高台の町だが、買い物に不便で現在もバスが通わず、通うのは山のカラス位なもの。学校から遠いだけでなく、通勤のお父さん達も須磨駅から、道幅は広いが両側にこんもり木の繁った急坂を、三~四十分も歩かされる苦行の住宅地である。
先の急坂を登ると、大人も子供も消耗して急激に衰えたが、車だって同じ。当時オートマ車は無かったから、駅からタクシーに乗れば、慣れない運転手が急坂の途中でクラッチ合わせを間違えると事だ。車が三米ほどバックするから、後を付けて来た狐を轢き殺す。だから通称「キツネ坂」と呼ばれた位に急坂がきつい。
この坂を昼間歩いていて、空が晴れているのに小雨が降れば、「キツネの嫁入り」と呼び、ここでは傘をささないのが習慣である。嫁入りが済めば、本当に直ぐに降り止んだ。昭和二十四・五年に狐がどの程度棲息していたか怪しいが、「嫁入りする」程度にはいたようだ。
けれども、タクシーに轢き殺される数が多かったせいで、昭和の末頃には坂から絶滅したと、今の潮見台の人達は上品なものいいで残念がるが、涙を絞る程ではない。
そんなに怪しげで不便だのに、何故かこの町の先住民(昔の話だから、敬意を込めて「先」と付けただけで、未開人の意味ではない)には、一種の誇りみたいなのがあった。今でこそXX台という地名が大流行で、谷底へさえそんな呼び名を付けかねない勢いだが、六十年前の昔に潮見台は間違いなく希少価値で、高台の上から下界を睥睨していたものだ。
けれども、立場を変えて下界から眺め上げれば、そこには「台」から落ちこぼれそうに住宅がぎっしり建て混んでいた。消防車も入り難いから、一ヶ所で火事でも起きたら、ひとたまりも無い。だから危険地帯で、多少のやっかみも込めて「あそこへ住むのは、一種の信仰だ」と、皮肉る人もいた。
ただ、今の歳になっても、この地区で一件でも火事が出たとは聞いていないから、これは住民達の几帳面さの証になるであろう。潮見台の人は、誇りを持ってよい。
つづく




