自分の物差し
もう一度日経の「私の履歴書」に戻る:コラムに書く人は、人生を掛けて一つの「業績を成し遂げた人」という事になろうか。人のため・会社のため・社会のために立派な業績を上げた人達だ。文化勲章者もいるから、平たく言えば「いわゆる」出世した人達だ。ピアニストもおれば、有名は小説家もいるし、どこかの理事長も居る。確かに、充分敬意を払うに値する。
けれどもーーーと敢えて言いたい。一歩引いて考えてみると、それらは日経新聞や世間の物差しで測られた人の軽重と言える。対して、世間から見たら全く華々しくなくても、人を測る物差しはソレだけではないと思う。
ならば、もう一つの物差しは一体何処にあるか? 遠くには無く、自分の中にあるのではないか?
具体的に言えば、例えば勲章を貰って世間から誉めそやされてお金持ちにもなったとしよう。けれども、世間から帰宅し一旦家の門をくぐってみれば、冷え切った家庭でただ索漠とした空気があるばかりなら、本当に幸せかである。有るのは憎しみばかりで、愛する人も無く愛される人も無いとすれば、人生生きる価値が無いと私なら思うが、どうだろうか。
無論それでよしとする人も確かにいて、それを否定はしない。けれどもーーー、「幸いにして」私は違う。
ここの処が「自分の物差し」であり、世間の評価イコール自分の価値とは限らない、のに気づく。たった一度この世に与えらた命に対して、究極は「人の幸せ」・「精一杯生きる」とは何かに行き着く。世間体や出世や人間社会が作った評価表は、側面支援として役に立たないとは言わないが、それが幸せの全部ではない。




