表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
736/1692

自分の物差し

 もう一度日経の「私の履歴書」に戻る:コラムに書く人は、人生を掛けて一つの「業績を成し遂げた人」という事になろうか。人のため・会社のため・社会のために立派な業績を上げた人達だ。文化勲章者もいるから、平たく言えば「いわゆる」出世した人達だ。ピアニストもおれば、有名は小説家もいるし、どこかの理事長も居る。確かに、充分敬意を払うに値する。


 けれどもーーーと敢えて言いたい。一歩引いて考えてみると、それらは日経新聞や世間の物差しで測られた人の軽重と言える。対して、世間から見たら全く華々しくなくても、人を測る物差しはソレだけではないと思う。

 ならば、もう一つの物差しは一体何処にあるか? 遠くには無く、自分の中にあるのではないか?


 具体的に言えば、例えば勲章を貰って世間から誉めそやされてお金持ちにもなったとしよう。けれども、世間から帰宅し一旦家の門をくぐってみれば、冷え切った家庭でただ索漠とした空気があるばかりなら、本当に幸せかである。有るのは憎しみばかりで、愛する人も無く愛される人も無いとすれば、人生生きる価値が無いと私なら思うが、どうだろうか。

 無論それでよしとする人も確かにいて、それを否定はしない。けれどもーーー、「幸いにして」私は違う。


 ここの処が「自分の物差し」であり、世間の評価イコール自分の価値とは限らない、のに気づく。たった一度この世に与えらた命に対して、究極は「人の幸せ」・「精一杯生きる」とは何かに行き着く。世間体や出世や人間社会が作った評価表は、側面支援として役に立たないとは言わないが、それが幸せの全部ではない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ